本研究は、近世後期における薩摩藩の財政構造とその運営について、大坂銀主との関係を踏まえながら分析することを目的としている。かつて薩摩藩は「雄藩」として天保期以降の財政改革を成功させた事例とされてきたが、藩財政研究・大坂金融市場の研究をめぐる進展を踏まえ、その再評価を行う必要がある。本研究では従来の研究が実態分析を十分に行えていなかった島津斉彬藩政期を中心に、従前の文化・文政~天保期にかけて行われた財政改革との連続性を意識する形で検討を行うものである。
第1部では近世後期薩摩藩における藩財政運営の特質の解明を行った。まず第一章では、近世後期薩摩藩の藩政の方向性を規定した重要な事件として、隠居・島津重豪と藩主・島津斉宣の対立に起因する家中騒動=文化朋党事件の処理をめぐる対幕交渉を検討した。重豪は事件発生当初より幕閣と情報共有・内願交渉を繰り返しており、幕府権威を積極的に利用して事態収拾を図っていた。しかしその背景には御台所・茂姫への有力な内願ルートを有する斉宣への危機感と国許藩役人への不信感が存在しており、そのことが以後の藩政の特徴とされる「藩主直仕置体制」=「御内用」の強化につながったと位置づけた。
第二章ではそのような藩政下で築かれた天保財政改革後の薩摩藩財政の構造について、弘化・嘉永期の状況に対する分析を行った。国許では砂糖専売制の強化が南島への恒常的な廻米=南島続を発生させており、囲米政策との連動・大坂廻米の削減、御用船を通じた大坂送金が行われていた。大坂では膨大な江戸表支出を支えるための産物売り払いがなされて正貨が獲得されると同時に、借金を通じ銀主集団との関係も維持された。また、当該期には「御内用」藩主手許会計への資金蓄積も行われており、国許での大坂廻米の削減・領内払いも、「御内用上り」での措置とされていたことを明らかにした。
これに続き、第三章では島津斉彬藩政期の財政構造分析として、天保財政改革によって築かれた御内用金・御宝蔵格護金の当該期における活用を検討した。斉彬による近代化事業は御内用金会計によって賄われており、毎年巨額の大坂からの送金によって財源は確保されていた。同様の枠組みは江戸表会計でも確認され、安政大地震への対応、洋式船の維持管理費用が御内用金で賄われていることを確認した。当該期には従来とは逆の大坂→国許への送金構造が新たに生じ、江戸、国許双方で財源を確保することが必要となった。国許では御宝蔵格護金五〇万両の活用が模索されるが、父・斉興の強い規制により十分に果たされなかった。斉彬は藩主の意向を強く反映できる「御内用」が強権を振るう従前の藩財政運営を積極的に活用していたが、それ故に父・斉興の影響力を排除できず、限界にも直面していたと評価した。
第四章では嘉永・安政期の鉱山(山ヶ野金山・錫山)開発と藩財政との関係について分析を行った。ペリー来航後の海防強化を受け、江戸市中では青銅砲原料となる錫の需要が高まる。幕府は薩摩藩の国産品として大量に供給される純良な錫を「御買上」によって確保しようとした。阿部正弘政権と協調する斉彬はこれに応えつつも、当初より「山方御取救金」拝借の実現に利用することを目指した。しかし錫の需給が安定化すると錫山名目での拝借金出願は放棄され、経営状態のよくない山ヶ野金山に対する「御取救」名目での二万両拝借が実現する。斉彬がこうした幕府から借金を進めたのは、前章までに見たような当該期の財政支出構造の変化を踏まえた対応であった。
第五章では総括として、斉彬による従前の財政運営体制の改革構想と、彼の死後文久・慶応期における展開を分析した。趣法方による「御内用」名目での財政運営は常に担当者の恣意と会計の不透明性が批判されており、斉彬も同様の認識を有していた。安政期には実際に趣法方役人の御内用金不正会計事件が発生したため斉彬は趣法方改革を構想し、監察体制の強化を目指した。また、会計帳簿「総帳」を通じた諸事業の状況把握にも積極的であった。斉彬の急死によって趣法方改革は実現しなかったが、その後島津久光が藩政の実権を握り、趣法方は勝手方へと改組された。しかし従前の趣法方人員は引き続き勝手方を担い、いわば「御内用」が藩財政全体を覆う形で拡大を続け、維新期に至ることになった。
第2部では、十九世紀以降の薩摩藩財政と大坂銀主との関係を検討した。
まず第六章では薩摩藩の大坂銀主に対する藩債整理が本格化する文化・文政期における藩の借銀交渉について、鴻池善右衛門家の史料をもとに分析した。享和元年以降、藩は利下げ・元金支払い停止などの措置を強めるが、文化朋党事件後、二度目の藩政介助に臨んだ重豪は当初より自身の側役・側用人を大坂に派遣することで積極的に頼談交渉に関与した。しかし度重なる「仕法」の延長・変更と財政運営の失敗、年賦調達銀による強引な出銀要請などが続いた結果、藩と従来の大坂銀主「古組」との関係は破綻し、藩は「新組銀主」という新たな銀主集団から資金を得ることになる。
その結果、従来の銀主「古銀主」に実施されたのが天保七年の藩際五〇〇万両に対する二五〇ヶ年賦償還措置(天保七年仕法)であった。第七・八章では、薩摩藩「雄藩」化のきっかけの一つとも位置づけられ、強固な藩権力の発動として有名ながら、その実態解明がほとんどなされてこなかった仕法の再検討を行った。仕法の実施過程を見ると、藩は仕法以後も返済を着実に継続する用意をしており、銀主の多くもこれを受け入れ、返済を受け続けていることが確認された。取引断絶という従来のイメージとはやや異なり、藩と銀主の双方が、仕法後の関係持続を前提としている様子がうかがえる。しかしそれは有力な館入との共生関係を最低限維持するもので、そこに含まれない中小銀主は切り捨てるという厳しい苛法の一面も持ち続けた。仕法の対象債権を把握するために作成されたとみられる「古銀主其外口々御借入金之覚」という史料からは、薩摩藩に少額の債権を有する膨大な数の大坂銀主の存在が明らかになった。
第九章では、彼らを含む大坂銀主の存在が斉彬期の国産品仕法とどのような関係にあったのかを明らかにするために、藩が日向の藩領で行った山林事業・日州御手山仕法を検討した。御手山仕法は当初より大坂を有力な市場として定めていたが、最有力の古銀主・辰巳屋久左衛門に一手売支配を任せることで進出が図られた。また御手山仕法はペリー来航後の情勢下で、阿部正弘政権の進めた海防強化にも間接的に組み込まれており、幕府御用の大砲鋳造を担った佐賀藩においては、薩摩藩日州御手山産の白炭が反射炉燃料として用いられていた。
しかし安政期を過ぎると一手売支配体制への反発が表面化し、辰巳屋の独占によって疎外された天保期以前の取引相手である日向問屋が、日向の船主たちと協力しこれを突き崩そうとする動きに出る。しかし、筆頭銀主としての辰巳屋の存在感は大きく、これらの動きは頓挫することになった。この動向は、天保七年仕法を経てなお持続した藩―銀主関係が、斉彬期には国産品仕法を通じて再び強化される過程と位置付けられる。
これらも踏まえ、第十章では斉彬期における大坂銀主集団との関係、および彼の死後文久・慶応~明治期における変化・再編について分析した。天保七年仕法後、藩と古銀主との関係は一時疎遠化するものの、断絶には至らなかった。そして島津斉彬の藩主就任とともに積極的に関係の再構築が図られ、新組・古組双方からの大規模な資金調達が実現するようになる。藩は国産品の利益や借入金などを預け銀とすることでこれらの銀主を引き付けていた。斉彬死後も支出の増加は続き、天保期以来の古組・新組という大枠を維持しながらも頼談範囲は拡大する。しかし維新期における政治的・軍事的動乱は藩―銀主関係にも変化を与えた。正金での資金調達を志向する藩に対して銀主ごとの資金調達能力には差異が生じ、さらに鳥羽・伏見の戦い以後、戊辰戦争の動乱は新組銀主に打撃を与え、藩は資金調達体制の再編を迫られた。維新後、新組・古組に三井を加えた従前の体制から、三井・平野屋五兵衛・鴻池善右衛門の「百町堀ノ銀主」体制へと移行することになった。
最後に終章では本研究の分析内容を総括した。近世後期薩摩藩財政の特質として、島津重豪の藩政・財政改革の規定性の強さが挙げられる。具体的には幕府権威の積極的な利用と、趣法方による「御内用」名目での強力な権限が拡大である。その延長線上にある島津斉彬藩政下での財政運営の特徴としては、①送金構造の変化に対応した国許・江戸での財源確保の推進、②国産品開発における幕府・有志大名との連携、③積極的な支出帳簿の作成・把握の三点を指摘することができた。また大坂金融市場との関係では、文化・文政期から明治初期までの藩―銀主関係を連続的に明らかにし、二五〇ヶ年賦償還のような苛法を経てなお藩は銀主との関係持続を志向していたことや、斉彬期の国産品仕法の展開が彼らとの関係再構築をもたらしたことを指摘した。
さらに近代の鹿児島藩/県および公爵島津家の財政をめぐる問題との関係では、本研究の明らかにした藩財政上の「御内用」の拡大過程が「御家」と「藩」それぞれの財政の分界を不明瞭にし、これらの境界が曖昧とされた明治初期の状況を招来したことを展望した。
以上が本研究の成果となる。
第1部では近世後期薩摩藩における藩財政運営の特質の解明を行った。まず第一章では、近世後期薩摩藩の藩政の方向性を規定した重要な事件として、隠居・島津重豪と藩主・島津斉宣の対立に起因する家中騒動=文化朋党事件の処理をめぐる対幕交渉を検討した。重豪は事件発生当初より幕閣と情報共有・内願交渉を繰り返しており、幕府権威を積極的に利用して事態収拾を図っていた。しかしその背景には御台所・茂姫への有力な内願ルートを有する斉宣への危機感と国許藩役人への不信感が存在しており、そのことが以後の藩政の特徴とされる「藩主直仕置体制」=「御内用」の強化につながったと位置づけた。
第二章ではそのような藩政下で築かれた天保財政改革後の薩摩藩財政の構造について、弘化・嘉永期の状況に対する分析を行った。国許では砂糖専売制の強化が南島への恒常的な廻米=南島続を発生させており、囲米政策との連動・大坂廻米の削減、御用船を通じた大坂送金が行われていた。大坂では膨大な江戸表支出を支えるための産物売り払いがなされて正貨が獲得されると同時に、借金を通じ銀主集団との関係も維持された。また、当該期には「御内用」藩主手許会計への資金蓄積も行われており、国許での大坂廻米の削減・領内払いも、「御内用上り」での措置とされていたことを明らかにした。
これに続き、第三章では島津斉彬藩政期の財政構造分析として、天保財政改革によって築かれた御内用金・御宝蔵格護金の当該期における活用を検討した。斉彬による近代化事業は御内用金会計によって賄われており、毎年巨額の大坂からの送金によって財源は確保されていた。同様の枠組みは江戸表会計でも確認され、安政大地震への対応、洋式船の維持管理費用が御内用金で賄われていることを確認した。当該期には従来とは逆の大坂→国許への送金構造が新たに生じ、江戸、国許双方で財源を確保することが必要となった。国許では御宝蔵格護金五〇万両の活用が模索されるが、父・斉興の強い規制により十分に果たされなかった。斉彬は藩主の意向を強く反映できる「御内用」が強権を振るう従前の藩財政運営を積極的に活用していたが、それ故に父・斉興の影響力を排除できず、限界にも直面していたと評価した。
第四章では嘉永・安政期の鉱山(山ヶ野金山・錫山)開発と藩財政との関係について分析を行った。ペリー来航後の海防強化を受け、江戸市中では青銅砲原料となる錫の需要が高まる。幕府は薩摩藩の国産品として大量に供給される純良な錫を「御買上」によって確保しようとした。阿部正弘政権と協調する斉彬はこれに応えつつも、当初より「山方御取救金」拝借の実現に利用することを目指した。しかし錫の需給が安定化すると錫山名目での拝借金出願は放棄され、経営状態のよくない山ヶ野金山に対する「御取救」名目での二万両拝借が実現する。斉彬がこうした幕府から借金を進めたのは、前章までに見たような当該期の財政支出構造の変化を踏まえた対応であった。
第五章では総括として、斉彬による従前の財政運営体制の改革構想と、彼の死後文久・慶応期における展開を分析した。趣法方による「御内用」名目での財政運営は常に担当者の恣意と会計の不透明性が批判されており、斉彬も同様の認識を有していた。安政期には実際に趣法方役人の御内用金不正会計事件が発生したため斉彬は趣法方改革を構想し、監察体制の強化を目指した。また、会計帳簿「総帳」を通じた諸事業の状況把握にも積極的であった。斉彬の急死によって趣法方改革は実現しなかったが、その後島津久光が藩政の実権を握り、趣法方は勝手方へと改組された。しかし従前の趣法方人員は引き続き勝手方を担い、いわば「御内用」が藩財政全体を覆う形で拡大を続け、維新期に至ることになった。
第2部では、十九世紀以降の薩摩藩財政と大坂銀主との関係を検討した。
まず第六章では薩摩藩の大坂銀主に対する藩債整理が本格化する文化・文政期における藩の借銀交渉について、鴻池善右衛門家の史料をもとに分析した。享和元年以降、藩は利下げ・元金支払い停止などの措置を強めるが、文化朋党事件後、二度目の藩政介助に臨んだ重豪は当初より自身の側役・側用人を大坂に派遣することで積極的に頼談交渉に関与した。しかし度重なる「仕法」の延長・変更と財政運営の失敗、年賦調達銀による強引な出銀要請などが続いた結果、藩と従来の大坂銀主「古組」との関係は破綻し、藩は「新組銀主」という新たな銀主集団から資金を得ることになる。
その結果、従来の銀主「古銀主」に実施されたのが天保七年の藩際五〇〇万両に対する二五〇ヶ年賦償還措置(天保七年仕法)であった。第七・八章では、薩摩藩「雄藩」化のきっかけの一つとも位置づけられ、強固な藩権力の発動として有名ながら、その実態解明がほとんどなされてこなかった仕法の再検討を行った。仕法の実施過程を見ると、藩は仕法以後も返済を着実に継続する用意をしており、銀主の多くもこれを受け入れ、返済を受け続けていることが確認された。取引断絶という従来のイメージとはやや異なり、藩と銀主の双方が、仕法後の関係持続を前提としている様子がうかがえる。しかしそれは有力な館入との共生関係を最低限維持するもので、そこに含まれない中小銀主は切り捨てるという厳しい苛法の一面も持ち続けた。仕法の対象債権を把握するために作成されたとみられる「古銀主其外口々御借入金之覚」という史料からは、薩摩藩に少額の債権を有する膨大な数の大坂銀主の存在が明らかになった。
第九章では、彼らを含む大坂銀主の存在が斉彬期の国産品仕法とどのような関係にあったのかを明らかにするために、藩が日向の藩領で行った山林事業・日州御手山仕法を検討した。御手山仕法は当初より大坂を有力な市場として定めていたが、最有力の古銀主・辰巳屋久左衛門に一手売支配を任せることで進出が図られた。また御手山仕法はペリー来航後の情勢下で、阿部正弘政権の進めた海防強化にも間接的に組み込まれており、幕府御用の大砲鋳造を担った佐賀藩においては、薩摩藩日州御手山産の白炭が反射炉燃料として用いられていた。
しかし安政期を過ぎると一手売支配体制への反発が表面化し、辰巳屋の独占によって疎外された天保期以前の取引相手である日向問屋が、日向の船主たちと協力しこれを突き崩そうとする動きに出る。しかし、筆頭銀主としての辰巳屋の存在感は大きく、これらの動きは頓挫することになった。この動向は、天保七年仕法を経てなお持続した藩―銀主関係が、斉彬期には国産品仕法を通じて再び強化される過程と位置付けられる。
これらも踏まえ、第十章では斉彬期における大坂銀主集団との関係、および彼の死後文久・慶応~明治期における変化・再編について分析した。天保七年仕法後、藩と古銀主との関係は一時疎遠化するものの、断絶には至らなかった。そして島津斉彬の藩主就任とともに積極的に関係の再構築が図られ、新組・古組双方からの大規模な資金調達が実現するようになる。藩は国産品の利益や借入金などを預け銀とすることでこれらの銀主を引き付けていた。斉彬死後も支出の増加は続き、天保期以来の古組・新組という大枠を維持しながらも頼談範囲は拡大する。しかし維新期における政治的・軍事的動乱は藩―銀主関係にも変化を与えた。正金での資金調達を志向する藩に対して銀主ごとの資金調達能力には差異が生じ、さらに鳥羽・伏見の戦い以後、戊辰戦争の動乱は新組銀主に打撃を与え、藩は資金調達体制の再編を迫られた。維新後、新組・古組に三井を加えた従前の体制から、三井・平野屋五兵衛・鴻池善右衛門の「百町堀ノ銀主」体制へと移行することになった。
最後に終章では本研究の分析内容を総括した。近世後期薩摩藩財政の特質として、島津重豪の藩政・財政改革の規定性の強さが挙げられる。具体的には幕府権威の積極的な利用と、趣法方による「御内用」名目での強力な権限が拡大である。その延長線上にある島津斉彬藩政下での財政運営の特徴としては、①送金構造の変化に対応した国許・江戸での財源確保の推進、②国産品開発における幕府・有志大名との連携、③積極的な支出帳簿の作成・把握の三点を指摘することができた。また大坂金融市場との関係では、文化・文政期から明治初期までの藩―銀主関係を連続的に明らかにし、二五〇ヶ年賦償還のような苛法を経てなお藩は銀主との関係持続を志向していたことや、斉彬期の国産品仕法の展開が彼らとの関係再構築をもたらしたことを指摘した。
さらに近代の鹿児島藩/県および公爵島津家の財政をめぐる問題との関係では、本研究の明らかにした藩財政上の「御内用」の拡大過程が「御家」と「藩」それぞれの財政の分界を不明瞭にし、これらの境界が曖昧とされた明治初期の状況を招来したことを展望した。
以上が本研究の成果となる。