本研究は、社会における建築に関わる情報の交換と循環において「近現代建築アーカイブズ」を捉えると共に、建築アーキビストの役割を考察し、ひとつのモデルを提示するものである。具体的な検証素材とするのは、法政大学における大江宏アーカイブ構築と活用の事例である。近現代建築資料保存を担ってきた建築史学における蓄積と、アーカイブズ手法を理論的に扱ってきたアーカイブズ学の両方を土台とし、これらの領域を横断してその知見を応用し、それぞれの領域のみでは持ち得ない複眼的視座を獲得することを目指している。
 そもそも「近現代建築資料」とは所与の実体ではなく、ある主体によって何らかの目的のもとに資 料として見出されたものであり、その指し示す対象は、時代や主体との関係によって変化する。研究者は建築史の研究対象として近現代建築資料を見出し、資料内容の研究を進めることで、近現代建築アーカイブズの保存基盤を作ってきた。一方、アーカイブズの源泉となる資料や情報は、建築生産の過程において常に作成・使用され続けている。
 今日、近現代建築アーカイブズにはより広く社会的な役割が求められているが、その言葉が指し示す対象は明確ではなく、アーカイブズ手法の検証は端緒についたばかりである。建築領域においてアーキビストが果たすべき役割についても、充分に議論はされていない。このような状況に対して、その様々な価値ゆえに使用・維持・保存されてきた近現代建築資料を複数の観点から捉え直し、それらの総体に対して近現代建築アーカイブズという手法・活動をどのように位置付けることができるかを考察する。
 本研究は、3部に分けられる。第1部(1~3章)では、「近現代建築資料」という言葉が指し示す対象を、文化財、建築史研究、建築生産という3つの観点から捉え、近現代建築アーカイブズ成立の背景を整理する。第2部(4~6章)では、大江宏アーカイブ〈記述〉1 の全体像と、新たに考案した〈建築物記述〉の検討過程とその意義を提示すると共に、アーカイブ構築の過程とコミュニティとの関係においてアーキビストが果たした役割を検証・考察する。第3部(7~8章)では、米国の既往研究と実践事例を参照しながら、近現代建築資料と建築物を組み合わせた大江宏アーカイブの活用実践を検証し、建築教育における活用の場を通じてアーキビストが果たすことのできる役割について考察する。
 1章では、文化財保護の対象となってきた近現代建築資料の範囲と経緯を明らかにした。文化財保護法下における指定・登録文化財には、現在では複数の近代建築資料群が含まれており、1960年代以降の近代建築の指定増加に伴い、附指定には相当数の近現代建築資料が確認できる。一方、文化財とは文化財保護制度において定められる対象であるのに対して、アーカイブズとは資料(群)のみならず、保管場所や機関、制度、活動も指し示す幅広い概念であり、これらの言葉は位相が異なる。近代以降の文化財保護政策遂行に伴って生み出されてきた資料も、文化財に関わる重要なアーカイブズ資料である。
 2章では、建築史研究における近現代建築資料保存の経緯を明らかにした。1950年代以降の近代建築史研究の進展に基づき、1960年代以降の近代建築保存の動きに後押しされて、1980年代後半から近現代建築資料の包括的な把握が試みられるようになる。1990年代からは、組織的な保存や資料整理も行われた。戦後の民間史料保存運動に始まるアーカイブズ学の確立は、近現代建築資料のアーカイブズ としての把握にも影響し、2010年代からはアーカイブズ学に基づいた研究や実務も進んできた。一方、近現代建築資料に関わる権利の扱いや公開基準の検討、デジタルデータの長期保存など、アーカイブズとしての運営上の課題も明らかになってきている。保存対象や使用目的もより多様になり、現代における近現代建築アーカイブズは、より広い社会的役割を求められている。
 3章では、建築生産の過程で作成・使用される資料や情報の管理について、ドキュメンテーションという言葉を手がかりに明らかにした。戦後の情報増大や建築生産技術の発展と複雑化を背景に、1960年代を中心に盛り上がりを見せたドキュメンテーション活動だが、1980年代以降の情報技術の発達に 伴い、その活動は縮小していった。建築ドキュメンテーション活動には、文献書誌情報の分類、建築生産における情報処理、建築に関わる記録活動、の3種類がみられる。建築生産における情報処理 は、業務過程と結びついたものとして考えられており、コンテクストの分析・記録・維持を目指す アーカイブズとの共通性が見出せる。レコードキーピングの観点からも、建築ドキュメンテーションと建築アーカイブズは、連続したものとして捉えることができる。これらは、建築という創造的活動の情報基盤をなすものとして、その理念を共有しているといえる。
 4章では、大江宏アーカイブ〈記述〉の全体像とその目的を、ファインディング・エイドに即して示した。大江宏アーカイブ〈記述〉には、資料の内部構造を示すISAD(G)による〈記述〉と、外部コンテクストとの関係を示す2種類の〈記述〉がある。法政大学における大江の教育研究活動に焦点を当てた〈記述〉は、法政大学において保管・活用されていることを考慮に入れた、大江宏アーカイブ固有の特徴を表す〈記述〉である。
 5章では、大江宏アーカイブの外部コンテクストとの関係を示す〈建築物記述〉について、その検証過程と意義を示した。建築アーカイブズにおいて、資料の主題であり作成の目的ともなる「建築物」は、資料理解のために非常に重要な要素である。「建築物」に着目し、資料作成のコンテクストである建築生産過程の理解を促進し、検索の補助となり、アーカイブズの管理運用においても有用となる〈建築物記述〉を検討して提案した。
 6章では、大江宏アーカイブの構築において、アーキビストが果たした役割を検証した。大江宏アーカイブは、利用と普及が一体となった活用に駆動され、育てながら運用するアーカイブ活動である。アーキビストは、〈記述〉や普及活動を通じて、コミュニティにおける積極的な仲介者としての役割を果たしうる。一方で、保管場所である法政大学というコミュニティも、アーキビストに対して影響を与えており、その影響は編成記述や普及活動の方向性に反映されている。このようなアーカイブズ とコミュニティとの関係は、コミュニティにおける資料活用の動機を生み出すと同時に、資料群の継承可能性を高めるといえる。
 7章では、アーカイブズ資料の教育活用が盛んな米国の先行事例を取り上げ、その理念を探ると共に、日本における応用可能性を考察した。一次資料教育とは、一次資料を活用すると共に、一次資料とは何かを教え、それらを使うために必要となるリテラシーを教える教育である。アーカイブズにおいては、資料内容に応じて、専門領域の知識と一次資料リテラシーやアーカイバル・リテラシーを組み合わせて教える。日本の建築教育においては、これらのリテラシー教育は体系的には行われてきていないが、建築史研究における一次資料の使用を通じて、一次資料に関わるリテラシーを育んできた といえる。
 8章では、大江宏アーカイブの教育活用事例を、前章に照らして検証し、建築教育においてアーキビ ストが果たしうる役割について考察した。アーキビストは、資料を管理しその利用を助けると共に、建築物をはじめとしたモノと資料を適切に組み合わせた教育機会を提供することにより、一次資料リテラシー及びアーカイバル・リテラシー向上に寄与することができる。建築に関わる資料や記録が、複数の関係者や建築物との連関から成り立つコンテクストの中にあることを、編成記述や普及活動を 通じて適切に伝える努力をすることは、アーカイブズに関わるコミュニティの活性化と拡大に寄与するのみならず、建築アーキビストの職能の確立にもつながる。
 本研究の結果、現代の建築アーキビストがその役割を果たす上で考慮すべき点は、以下であると結論づける。まず、建築生産過程と、関係者とその機能及び建築物との連関において、近現代建築アーカイブズを捉えることである。建築アーキビストは、近現代建築アーカイブズの特徴的なコンテクストとしての建築生産過程を理解し、扱うアーカイブズの編成記述や普及活動に反映することが望ましい。次に、アーカイブズ記述において、資料群の内部構造と共に、外部コンテクストを表現するよう努めることである。資料群が有する複数のコンテクストを理解し、資料群に特徴的な外部コンテクス トを含めて、適切に表現しようとする努力が必要である。最後に、コミュニティとの関係において、 近現代建築アーカイブズとアーキビストの役割を捉えることである。アーキビストは、公益性の高い その職能に基づき、既存のコンテクストと資料群の新しい関係を結び直すと共に、積極的に新たなコミュニティとの結びつきを広げていくことで、アーカイブズの存在意義と共に、その継承可能性も高めることができる。また、建築アーカイブズの場合は、コミュニティとの結節点のひとつとして、建築物が重要な実体となる。

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1 本研究においては、資料群の内容やコンテクストを示すアーカイブズ記述を、〈記述〉と表す。