本研究の主題は、インドの実在論的かつ多元論的な思想を代表する学派であるヴァイシェーシカ学派における、時間という概念の歴史的変遷を明らかにすることである。5~6世紀頃の『パダールタダルマサングラハ』を始めとするヴァイシェーシカ学派の古典的な学説において、世界を構成する実在は実体、性質、運動、普遍、特殊、内属という6つのカテゴリーに分類される。そして時間は地、水、火、風の四元素(あるいは虚空を含めた五元素)やアートマンなどと共に、実体のカテゴリーに含まれている。時間については仏教も含めたインドの様々な学派で議論が行われてきたが、時間に「実体」すなわち一種の存在要素として元素やアートマンなどと同等の地位を与えるのは、ヴァイシェーシカ学派に特有の発想である。これは、たとえば仏教の中では最も実在論的な傾向の強い説一切有部ですらダルマ(存在要素)の中に時間を含めていないことと比較しても、際立った特徴であると言える。
 このようにヴァイシェーシカ学派の時間の概念に関しては、同学派のカテゴリー論の体系と強固に結びついた独特の議論が様々な文献において展開されており、その全貌を解明することの思想史的な価値は高いと言える。一方で先行研究について言えば、これまでにいくつかの重要な研究が為されてきたものの、本研究の主題に関してはその解明は部分的なものに留まっている。本研究は 『パダールタダルマサングラハ』およびその諸注釈群(『ヴィヨーマヴァティー』、『ニヤーヤカンダリー』、『キラナーヴァリー』)を中心とし、さらにヴァイシェーシカ学派と関係が深いニヤーヤ学派の文献や、しばしばヴァイシェーシカ学派と論争を行ったことでも知られる仏教側の文献にも目を配りながら、「実体」としての時間概念について包括的に検討する。
 本研究の本論は4つの章と結論から成る。第1章では、ヴァイシェーシカ学派において6カテゴリー説が形成される過程を検証した上で、カテゴリー体系の中での時間という実体の位置付けについて確認した。第1.1節と第1.2節ではインド文献と中国仏教文献の両面からカテゴリー論の内実と形成過程について検証し、その結果として6カテゴリー説には大きく2つの系統があること、一方で時間および方位に関してはヴァイシェーシカ学派のカテゴリー説形成の初期の段階から一貫して実体カテゴリーの中に含まれてきたことを示した。第1.3節では時間を実体とする以上のようなカテゴリー論が、ニヤーヤ学派の理論からは元々独立して発展したものであり、バーサルヴァジュニャのようにニヤーヤ学派の独自性にこだわる論者から批判の対象となったことを示した。
 第2章では時間と空間的実体である方位との相違にも着目しながら、ヴァイシェーシカ学派における存在論的、もしくは認識論的な議論の中で時間という実体がいかなる役割を果たしているかを明らかにした。第2.1節では『パダールタダルマサングラハ』において、運動とは刹那的なものであり、空間的な点(方位点)と他の実体との結合・分離によって定義されることを確認した。第2.2節では方位もしくは時間に起因するかなた性・こなた性というものが、ともに方位および時間と対象との結合によって生じることを明らかにし、また両者の類似点と相違点についても考察した。プラシャスタパーダは『パダールタダルマサングラハ』の簡潔な記述の中で、可能な限り方位と時間の相同性を維持するように努めているが、シュリーダラの『ニヤーヤカンダリー』ではこの相同性が後退し、平面的もしくは三次元的で特定の方向性を持たない方位(空間)と、一次元的で過去から未来へという方向性を持つ時間という、両者の異なる特性が浮き彫りになっている。
 第2章の第2.3節では運動を生み出す性質である速力と、かなた性・こなた性に対するバーサルヴァジュニャの批判を検討した。本章で扱ったヴァイシェーシカ学派の議論はいずれも方位・時間が他の実体と結合を持つことを前提としており、時間や方位が実体として規定されていることを活かしている。つまり、実体は結合のような性質の基体であり、実体だけが結合や分離を持つことが出来るので、方位や時間が実体でなければそれとの結合・分離を前提とした議論は成立しない。一方でバーサルヴァジュニャはこのようなカテゴリー論に基いた議論を認めず、より日常言語に即した議論を行う傾向がある。
 第3章ではニヤーヤ、ヴァイシェーシカ両学派において過去、現在、未来という三時がどのように扱われてきたかを検討した。第3.1節で扱った『ニヤーヤバーシュヤ』の議論は中観派と見られる対論者に対抗する上で、ヴァイシェーシカ学派のカテゴリー論を前提とはせず、むしろ説一切有部のような仏教徒の議論を部分的に取り入れていた。一方で、第3.2節で扱った『キラナーヴァリー』の議論には、後の新ニヤーヤ学派に繋がる議論が含まれており、ヴァイシェーシカ学派とニヤーヤ学派の融合傾向を反映している。
第4章では「時間は推理によって認識される」とするヴァイシェーシカ学派の定説とは異なる、「時間が知覚によって認識される」という説を取り上げ、いかなる背景の元でそのような主張が為されたのか、またその論争にどのような意義があるかを論じた。本章の中心となるのは第4.5節から第4.8節にかけて扱った、『ヴィヨーマヴァティー』時間章における時間推理説と時間知覚説の間の長大な論争である。そしてその比較対象として、第4.3節では『ニヤーヤマンジャリー』の時間知覚説を、第4.4節では『ニヤーヤカンダリー』の時間推理説を取り上げた。本章では主題である時間推理説/時間知覚説という大きな対立構造だけでなく、それとは別の重要な論点が、扱った文献中に複数存在することを明らかにした上で、その対立の背景について考察した。特にācāryāḥ と vyākhyātāraḥという、異なる認識論的な原則を有する2つのグループ間の論争に関して、従来は主にニヤーヤ学派の文献を対象として研究されてきたが、『ヴィヨーマヴァティー』を始めとするヴァイシェーシカ学派の文献においてもこの2グループの対立が大きな意味を持っていることを示した。また、本章で扱った議論は時間の認識手段という特定の実体についての個別の問題に留まらず、非存在の認識手段についてのニヤーヤ学派とヴァイシェーシカ学派の見解の相違や、限定者と被限定者が単一の認識によって捉えられるのかという問題など、より広範な認識論上の問題と繋がりを持っている。すなわち、ニヤーヤ学派では非存在が限定者として知覚されるという説が展開された一方で、ヴァイシェーシカ学派のプラシャスタパーダは、非存在は推理によってのみ認識されると規定しているが、これは時間の認識手段についての本章の議論と類似している。また同じくプラシャスタパーダは、知覚における限定者は必ず被限定者に先行して認識されると規定したが、その注釈者ヴィヨーマシヴァは限定者と被限定者が同時に認識されるという見解を引用し、さらにその見解を定説には反するが有力な説として評価するような素振りを見せている。このことはヴィヨーマシヴァが、注釈元であるプラシャスタパーダの規定したヴァイシェーシカ学派固有の認識論に必ずしも拘泥せず、ニヤーヤ学派など他学派の理論を取り入れていく傾向を持っていることを示唆している。最後に本章第4.9節の考察では、各文献に現れる言説についてこのような複数の論点に基づいて整理した上で、時間知覚説と時間推理説の形成過程に関する仮説を提示した。
 本論の結論では以上の各論を踏まえて、特にヴァイシェーシカ学派の時間概念の固有性と、その思想史的な意義について再検討した。Wilhelm Halbfassはヴァイシェーシカ学派の時間論を「時間の空間化」であると評価したが、これを本研究の成果を踏まえてより正確に表現するならば、「時間(点)と別の実体との結合というカテゴリー論的な仕組みを通して、時間的な現象を空間内における運動と同様に記述すること」となる。さらに、以上のような時間の空間化という試みは、第4章で扱った時間の認識手段をめぐる論争とも関連している可能性がある。というのも、時間が完全に抽象的な存在であれば、それが知覚の対象となるということはあり得ないであろう。しかし、時間が物質的な原子などと同列の実体であるということが、時間を知覚の対象とする理論への道を開くことになる。
 また付論では「『ヴィヨーマヴァティー』時間章原典研究」と題して、ヴィヨーマシヴァの『ヴィヨーマヴァティー』時間章の翻訳と、修訂テキストを提示した。付論第1章は『ヴィヨーマヴァティー』時間章の訳注研究である。付論第2章では『ヴィヨーマヴァティー』時間章について、既存の刊本を底本としながらマイソール写本の異読情報に基づいて修訂を行った。