本論文は、国家と個人を媒介する中間団体が、19世紀フランスの労働の世界において果たした役割やその変遷を検討するものである。フランス革命期に制定された1791年6月17日法(ル・シャプリエ法)は、中間団体を否定し、国家と個人の二極からなる社会像を提示した契機とされている。これを受けて、トクヴィルの『アメリカの民主制について』の記述に代表されるように、革命後のフランスでは国家の全能性と中間団体の否定を強調する傾向――「ジャコバン主義」(Ozouf) あるいは「一般性の政治文化」(Rosanvallon) と称される統治原理――が主流であった。このことは歴史研究においても例外ではなく、古典的な文献においては、国家と中間団体の対立が強調される動向が見られた。しかし近年の研究では、国家が中間団体を管理し組織化しようとする過程が再注目され、特に国家の統治に際する中間団体の支柱としての利用に関する研究が蓄積されている。
こうした研究動向を受けて、本論文は、第二帝政の後半から第三共和政成立期に至る時期、1862年から1884年にかけて、労働の世界における中間団体を規制する法制度の変遷をたどり、そこにどのような統治原理の転換が反映されているかを解明することを目指す。研究手法としては言説分析、わけても概念史や歴史的語彙論の方法論を使用することで、立法過程において「団結 (coalition)」および「組合 (syndicat)」の語義がどのように変遷し、それは社会政策原理や労働法思想のいかなる変化を反映するものであるかを読み解く。概ね以上のような問題意識に基づき、本論は二部構成を取り、それぞれ団結に関する1864年5月25日法(オリヴィエ法)および職業組合に関する1884年3月21日法(ヴァルデック=ルソー法)の制定過程を検討する。その結果得られた知見は以下の通りである。
今日、ル・シャプリエ法はフランス革命における中間団体否認原則を体現するものと見なされている。しかしながら、19世紀における中間団体関連法制の審議において、ル・シャプリエ法が取り上げられることは必ずしも自明ではなかった。法制史研究においてつとに指摘されてきたように、結社権法認の要求において撤廃が主張されたのは刑法典の条文であり、ル・シャプリエ法は世紀中葉までほぼ忘却されていた(第1章)。
ル・シャプリエ法が中間団体の文脈で問題化される端緒を開いたのは、第二帝政期の自由主義者たちであった。彼らは工業化に伴う労使関係の変容を受け、団結権の法認を求める中で、ル・シャプリエ法の中間団体否認原理を批判した。ただし、この時点では団結と結社は同一の原理によって解釈され、ル・シャプリエ法を廃止する必要性も認められなかった(第2、3章)。このような自由主義者の見解は、法制定後に共和派からもボナパルティストからも批判され、結果、団結権をめぐる議論において「ジャコバン主義」が根源的に修正されることはなかった(第4章)。
第三共和政成立期、急進派はその政治綱領により、中間団体の法認を断続的に主張した。その際に問題となったのは、結社と組合の二分法である。上下院の本会議における審議において特徴的であったのは、結社権が政治・宗教問題に関して議論されたのに対し、組合結成の自由は社会・経済問題の文脈で議論された点である。結社が概して個人の契約の延長とされたのに対し、組合に関しては団体としての法人格承認が問題とされた。それゆえ、前者の議論において「ジャコバン主義」が俎上に載ることはなかったのに対し、後者の議論では革命期の中央集権的な個人主義原理が批判に晒された。ル・シャプリエ法の廃止が、結社権ではなく組合結成の法認に関する審議において問題化された理由は――前者では刑法典第291条の廃止が求められた――概ね以上のような論理から理解することができる(第5章)。
ただし、組合をめぐる議論においてル・シャプリエ法の廃止が問題化される過程を仔細に検討したとき、中間団体をめぐる問いは必ずしも常に前景に現れてはいなかったことに気づかされる。組合に対する自由帝政下の「寛容」体制を経て、第三共和政成立期の労働運動においてその法認が要求された際、議論の掛金となったのは中間団体そのものではなく、組合の持つ代表制の権能であった。そのことを裏付けるのは、ここで法認が求められたのが「組合結社 (association syndicale)」ではなく、組合の代表機関である「組合会議 (chambre syndicale)」であったという事実である。それはル・シャプリエ本来の意図が再発見される契機でもあった。ジャコバン主義は、議会審議ではなく労働の世界において、中間団体の問題(一なる社会)ではなく民主的代表制(直接性の志向)という角度から、根源的な修正を迫られたのである(第6章)。
しかしながら、その後、上下院において行われた職業組合合法化の法案審議において、ル・シャプリエ法はあくまで特別法として廃止された。同時に廃止された刑法典第416条に関しても同様に、議論の掛金は専ら個人の自由であり、中間団体に関する統治原理の問題は等閑に付された(第7章)。ここで労働の世界における要求は換骨奪胎され、ル・シャプリエによる議会の一元的代表の志向は問い直されることなく維持された。1884年法は中間団体から代表の権能を剥奪し、その専門範囲を社会経済領域に限定した上で法人格を承認するものであった(第8章)。
従来の研究では、「ジャコバン主義」が修正を経ながらも19/20世紀転換期まで維持されたことが強調されてきた。上に略述した本論文の知見は、これに含みを持たせるものである。すなわち、1862~1884年の期間におけるル・シャプリエ法の発見から廃止に至る議会審議の過程は、労働の世界における政治文化の根源的な問い直しを看過する形で進行した結果、「ジャコバン主義」を世紀末まで維持させる結果となった。このことは、20世紀フランスにおける「連帯=福祉国家」あるいは「審議会の時代」(Chatriot) のあり方を規定することとなろう。