本論文では日本の伝統音楽である雅楽が用いる楽譜を事例として取り上げ,そのデジタル化による雅楽文化の保存と継承の可能性について検討し,雅楽における情報記述モデルとそれを用いた具体的なデジタル化の手法として「デジタル雅楽譜」(GagakuXML) の構築に取り組む.
日本伝統音楽を取り巻く環境は,後継者不足,上演機会の減少などの問題を抱えている.このような文化の保存と継承に向けては,人を媒体とする伝統的な口伝の習慣を直接的に支援することに加え,それら関する記録にも一層の精緻化が求められている.また,博物館における電子的記録の作成や文化財資料を対象としたデジタルアーカイブの構築,公開など,文化財資料のデジタル化に向けた取り組みは,文化財保護行政における制度的な側面からも推進が求められている.
文化財の保存は一般的に有形文化財と無形文化財の2つの異なる性質を持った文化財が区別されており,その構造は文化財保護法の記述からも読み取ることができる.一方,“文化の記録”という営為が持つ本質的な目的は,対象となる文化の有形・無形を問わず,永遠に存在することのないあらゆる文化的所産を可能な限り長期間にわたって存続させるとともに,現在の文化を可能な限り詳細に参照可能な状態を未来に残すという2点に集約される.現在を生きる私たちは常に文化の歴史の最先端に立たされ,過去の権利 / 未来の権利とも呼ばれるこれら2つの文化の記録に対する責任を果たしていくことが求められている.本論文は昨今の文化財をめぐる急速なデジタルシフトの状況を踏まえ,雅楽譜という文化財自体が内包するコンテンツに関する詳細な記述の実現を通して,過去の権利 / 未来の権利に対する責任をより高いレベルで果たしていくことを目的とした研究として位置付けられる.
これまで文化財のデジタル化は資料の画像化を軸に展開されてきた.デジタル資料画像の公開によって資料閲覧のハードルは著しく低くなり,より多くの資料を参照した研究が可能になった.一方,近年は光学文字認識や物体検出技術の向上により,画像データに含まれるコンテンツを機械可読なデータとして扱う取り組みが進んでおり,デジタル画像を人間が読むという水準から,デジタル画像から得られるコンテンツそのものをコンピュータで処理する水準へと資料を取り巻く環境は変化しつつある.
この傾向は音楽関連資料にも認められる.特に西洋音楽を主な対象としてコンピュータ支援による音楽学研究環境の充実を目指すMusic Encoding Initiative (MEI) では楽譜をはじめとする音楽情報の包括的な機械可読化を支援するためのガイドラインを提供しており,楽譜に書かれたコンテンツについても人間が読んで使用する水準から,コンピュータを使用して分析・研究を行うという新しい地平が開かれつつある.一方,雅楽をはじめとする非西洋音楽資料については,楽譜が持つ情報の構造を反映した記述手段が存在せず,主に西洋音楽をベースに開発されてきた楽譜記述フォーマットを流用することで,コンピュータによる音楽情報記述のニーズに対応してきた.しかし,西洋音楽を前提に構成された情報記述フォーマットを用いて,非西洋音楽によってもたらされた情報を扱うことにより,楽譜の内容とそれを記述するための方法との間に齟齬が生じ,デジタルデータであるにもかかわらず,データの相互運用性や再利用可能性といった点に大きな課題が存在している.
このような状況を踏まえ,本論文は西洋音楽を対象にこれまで検討されてきた音楽情報記述モデルを参照しつつ,雅楽に関連した情報の統合的な記述を実現するための情報記述モデルの構築に取り組む.この雅楽情報記述モデルは,雅楽譜そのものに関する情報の記述にとどまらず,雅楽を対象とするテキスト,画像,映像など複数のモダリティからなる情報を統合的に記述することで,雅楽に関連した情報のネットワーク化を実現することを想定して構築されている.
西洋音楽に関連した情報を記述することを目的とした情報記述モデルはすでに存在するが,西洋音楽と雅楽の間には,作品概念や楽曲と作者との関係性,音楽文化の中で楽譜に課される役割など,それぞれの文化が置かれた背景の違いによって生じる差が存在する.本論文はこれらの差分を明らかにしつつ,雅楽に関連した音楽情報を効果的に記述するためのモデル構造として,譜字領域,ファクシミリ領域,時系列メディア領域,分析領域の4つの領域で雅楽情報を類型化し,個別具体的なの現存資料と,それらの分析や研究によってもたらされる知識の記述を統合的に取り扱うモデルを提示した.
また,雅楽情報記述モデルの有効性を検証するために,唐楽中小曲に含まれる三管(篳篥,龍笛,笙)の楽譜を対象とした297件の楽譜データを構築した.本論文によるデータ化の範囲は,先に挙げた4つの領域のうち譜字領域の具体化にとどまっているが,雅楽譜の記述内容が機械可読な形式で記述されたことによって,ファクシミリ領域や時系列メディア領域の記述に対しても拡張可能なデジタル雅楽譜の基礎が構築された.
当然ながら,この研究が主軸とする楽譜資料が雅楽文化の記録として唯一無二の存在ではない.特に,口頭伝承による音楽継承の習慣を現在でも高いレベルで維持している雅楽をはじめとする日本伝統音楽においては,人間の身体性,すなわち演奏空間や楽器といった物理的な音楽環境によってもたらされるアフォーダンスや音楽伝承における非言語的なコミュニケーションなどが,演奏実践や文化伝承にとって重要な役割を果たしている.しかし,資料として残されたもののもつ具体的な内容にまで踏み込んだデジタル化によって,これまで大量の画像データの内部で読まれることを待つだけだった情報がより見つけられやすくなり,そこから得られた情報が人間をメディアとして伝承されていく音楽文化を形成する1つの要素として取り込まれていく可能性がある.本論文の成果は,雅楽譜記述におけるデジタル技術の導入というのみならず,雅楽情報に関する従来のアクセス方法を拡張し,音楽文化の保存と継承に新たな可能性を提供するものであると言える.
本論文は全5章で構成されている.第1章では,本研究が目指す「文化財の記録」の位置づけを明らかにするとともに,文化財保護における記録の意義を考察する.文化財保護法の規定や実際に文化財に関連した記録が作成されていく場面を取りあげながら,文化財保護における記録の役割を整理し,様々な要因で作成される有形文化財の記録が,その背後に存在する無形文化の保存を間接的に担ってきたことを示す.
第2章では,音楽文化における記録手法について,特に西洋音楽の楽譜文化を中心に論じる.西洋音楽では,演奏者の記憶を補助する目的で生まれた楽譜が客観的な音楽記録とみなされる水準にまで普遍化されていった.本章では,写真,録音,楽譜といった様々な記録手段に触れ,音楽記録としての楽譜の特性と,その記述に対して求められてきた客観性と主観性の両面を検討する.
第3章では,雅楽と雅楽譜の概要を示し,雅楽譜が伝承に対して果たしてきた役割を論じる.雅楽は日本の伝統音楽の中でも長い歴史を持ち,複数の楽器,演奏形態,記譜法で構成される音楽文化複合体としての様相を呈している.雅楽が経験してきた歴史的な転換点に触れながら,本論文が主題とする雅楽譜の整備までの過程と雅楽譜に求められた役割について検討する.また,雅楽譜の五線譜化に関連した取り組みの成果と限界を示し,それに対するGagakuXMLの意義を位置付ける.
第4章では,楽譜の機械可読化に向けた既存の取り組みと,本研究が提示する雅楽情報記述モデルの理論的枠組みについて述べる.人文学資料や音楽資料の機械可読化は,近年のデジタル人文学の発展に伴って進展しており,音楽情報記述のためのガイドラインの策定が進んでいる.本研究では,先に触れたMEIに加え,Standard Music Description Language (SMDL) の取り組みを参照しつつ,「雅楽情報記述の四領域モデル」を構築した.これにより,雅楽を取り巻く資料環境に則した情報記述が実現され,特定の楽譜や情報に過度に依存することなく,雅楽情報を統合的に取り扱うことが可能となった.
第5章では,「雅楽情報記述の四領域モデル」の一部に基づき,XMLを用いた雅楽譜のマークアップに関する具体的な記述構造について検討する.雅楽譜が持つテキスト情報とそれによってもたらされる意味的な構造が反映されたスキーマを構築することで,五線譜に基づいた構造を持つデータフォーマットを用いた従来のデジタル翻刻に比べ,より直感的で豊かな情報を持った表現が可能になった.また,メタデータについてはMEIのメタデータ記述構造を取り込むとともに,雅楽譜に独自のメタデータについては独自の記述領域を提供している.充実したメタデータの記述は音楽学,歴史学,国文学など,雅楽と関わりのある人文系学問と本研究の取り組みを接続する上でも非常に重要な要素である.さらに,構築した唐楽中小曲を構成する篳篥譜93件のデータに基づいて簡易的な可視化を行い,本研究の提供する楽譜データを用いることで,コンピュータを使用した雅楽譜記述の分析が可能であることを確認した.
文化的資料の機械可読化には一定の限界が存在することも確かではあるが,本論文の議論はそれらを踏まえた上で,なお記録という側面から文化の保存や継承を議論するものであり,情報技術を用いた文化の記録は既存の取り組みを新しい技術によって単に置き換えていくだけでなく,それ自体が有形・無形の文化財の保護と継承に資するものであることを示した.
日本伝統音楽を取り巻く環境は,後継者不足,上演機会の減少などの問題を抱えている.このような文化の保存と継承に向けては,人を媒体とする伝統的な口伝の習慣を直接的に支援することに加え,それら関する記録にも一層の精緻化が求められている.また,博物館における電子的記録の作成や文化財資料を対象としたデジタルアーカイブの構築,公開など,文化財資料のデジタル化に向けた取り組みは,文化財保護行政における制度的な側面からも推進が求められている.
文化財の保存は一般的に有形文化財と無形文化財の2つの異なる性質を持った文化財が区別されており,その構造は文化財保護法の記述からも読み取ることができる.一方,“文化の記録”という営為が持つ本質的な目的は,対象となる文化の有形・無形を問わず,永遠に存在することのないあらゆる文化的所産を可能な限り長期間にわたって存続させるとともに,現在の文化を可能な限り詳細に参照可能な状態を未来に残すという2点に集約される.現在を生きる私たちは常に文化の歴史の最先端に立たされ,過去の権利 / 未来の権利とも呼ばれるこれら2つの文化の記録に対する責任を果たしていくことが求められている.本論文は昨今の文化財をめぐる急速なデジタルシフトの状況を踏まえ,雅楽譜という文化財自体が内包するコンテンツに関する詳細な記述の実現を通して,過去の権利 / 未来の権利に対する責任をより高いレベルで果たしていくことを目的とした研究として位置付けられる.
これまで文化財のデジタル化は資料の画像化を軸に展開されてきた.デジタル資料画像の公開によって資料閲覧のハードルは著しく低くなり,より多くの資料を参照した研究が可能になった.一方,近年は光学文字認識や物体検出技術の向上により,画像データに含まれるコンテンツを機械可読なデータとして扱う取り組みが進んでおり,デジタル画像を人間が読むという水準から,デジタル画像から得られるコンテンツそのものをコンピュータで処理する水準へと資料を取り巻く環境は変化しつつある.
この傾向は音楽関連資料にも認められる.特に西洋音楽を主な対象としてコンピュータ支援による音楽学研究環境の充実を目指すMusic Encoding Initiative (MEI) では楽譜をはじめとする音楽情報の包括的な機械可読化を支援するためのガイドラインを提供しており,楽譜に書かれたコンテンツについても人間が読んで使用する水準から,コンピュータを使用して分析・研究を行うという新しい地平が開かれつつある.一方,雅楽をはじめとする非西洋音楽資料については,楽譜が持つ情報の構造を反映した記述手段が存在せず,主に西洋音楽をベースに開発されてきた楽譜記述フォーマットを流用することで,コンピュータによる音楽情報記述のニーズに対応してきた.しかし,西洋音楽を前提に構成された情報記述フォーマットを用いて,非西洋音楽によってもたらされた情報を扱うことにより,楽譜の内容とそれを記述するための方法との間に齟齬が生じ,デジタルデータであるにもかかわらず,データの相互運用性や再利用可能性といった点に大きな課題が存在している.
このような状況を踏まえ,本論文は西洋音楽を対象にこれまで検討されてきた音楽情報記述モデルを参照しつつ,雅楽に関連した情報の統合的な記述を実現するための情報記述モデルの構築に取り組む.この雅楽情報記述モデルは,雅楽譜そのものに関する情報の記述にとどまらず,雅楽を対象とするテキスト,画像,映像など複数のモダリティからなる情報を統合的に記述することで,雅楽に関連した情報のネットワーク化を実現することを想定して構築されている.
西洋音楽に関連した情報を記述することを目的とした情報記述モデルはすでに存在するが,西洋音楽と雅楽の間には,作品概念や楽曲と作者との関係性,音楽文化の中で楽譜に課される役割など,それぞれの文化が置かれた背景の違いによって生じる差が存在する.本論文はこれらの差分を明らかにしつつ,雅楽に関連した音楽情報を効果的に記述するためのモデル構造として,譜字領域,ファクシミリ領域,時系列メディア領域,分析領域の4つの領域で雅楽情報を類型化し,個別具体的なの現存資料と,それらの分析や研究によってもたらされる知識の記述を統合的に取り扱うモデルを提示した.
また,雅楽情報記述モデルの有効性を検証するために,唐楽中小曲に含まれる三管(篳篥,龍笛,笙)の楽譜を対象とした297件の楽譜データを構築した.本論文によるデータ化の範囲は,先に挙げた4つの領域のうち譜字領域の具体化にとどまっているが,雅楽譜の記述内容が機械可読な形式で記述されたことによって,ファクシミリ領域や時系列メディア領域の記述に対しても拡張可能なデジタル雅楽譜の基礎が構築された.
当然ながら,この研究が主軸とする楽譜資料が雅楽文化の記録として唯一無二の存在ではない.特に,口頭伝承による音楽継承の習慣を現在でも高いレベルで維持している雅楽をはじめとする日本伝統音楽においては,人間の身体性,すなわち演奏空間や楽器といった物理的な音楽環境によってもたらされるアフォーダンスや音楽伝承における非言語的なコミュニケーションなどが,演奏実践や文化伝承にとって重要な役割を果たしている.しかし,資料として残されたもののもつ具体的な内容にまで踏み込んだデジタル化によって,これまで大量の画像データの内部で読まれることを待つだけだった情報がより見つけられやすくなり,そこから得られた情報が人間をメディアとして伝承されていく音楽文化を形成する1つの要素として取り込まれていく可能性がある.本論文の成果は,雅楽譜記述におけるデジタル技術の導入というのみならず,雅楽情報に関する従来のアクセス方法を拡張し,音楽文化の保存と継承に新たな可能性を提供するものであると言える.
本論文は全5章で構成されている.第1章では,本研究が目指す「文化財の記録」の位置づけを明らかにするとともに,文化財保護における記録の意義を考察する.文化財保護法の規定や実際に文化財に関連した記録が作成されていく場面を取りあげながら,文化財保護における記録の役割を整理し,様々な要因で作成される有形文化財の記録が,その背後に存在する無形文化の保存を間接的に担ってきたことを示す.
第2章では,音楽文化における記録手法について,特に西洋音楽の楽譜文化を中心に論じる.西洋音楽では,演奏者の記憶を補助する目的で生まれた楽譜が客観的な音楽記録とみなされる水準にまで普遍化されていった.本章では,写真,録音,楽譜といった様々な記録手段に触れ,音楽記録としての楽譜の特性と,その記述に対して求められてきた客観性と主観性の両面を検討する.
第3章では,雅楽と雅楽譜の概要を示し,雅楽譜が伝承に対して果たしてきた役割を論じる.雅楽は日本の伝統音楽の中でも長い歴史を持ち,複数の楽器,演奏形態,記譜法で構成される音楽文化複合体としての様相を呈している.雅楽が経験してきた歴史的な転換点に触れながら,本論文が主題とする雅楽譜の整備までの過程と雅楽譜に求められた役割について検討する.また,雅楽譜の五線譜化に関連した取り組みの成果と限界を示し,それに対するGagakuXMLの意義を位置付ける.
第4章では,楽譜の機械可読化に向けた既存の取り組みと,本研究が提示する雅楽情報記述モデルの理論的枠組みについて述べる.人文学資料や音楽資料の機械可読化は,近年のデジタル人文学の発展に伴って進展しており,音楽情報記述のためのガイドラインの策定が進んでいる.本研究では,先に触れたMEIに加え,Standard Music Description Language (SMDL) の取り組みを参照しつつ,「雅楽情報記述の四領域モデル」を構築した.これにより,雅楽を取り巻く資料環境に則した情報記述が実現され,特定の楽譜や情報に過度に依存することなく,雅楽情報を統合的に取り扱うことが可能となった.
第5章では,「雅楽情報記述の四領域モデル」の一部に基づき,XMLを用いた雅楽譜のマークアップに関する具体的な記述構造について検討する.雅楽譜が持つテキスト情報とそれによってもたらされる意味的な構造が反映されたスキーマを構築することで,五線譜に基づいた構造を持つデータフォーマットを用いた従来のデジタル翻刻に比べ,より直感的で豊かな情報を持った表現が可能になった.また,メタデータについてはMEIのメタデータ記述構造を取り込むとともに,雅楽譜に独自のメタデータについては独自の記述領域を提供している.充実したメタデータの記述は音楽学,歴史学,国文学など,雅楽と関わりのある人文系学問と本研究の取り組みを接続する上でも非常に重要な要素である.さらに,構築した唐楽中小曲を構成する篳篥譜93件のデータに基づいて簡易的な可視化を行い,本研究の提供する楽譜データを用いることで,コンピュータを使用した雅楽譜記述の分析が可能であることを確認した.
文化的資料の機械可読化には一定の限界が存在することも確かではあるが,本論文の議論はそれらを踏まえた上で,なお記録という側面から文化の保存や継承を議論するものであり,情報技術を用いた文化の記録は既存の取り組みを新しい技術によって単に置き換えていくだけでなく,それ自体が有形・無形の文化財の保護と継承に資するものであることを示した.