本論文は、満洲における重要な社会現象であった基層武装集団、特に紅胡子とも呼ばれる匪賊たちと、20世紀前半の共産主義革命運動との関係について論じるものである。
本論文が研究の対象とする満洲の基層武装集団は、戦争や革命といった歴史の渦巻に巻き込まれながらも自分の居場所を模索し、国外内の各種政治勢力と接触して、協力から敵対まで、各時点において様々な関係を築かなければならなかった。なかでもロシアの10月革命をきっかけに歴史の舞台に本格的に登場した共産主義革命運動は、広い民衆を動員して旧体制を下から覆すことを目指したので、満洲の匪賊たちもその影響を避けられなかった。さらに、日本帝国主義の満洲進出と侵略を受けて抗日運動の性質を持つようになった中国共産主義運動の活動家にとっては、匪賊が重要な宣伝工作対象となり、一部の匪賊は抗日運動に加わった。本論文は、満洲における中国共産党の対匪賊工作に注目し、周縁的存在であった満洲の匪賊たちが、時期ごとに共産主義革命運動のなかで果たした役割と、匪賊と中国共産党との関係の変容、そして匪賊に対する働きかけが中国共産党に及ぼした影響について明らかにすることをめざす。
第1章では、1917年のロシア10月革命以前における紅胡子の起源と形成の過程を考察している。満洲における紅胡子は、複雑な社会環境の中、無視できないほどの存在となっていった。紅胡子が満洲で勢力を拡大した要因としては、清朝の当局が匪賊対策として用いた「招撫」や「剿匪」といった伝統的手法に加え、帝国主義列強が紅胡子を利用しようとしたことも指摘できる。例えば、ロシア帝国は必要に応じて、紅胡子の存在を軍事遠征の名目とすることがあり、また国境地帯で自国の利益を守るために匪賊を利用した事例も見られる。
紅胡子の共産主義革命運動への参加の事例として、ロシア極東の内戦期における「赤い紅胡子」の出現が挙げられる。「赤い紅胡子」の活動は白軍との戦闘において重要な役割を果たし、ソヴィエト政権を回復させることに寄与した。さらに、極東共和国から支援を受けていた「赤い紅胡子」は、吉林省北部を含む満洲でも活動した。しかし、シベリアに出兵して内戦に介入した日本軍とのさらなる軍事的衝突を避け、さらには中東鉄道を占領する口実を日本に与えないために、ソヴィエト政府は朝鮮人抗日部隊をはじめとする外国人の武装集団を支援しないことを決定した。これを受けて極東地方におけるボリシェヴィキは、「赤い紅胡子」に対する方針を変更したので、「赤い紅胡子」が極東共和国の情報機関と軍から受け取っていた物資的支援はきわめて少なくなり、代表的な「赤い紅胡子」であった孫継五も吉林省北部における活動を停止することを余儀なくされた。
このように、紅胡子という周縁的存在は、ロシア革命の動きと接触する中で政治化への道を歩み始め、政治闘争の経験を積むに至った。一方で、ボリシェヴィキもまた、極東地方における中国人匪賊との協力の可能性を肯定的に評価し、この経験は1920年代のコミンテルンおよびソ連共産党の対中国政策決定に一定の影響を及ぼした。これらのことは、中国共産党の対匪賊政策の形成にとって重要な歴史的前提となったと言える。
第2章は、中国共産党による対匪賊政策の形成過程を検討している。中国共産党の対匪賊政策は多くの要因の影響を受けて形成されたが、本論文では特にコミンテルンの指針やソ連共産党の意思決定などの外的要因に注目している。コミンテルンの指導部内では、中国革命のために匪賊を利用することに関して様々な意見が対立していた。この議論の中で、匪賊を肯定的に評価する考えを推進した人物の一人が、Г. Н.ヴォイティンスキーであった。また、匪賊に対する政策の形成において、ソ連共産党中央委員会直属の中国委員会も重要な役割を果たした。
満洲における中国共産党の活動は、1927年に満洲省臨時委員会が創設されたところから始まる。満洲省臨時委員会は満洲の状況を調査し、匪賊と連絡を取ろうとしていた。匪賊を革命のために動員しようとする最初の本格的な試みは、1928年初頭の大刀会蜂起直後に東南特委によって行われた。この東南特委は短命だったが、その活動は満洲における中国共産党組織にとって重要な経験となり、これを通じて育成された一部の幹部は、その後の抗日運動の開始後にも重要な役割を果たし続けた。
第3章では、ソ連政府が、張学良政権との中東鉄道を巡る紛争の際に、張学良政権を覆してソヴィエト制度を導入しようとした計画について論じている。そのなかで、紅胡子の動員も意図され、革命運動に共感を持つ匪賊の調査も行われた。匪賊利用の最初の草案は、1928年の対匪賊工作に関わった中国共産党党員、もしくはソ連諜報機関と関係を持つ元中国共産党党員によって作成された可能性が高い。
また、李立三路線の前後において、中国共産党は匪賊に対する大規模な動員活動を行っていなかったものの、匪賊の現状に関する情報収集や、匪賊を通じた諜報活動など、基礎的な工作は進められていた。
第4章では、中国共産党党内で激しく行われた匪賊政策に関する論争と、「統一戦線」路線の確立に焦点を当てている。1933年にコミンテルンを通じて伝達された「1・26指示」は、匪賊に対する中国共産党の路線変更に大きな影響を与えたが、具体的にどのような方針で工作を進めるべきかについて、党内では議論が続いた。その中でも特に重要な争点となったのが、匪賊団員に対して宣伝工作を行い、頭目を排除した後、残された団員を中国共産党の部隊へ改編する「下層との連合」政策と、頭目との合意を通じて共同作戦を展開する「上層との連合」政策のどちらを選択するかという問題であった。党の指導方針では「下層との連合」を進めるべきとされていたが、末端の現場執行者たちは「上層との連合」の必要性を主張していた。しかし、1934年には中国共産党中央が国民党軍の攻撃を受けて長征を開始し、また上海で中央局が壊滅して、満洲の中国共産党組織に対する中央の統制が完全に失われた。この結果、満洲省委員会は解体され、匪賊政策における「下層との連合」戦略と「上層との連合」戦略の選択は、地元組織の裁量に委ねられることとなった。
匪賊が抗日運動に参加するに至った要因も重要である。これまで指摘されてきた抗日の基層武装集団の「愛国精神」に加え、経済的要因にも十分に注目する必要がある。日本人の入植によって満洲の土地が占拠され始めたこと、さらに満洲国の行政権力が、匪賊や彼らと結びついた農村有力者の影響の強い山間部地域へと浸透し始めたことは、農村有力者や匪賊たちの経済的利益を直接的に侵害するものであった。このような状況下で、匪賊と農村有力者の多くは生存をかけた防御的戦略を選び、その抵抗は次第に経済的なものから政治的なものへと展開していった。そして、その後、彼らと中国共産党との協力関係が成立するに至る要因の一つになったのである。
第5章では、中国共産党による対匪賊工作の実践について考察している。中国共産党の部隊と匪賊の関係の初期段階については、抗日聯軍第1軍の前身である磐石工農反日義勇軍を例として検討している。この部隊は、「土地革命路線」の実行を経て匪賊団に加入し、そして匪賊たちとの武力衝突を経てそこから脱退するという複雑な道をたどった。中国共産党が匪賊との連絡を確立する過程における困難については林春秋の事例によって分析している。
匪賊との協力の第2段階については、抗日聯軍第7軍、特にその第2師団長である鄒其昌を例にとって分析する。共通の目標をもっていたにもかかわらず、中国共産党と匪賊の利害と手法は相違しており、これが抗日運動における足並みを乱すような影響をおよぼすことがあった。
最後の段階については、謝文東との協力を例にして検討した。中国共産党の部隊が最後まで日本と戦い続けたのとは対照的に、謝文東のような指導者ですら投降に至った理由は、基層武装集団からなる部隊の内部に、政治部主任による強力な管理や全軍を貫く党組織が欠如していたことにあった。
中国共産党が、匪賊出身者を特殊任務に活用していた点も注目に値する。ロシアの文書館に残る抗日聯軍の隊員の個人記録によれば、匪賊出身者の多くが「交通隊員」として部隊間または軍司令部と部隊間の連絡に従事していた。
終章では、満洲における抗日運動が挫折した後の中国共産党と匪賊の関係について説明した。抗日聯軍の指導者たちはソ連に退却した後、1942年まで満洲での諜報および破壊活動を続けたが、その際に匪賊出身者を含む満洲内部との繋がりを利用した。満洲における中国共産党と匪賊の関係の新たな転換は、1945年8月のソ連軍による満洲占領後に訪れた。この時、満洲に戻った中国共産党党員たちは、かつての抗日匪賊などと「統一戦線」を再び築こうと試みたが、様々な理由でこれらの試みは成功しなかった。その結果、中国共産党は「剿匪闘争」を展開したが、「匪」という概念を最大限広く解釈していたため、中国国民党政権への忠誠を宣言した基層武装集団もその対象に含まれた。本格的な剿匪闘争は1949年10月の中華人民共和国建国まで続き、その余波は1950年代初頭に及んだ。この過程を経て、満洲の匪賊は歴史の舞台から姿を消すこととなった。
本論文が研究の対象とする満洲の基層武装集団は、戦争や革命といった歴史の渦巻に巻き込まれながらも自分の居場所を模索し、国外内の各種政治勢力と接触して、協力から敵対まで、各時点において様々な関係を築かなければならなかった。なかでもロシアの10月革命をきっかけに歴史の舞台に本格的に登場した共産主義革命運動は、広い民衆を動員して旧体制を下から覆すことを目指したので、満洲の匪賊たちもその影響を避けられなかった。さらに、日本帝国主義の満洲進出と侵略を受けて抗日運動の性質を持つようになった中国共産主義運動の活動家にとっては、匪賊が重要な宣伝工作対象となり、一部の匪賊は抗日運動に加わった。本論文は、満洲における中国共産党の対匪賊工作に注目し、周縁的存在であった満洲の匪賊たちが、時期ごとに共産主義革命運動のなかで果たした役割と、匪賊と中国共産党との関係の変容、そして匪賊に対する働きかけが中国共産党に及ぼした影響について明らかにすることをめざす。
第1章では、1917年のロシア10月革命以前における紅胡子の起源と形成の過程を考察している。満洲における紅胡子は、複雑な社会環境の中、無視できないほどの存在となっていった。紅胡子が満洲で勢力を拡大した要因としては、清朝の当局が匪賊対策として用いた「招撫」や「剿匪」といった伝統的手法に加え、帝国主義列強が紅胡子を利用しようとしたことも指摘できる。例えば、ロシア帝国は必要に応じて、紅胡子の存在を軍事遠征の名目とすることがあり、また国境地帯で自国の利益を守るために匪賊を利用した事例も見られる。
紅胡子の共産主義革命運動への参加の事例として、ロシア極東の内戦期における「赤い紅胡子」の出現が挙げられる。「赤い紅胡子」の活動は白軍との戦闘において重要な役割を果たし、ソヴィエト政権を回復させることに寄与した。さらに、極東共和国から支援を受けていた「赤い紅胡子」は、吉林省北部を含む満洲でも活動した。しかし、シベリアに出兵して内戦に介入した日本軍とのさらなる軍事的衝突を避け、さらには中東鉄道を占領する口実を日本に与えないために、ソヴィエト政府は朝鮮人抗日部隊をはじめとする外国人の武装集団を支援しないことを決定した。これを受けて極東地方におけるボリシェヴィキは、「赤い紅胡子」に対する方針を変更したので、「赤い紅胡子」が極東共和国の情報機関と軍から受け取っていた物資的支援はきわめて少なくなり、代表的な「赤い紅胡子」であった孫継五も吉林省北部における活動を停止することを余儀なくされた。
このように、紅胡子という周縁的存在は、ロシア革命の動きと接触する中で政治化への道を歩み始め、政治闘争の経験を積むに至った。一方で、ボリシェヴィキもまた、極東地方における中国人匪賊との協力の可能性を肯定的に評価し、この経験は1920年代のコミンテルンおよびソ連共産党の対中国政策決定に一定の影響を及ぼした。これらのことは、中国共産党の対匪賊政策の形成にとって重要な歴史的前提となったと言える。
第2章は、中国共産党による対匪賊政策の形成過程を検討している。中国共産党の対匪賊政策は多くの要因の影響を受けて形成されたが、本論文では特にコミンテルンの指針やソ連共産党の意思決定などの外的要因に注目している。コミンテルンの指導部内では、中国革命のために匪賊を利用することに関して様々な意見が対立していた。この議論の中で、匪賊を肯定的に評価する考えを推進した人物の一人が、Г. Н.ヴォイティンスキーであった。また、匪賊に対する政策の形成において、ソ連共産党中央委員会直属の中国委員会も重要な役割を果たした。
満洲における中国共産党の活動は、1927年に満洲省臨時委員会が創設されたところから始まる。満洲省臨時委員会は満洲の状況を調査し、匪賊と連絡を取ろうとしていた。匪賊を革命のために動員しようとする最初の本格的な試みは、1928年初頭の大刀会蜂起直後に東南特委によって行われた。この東南特委は短命だったが、その活動は満洲における中国共産党組織にとって重要な経験となり、これを通じて育成された一部の幹部は、その後の抗日運動の開始後にも重要な役割を果たし続けた。
第3章では、ソ連政府が、張学良政権との中東鉄道を巡る紛争の際に、張学良政権を覆してソヴィエト制度を導入しようとした計画について論じている。そのなかで、紅胡子の動員も意図され、革命運動に共感を持つ匪賊の調査も行われた。匪賊利用の最初の草案は、1928年の対匪賊工作に関わった中国共産党党員、もしくはソ連諜報機関と関係を持つ元中国共産党党員によって作成された可能性が高い。
また、李立三路線の前後において、中国共産党は匪賊に対する大規模な動員活動を行っていなかったものの、匪賊の現状に関する情報収集や、匪賊を通じた諜報活動など、基礎的な工作は進められていた。
第4章では、中国共産党党内で激しく行われた匪賊政策に関する論争と、「統一戦線」路線の確立に焦点を当てている。1933年にコミンテルンを通じて伝達された「1・26指示」は、匪賊に対する中国共産党の路線変更に大きな影響を与えたが、具体的にどのような方針で工作を進めるべきかについて、党内では議論が続いた。その中でも特に重要な争点となったのが、匪賊団員に対して宣伝工作を行い、頭目を排除した後、残された団員を中国共産党の部隊へ改編する「下層との連合」政策と、頭目との合意を通じて共同作戦を展開する「上層との連合」政策のどちらを選択するかという問題であった。党の指導方針では「下層との連合」を進めるべきとされていたが、末端の現場執行者たちは「上層との連合」の必要性を主張していた。しかし、1934年には中国共産党中央が国民党軍の攻撃を受けて長征を開始し、また上海で中央局が壊滅して、満洲の中国共産党組織に対する中央の統制が完全に失われた。この結果、満洲省委員会は解体され、匪賊政策における「下層との連合」戦略と「上層との連合」戦略の選択は、地元組織の裁量に委ねられることとなった。
匪賊が抗日運動に参加するに至った要因も重要である。これまで指摘されてきた抗日の基層武装集団の「愛国精神」に加え、経済的要因にも十分に注目する必要がある。日本人の入植によって満洲の土地が占拠され始めたこと、さらに満洲国の行政権力が、匪賊や彼らと結びついた農村有力者の影響の強い山間部地域へと浸透し始めたことは、農村有力者や匪賊たちの経済的利益を直接的に侵害するものであった。このような状況下で、匪賊と農村有力者の多くは生存をかけた防御的戦略を選び、その抵抗は次第に経済的なものから政治的なものへと展開していった。そして、その後、彼らと中国共産党との協力関係が成立するに至る要因の一つになったのである。
第5章では、中国共産党による対匪賊工作の実践について考察している。中国共産党の部隊と匪賊の関係の初期段階については、抗日聯軍第1軍の前身である磐石工農反日義勇軍を例として検討している。この部隊は、「土地革命路線」の実行を経て匪賊団に加入し、そして匪賊たちとの武力衝突を経てそこから脱退するという複雑な道をたどった。中国共産党が匪賊との連絡を確立する過程における困難については林春秋の事例によって分析している。
匪賊との協力の第2段階については、抗日聯軍第7軍、特にその第2師団長である鄒其昌を例にとって分析する。共通の目標をもっていたにもかかわらず、中国共産党と匪賊の利害と手法は相違しており、これが抗日運動における足並みを乱すような影響をおよぼすことがあった。
最後の段階については、謝文東との協力を例にして検討した。中国共産党の部隊が最後まで日本と戦い続けたのとは対照的に、謝文東のような指導者ですら投降に至った理由は、基層武装集団からなる部隊の内部に、政治部主任による強力な管理や全軍を貫く党組織が欠如していたことにあった。
中国共産党が、匪賊出身者を特殊任務に活用していた点も注目に値する。ロシアの文書館に残る抗日聯軍の隊員の個人記録によれば、匪賊出身者の多くが「交通隊員」として部隊間または軍司令部と部隊間の連絡に従事していた。
終章では、満洲における抗日運動が挫折した後の中国共産党と匪賊の関係について説明した。抗日聯軍の指導者たちはソ連に退却した後、1942年まで満洲での諜報および破壊活動を続けたが、その際に匪賊出身者を含む満洲内部との繋がりを利用した。満洲における中国共産党と匪賊の関係の新たな転換は、1945年8月のソ連軍による満洲占領後に訪れた。この時、満洲に戻った中国共産党党員たちは、かつての抗日匪賊などと「統一戦線」を再び築こうと試みたが、様々な理由でこれらの試みは成功しなかった。その結果、中国共産党は「剿匪闘争」を展開したが、「匪」という概念を最大限広く解釈していたため、中国国民党政権への忠誠を宣言した基層武装集団もその対象に含まれた。本格的な剿匪闘争は1949年10月の中華人民共和国建国まで続き、その余波は1950年代初頭に及んだ。この過程を経て、満洲の匪賊は歴史の舞台から姿を消すこととなった。