本論は序章と終章の他に各論(付編を含める)全六章からなり、中国史上の分裂時代と称される五代十国時代に見られる、唐王朝中心の秩序に代わる新しい秩序の形成と展開を唐末五代十国期の女性封爵制度に焦点を当て論じた。
第一章では、北宋士人の政治的理想の解明を通して「五代十国」という用語の成立過程を論じた。現在、唐朝の滅亡から北宋の成立までのこの分裂時代は「五代十国」と称される。しかし「五代」という概念が北宋初期に確立されたのに対して、五代以外の政権に対する北宋士人の認識は、宋真宗の時期に至るまで統一されておらず、「十国」という概念が確立されたのは北宋中期である。「五代十国」という用語が欧陽脩の『五代史記』に由ることはよく知られているが、この概念は欧陽脩の独自の見解ではなく、北宋中期の士人たちに普遍的に認められていた主流の思想である。北宋中期、欧陽脩を代表とする北宋士人は、遼や西夏との戦争および外交上の失敗を背景に、自分の政治的理想を託して史書を再編纂し、改めて宋朝の内部で宋を中心とする天下秩序(五代―十国―夷狄)を明確にしようとした。つまり「五代十国」という用語は北宋士人の宋王朝を中心とした立場から作られた概念であり、唐滅亡以降の中華世界の政治的局面を正確に反映するものではない。
第二章では、十世紀前半期における王国間の婚姻関係の締結とその消失について考察した。唐中後期から五代十国初期に至るまで、多くの政権は互いに婚姻関係を結び、家族秩序を通じて同盟関係を構築、すなわち「婚姻外交」を行っていた。この婚姻外交は、十世紀半ばには次第に消えていった。唐朝滅亡後、唐王朝による正当性を失った各藩鎮政権は、自らの新たな天下秩序を構築する必要に迫られた。これを背景に、かつて家族を単位とし、婚姻を媒介として「政権」と「政権」の間に構築された家族秩序は、もはや「国家」と「国家」の間には適用されなくなった。そのため、婚姻外交は諸政権によって次第に放棄され、諸政権は互いの関係を処理する新たな方法を模索し始めた。
第三章では、魏晋南北朝から隋唐五代に至るまでの婦爵の封号の制定ルールとその由来、及びこの期間に生じた変化を主に議論し、これを通じて女性封爵制度が王朝の統治秩序の構築において果たした意味を探究した。魏晋から隋唐、五代にかけて、婦爵の対象者の範囲は次第に下層階級にまで広がり、唐代には社会の基層にまで到達した。国家は女性爵位を分封することで、社会全体の女性を一つの階級秩序に統合し、完結した女性の秩序を確立したのである。しかし一方で、婦爵が男性の身分や地位に依存する性格も次第に強まっていった。隋唐時代には、外命婦に関する規定が制度化され、婦爵はある程度男性の身分や地位に付随する物となった。女性の地位の上昇や下降は、男性の地位の変動によって決定され、女性への封爵は国家による男性官僚賞賛の手段と化した。かくして女性の階級秩序は男性の階級秩序に組み込まれ、官僚のみならず、官僚の母や妻に対しても直接的な統治秩序が形成されたと考えられる。
第四章では、五代十国期の王国政権内部の叙封制度の特徴、及びその王国間の平和的な関係の維持に対して果たす役割について考察した。五代十国期に、各政権は基本的に唐の制度を模倣して自らの叙封制度を作ったが、自国の状況に合わせてその制度を修正した。具体的には、「郡」以下の封号については、その邑名が自国領土に属するか否かを問わず、基本的に女性の姓にふさわしい郡望や本籍により叙封を行った。さらに、南唐と呉越の事例から分かるように、統治者は自らの地位の変化を際立たせるために、女性の称号の変更から始める傾向があった。そして、劉華に対する異なる政権からの封号に対して閩政権が取った対処方法からも分かるように、王国政権は一般的に自国と同盟がある政権の正当性を認めていた。しかし、もし自国以外の王国秩序と中原秩序との矛盾が露わになった場合、中原政権の秩序を王国政権の秩序より優先する傾向があった。それは王国政権が矛盾を回避する方法の一つであったが、これは王国政権が中原政権に臣服していることを意味するわけではなかった。むしろ、自国のためにより柔軟な外交戦略を選択した結果である。
第五章では、五代十国期の呉越政権の女性に対する、中原政権からの叙封を考察することを通じて、叙封制自体も独特な性格を有していたことを明らかにした。唐中後期、大量の異姓王の出現は、大量の異姓王妃の出現をもたらさず、これらの王国君主の母・妻は依然として官僚家族出身の女性が得られる最高の叙封である「国夫人」の地位にとどめ置かれた。こうした叙封によって、中原王朝は宗親王と異姓王が皇族―家臣という関係にあることを明確化したのである。そして、その後の五代期、中原王朝は呉越君主の妻に呉越国王と同様に、諸国の君主の妻たちより高い「呉越国夫人」という称号を与え、五代の天下秩序の中で、諸国を統率する位置に呉越国を置いた。一方、同時期に、呉越国は中原王朝から授けられた封号を使用しながらも、自身の領域内では「王太后」号を使用していた。このことから、呉越国が自らを中原天子の下位に位置づける一方で、女性に対する叙封を用いることで自らも帝王の実質を有するという独立性を強調する意図が読み取れる。さらに、呉越最後の国王である銭弘俶が宋に帰順した際には、彼の官爵がすでに最高位に達していたため、宋太祖は初めて従来の叙封制の規定を破り、銭弘俶の妻を「呉越国王妃」として封じた。このことは、男性の官職や爵位に依存する女性の叙封制は、男性の官爵が最高レベルに達してそれ以上の上昇を望み得ない時、あるいは男性の官爵がそれ以上王朝の政治目的に利用できない時、それを補完する重要な役割を果たしたことを表している。
付編では、漢代における女性爵位(婦爵)および命婦の形成と発展過程を主に考察する。「命婦」という語はその誕生当初、必ずしも「封号を有する女性」を指すものではなかった。当時、女性は「夫の官職+妻」という形で身分を示し、服飾の差異によって相互の身分と地位の秩序を明確にしていた。両漢期には、婦爵と綬制が女性の身分秩序に組み込まれた。女性たちは、一方で封号である婦爵を有するかどうかで自身の身分の高低を示し、他方で綬の色の違いと等級によってすべての女性を上下に序列化し、命婦制度の雛形を形成した。また、両漢期における封君号の取得者は皇室と密接な関係を有していたが、前漢では皇帝の母方の一族という関係であったのに対して、後漢では皇后の母および皇帝の乳母へと変遷した。後漢の政治状況を受けて、出身が卑しい乳母もまた、名門出身の女性と同様に封君号を得るに至り、女性君号取得者の範囲は下方へと拡大した。これにより、封号を得た女性たちは次第に皇権の中心から遠ざかり、婦爵が下方へと広がるにつれて女性の身分秩序も拡張され、貴族から庶民に至るまでの女性がこの秩序に包含されるようになったと考えられる。
従来の研究が主に政治・軍事・および男性の封爵の観点から論じてきたのに対し、本論は王朝が統治秩序を構築する際の女性封爵制度の活用に着目し、唐朝から五代十国期にかけての内在的な社会秩序および思想的淵源の変遷を考察し、十世紀における多元的な天下秩序の形成要因を探ったものである。唐末から五代にかけて、皇帝権が衰退する中、武力を基盤とする藩鎮家族勢力は次第に皇帝権、および文化や家学を基盤とする旧来の門閥貴族勢力を凌駕するようになった。従来の儒家倫理秩序、すなわち国家統治を支える枠組みは、当時の藩鎮政権指導者にとって軍事的拡張や武力征伐を進める上での障害となっていた。そこで、彼らはこうした束縛を放棄し、自らの地位や利益を維持するのに有利な方策を採用するようになった。かくして、先行研究が注目してきた二つの状況が形成された。一つは、諸政権の指導者たちが儒教の伝統的な「君臣」「父子」の倫理秩序に悖る形で、義兄弟や養父子などの擬制的血縁関係または姻親関係を構築して相互の関係を維持していたことである。もう一つは、政権間の関係を構築する際、自国の利益を損なわない限り相互に相手の皇帝としての地位を承認するなど、伝統的な大一統王朝よりも柔軟で寛容な処理方式を受け入れることができたことである。このことが十世紀における多元的天下秩序の要因となったのである。
しかし、各政権が徐々に王国体制への移行を完了していく中で、その君主たちは、藩鎮体制に適した従来のやり方が、政権の利益と安定を脅かすものであることを次第に認識するようになった。したがって、彼らは儒家の倫理秩序である君臣・父子の秩序を再構築しようとし、現実に即した方法で互いの関係を処理しようと試みた。本論で言及した五代十国期に改良された婦爵分封体制は、その一つの試みであろう。
一方で、諸政権間の関係の変化は外部の要因にも制約された。五代十国期には、他国を統一するほどの強大な政権は現れなかった。北宋が諸国を統一する能力を持った時には、周辺の遊牧民族政権の勃興がもたらす衝撃に直面することとなった。これを背景に、北宋中期の社会には複雑な状況が形成された。士人たちは、一方で王朝内部での宣伝や史書の編纂において君臣父子や尊王攘夷といった儒教秩序を盛んに説きつつ、他方では国家の現実的な安全のために澶淵の盟を必死に維持し、周辺の遊牧政権との平和関係を保とうとしたのである。
第一章では、北宋士人の政治的理想の解明を通して「五代十国」という用語の成立過程を論じた。現在、唐朝の滅亡から北宋の成立までのこの分裂時代は「五代十国」と称される。しかし「五代」という概念が北宋初期に確立されたのに対して、五代以外の政権に対する北宋士人の認識は、宋真宗の時期に至るまで統一されておらず、「十国」という概念が確立されたのは北宋中期である。「五代十国」という用語が欧陽脩の『五代史記』に由ることはよく知られているが、この概念は欧陽脩の独自の見解ではなく、北宋中期の士人たちに普遍的に認められていた主流の思想である。北宋中期、欧陽脩を代表とする北宋士人は、遼や西夏との戦争および外交上の失敗を背景に、自分の政治的理想を託して史書を再編纂し、改めて宋朝の内部で宋を中心とする天下秩序(五代―十国―夷狄)を明確にしようとした。つまり「五代十国」という用語は北宋士人の宋王朝を中心とした立場から作られた概念であり、唐滅亡以降の中華世界の政治的局面を正確に反映するものではない。
第二章では、十世紀前半期における王国間の婚姻関係の締結とその消失について考察した。唐中後期から五代十国初期に至るまで、多くの政権は互いに婚姻関係を結び、家族秩序を通じて同盟関係を構築、すなわち「婚姻外交」を行っていた。この婚姻外交は、十世紀半ばには次第に消えていった。唐朝滅亡後、唐王朝による正当性を失った各藩鎮政権は、自らの新たな天下秩序を構築する必要に迫られた。これを背景に、かつて家族を単位とし、婚姻を媒介として「政権」と「政権」の間に構築された家族秩序は、もはや「国家」と「国家」の間には適用されなくなった。そのため、婚姻外交は諸政権によって次第に放棄され、諸政権は互いの関係を処理する新たな方法を模索し始めた。
第三章では、魏晋南北朝から隋唐五代に至るまでの婦爵の封号の制定ルールとその由来、及びこの期間に生じた変化を主に議論し、これを通じて女性封爵制度が王朝の統治秩序の構築において果たした意味を探究した。魏晋から隋唐、五代にかけて、婦爵の対象者の範囲は次第に下層階級にまで広がり、唐代には社会の基層にまで到達した。国家は女性爵位を分封することで、社会全体の女性を一つの階級秩序に統合し、完結した女性の秩序を確立したのである。しかし一方で、婦爵が男性の身分や地位に依存する性格も次第に強まっていった。隋唐時代には、外命婦に関する規定が制度化され、婦爵はある程度男性の身分や地位に付随する物となった。女性の地位の上昇や下降は、男性の地位の変動によって決定され、女性への封爵は国家による男性官僚賞賛の手段と化した。かくして女性の階級秩序は男性の階級秩序に組み込まれ、官僚のみならず、官僚の母や妻に対しても直接的な統治秩序が形成されたと考えられる。
第四章では、五代十国期の王国政権内部の叙封制度の特徴、及びその王国間の平和的な関係の維持に対して果たす役割について考察した。五代十国期に、各政権は基本的に唐の制度を模倣して自らの叙封制度を作ったが、自国の状況に合わせてその制度を修正した。具体的には、「郡」以下の封号については、その邑名が自国領土に属するか否かを問わず、基本的に女性の姓にふさわしい郡望や本籍により叙封を行った。さらに、南唐と呉越の事例から分かるように、統治者は自らの地位の変化を際立たせるために、女性の称号の変更から始める傾向があった。そして、劉華に対する異なる政権からの封号に対して閩政権が取った対処方法からも分かるように、王国政権は一般的に自国と同盟がある政権の正当性を認めていた。しかし、もし自国以外の王国秩序と中原秩序との矛盾が露わになった場合、中原政権の秩序を王国政権の秩序より優先する傾向があった。それは王国政権が矛盾を回避する方法の一つであったが、これは王国政権が中原政権に臣服していることを意味するわけではなかった。むしろ、自国のためにより柔軟な外交戦略を選択した結果である。
第五章では、五代十国期の呉越政権の女性に対する、中原政権からの叙封を考察することを通じて、叙封制自体も独特な性格を有していたことを明らかにした。唐中後期、大量の異姓王の出現は、大量の異姓王妃の出現をもたらさず、これらの王国君主の母・妻は依然として官僚家族出身の女性が得られる最高の叙封である「国夫人」の地位にとどめ置かれた。こうした叙封によって、中原王朝は宗親王と異姓王が皇族―家臣という関係にあることを明確化したのである。そして、その後の五代期、中原王朝は呉越君主の妻に呉越国王と同様に、諸国の君主の妻たちより高い「呉越国夫人」という称号を与え、五代の天下秩序の中で、諸国を統率する位置に呉越国を置いた。一方、同時期に、呉越国は中原王朝から授けられた封号を使用しながらも、自身の領域内では「王太后」号を使用していた。このことから、呉越国が自らを中原天子の下位に位置づける一方で、女性に対する叙封を用いることで自らも帝王の実質を有するという独立性を強調する意図が読み取れる。さらに、呉越最後の国王である銭弘俶が宋に帰順した際には、彼の官爵がすでに最高位に達していたため、宋太祖は初めて従来の叙封制の規定を破り、銭弘俶の妻を「呉越国王妃」として封じた。このことは、男性の官職や爵位に依存する女性の叙封制は、男性の官爵が最高レベルに達してそれ以上の上昇を望み得ない時、あるいは男性の官爵がそれ以上王朝の政治目的に利用できない時、それを補完する重要な役割を果たしたことを表している。
付編では、漢代における女性爵位(婦爵)および命婦の形成と発展過程を主に考察する。「命婦」という語はその誕生当初、必ずしも「封号を有する女性」を指すものではなかった。当時、女性は「夫の官職+妻」という形で身分を示し、服飾の差異によって相互の身分と地位の秩序を明確にしていた。両漢期には、婦爵と綬制が女性の身分秩序に組み込まれた。女性たちは、一方で封号である婦爵を有するかどうかで自身の身分の高低を示し、他方で綬の色の違いと等級によってすべての女性を上下に序列化し、命婦制度の雛形を形成した。また、両漢期における封君号の取得者は皇室と密接な関係を有していたが、前漢では皇帝の母方の一族という関係であったのに対して、後漢では皇后の母および皇帝の乳母へと変遷した。後漢の政治状況を受けて、出身が卑しい乳母もまた、名門出身の女性と同様に封君号を得るに至り、女性君号取得者の範囲は下方へと拡大した。これにより、封号を得た女性たちは次第に皇権の中心から遠ざかり、婦爵が下方へと広がるにつれて女性の身分秩序も拡張され、貴族から庶民に至るまでの女性がこの秩序に包含されるようになったと考えられる。
従来の研究が主に政治・軍事・および男性の封爵の観点から論じてきたのに対し、本論は王朝が統治秩序を構築する際の女性封爵制度の活用に着目し、唐朝から五代十国期にかけての内在的な社会秩序および思想的淵源の変遷を考察し、十世紀における多元的な天下秩序の形成要因を探ったものである。唐末から五代にかけて、皇帝権が衰退する中、武力を基盤とする藩鎮家族勢力は次第に皇帝権、および文化や家学を基盤とする旧来の門閥貴族勢力を凌駕するようになった。従来の儒家倫理秩序、すなわち国家統治を支える枠組みは、当時の藩鎮政権指導者にとって軍事的拡張や武力征伐を進める上での障害となっていた。そこで、彼らはこうした束縛を放棄し、自らの地位や利益を維持するのに有利な方策を採用するようになった。かくして、先行研究が注目してきた二つの状況が形成された。一つは、諸政権の指導者たちが儒教の伝統的な「君臣」「父子」の倫理秩序に悖る形で、義兄弟や養父子などの擬制的血縁関係または姻親関係を構築して相互の関係を維持していたことである。もう一つは、政権間の関係を構築する際、自国の利益を損なわない限り相互に相手の皇帝としての地位を承認するなど、伝統的な大一統王朝よりも柔軟で寛容な処理方式を受け入れることができたことである。このことが十世紀における多元的天下秩序の要因となったのである。
しかし、各政権が徐々に王国体制への移行を完了していく中で、その君主たちは、藩鎮体制に適した従来のやり方が、政権の利益と安定を脅かすものであることを次第に認識するようになった。したがって、彼らは儒家の倫理秩序である君臣・父子の秩序を再構築しようとし、現実に即した方法で互いの関係を処理しようと試みた。本論で言及した五代十国期に改良された婦爵分封体制は、その一つの試みであろう。
一方で、諸政権間の関係の変化は外部の要因にも制約された。五代十国期には、他国を統一するほどの強大な政権は現れなかった。北宋が諸国を統一する能力を持った時には、周辺の遊牧民族政権の勃興がもたらす衝撃に直面することとなった。これを背景に、北宋中期の社会には複雑な状況が形成された。士人たちは、一方で王朝内部での宣伝や史書の編纂において君臣父子や尊王攘夷といった儒教秩序を盛んに説きつつ、他方では国家の現実的な安全のために澶淵の盟を必死に維持し、周辺の遊牧政権との平和関係を保とうとしたのである。