本論文は、近代において日本産の石炭(以下は日本炭と呼ぶ)が大量に中国に輸出されていたという現象に注目し、物の流通と人のネットワークという二つの側面から近代中国石炭市場の実態を検証しつつ、エネルギー資源をめぐる経済発展と政治外交的衝突という二つの視点から、日中関係の複雑な実像について検討するものである。
18世紀後半から20世紀前期まで、欧米諸国では石炭は最も重要なエネルギー資源とされていた。カリフォルニア学派の「大分岐」説によれば、西ヨーロッパは石炭の利用によってエネルギー源としての森林資源の制約を突破し、近代経済の成長を可能にした。一方、中国南部の長江デルタは北部の主要な炭鉱から遠く離れていたため、産業革命が起こり得なかったと指摘されている。近代に入り、中国の経済の発展を牽引した長江中下流域では、北部の炭鉱へのアクセスが依然として問題とされていた。しかし、近代中国は如何に石炭の安定供給を確保したのか、という問いに対して、従来の研究はまだ明確な答えを見出していない。
実際のところ、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、日本炭、または撫順炭などの日系企業が産出する石炭は大量に上海や漢口などの開港場に輸入され、これらの地域の主要なエネルギー供給源となった。そこで、本論文の第一の目的は、長江中下流域を中心に、日中石炭貿易の展開過程を把握することである。さらに、石炭の安定供給には、石炭市場が適切に機能し、石炭の取引が円滑に行われることが不可欠である。したがって、本論文の第二の目的は、日本炭の流通ルートを解明した上で、日中石炭貿易の担い手について検討することである。他方では、日本炭の存在が中国の鉱業の発展を阻害していたという側面も見逃せない。本論文の第三の目的は、日本と中国の石炭業界の競争の実態を明らかにし、南京国民政府による自国石炭業振興策について分析することである。
以上の問題意識に基づき、本論文は六つの章から構成される。各章の概要は以下の通りである。
第一章では、近代中国における石炭の最大市場であった上海における石炭需給の推移について考察した。1870年代半ば以降、上海は約40年間にわたり日本炭の輸入に依存していた。これは、日本炭が運賃や為替相場などの要素において優位性を持ち、価格競争力を有したことで、イギリス炭やオーストラリア炭を市場から排除したからである。しかし、20世紀に入ると、日本炭は日本国内の賃金や物価の上昇により中国市場での地位が低下し優位性を失いつつあった。1910年代中期以降、上海市場では、日本炭・撫順炭・開灤炭が三本柱となっていった。大量の日本炭の輸入は、上海の経済発展に積極的な役割を果たした。とりわけ、日清戦争以降、上海における石炭需要は著しく拡大していた。この時期には、船舶用炭の増加のみならず、工場・発電・家庭などの需要も増加し、石炭の用途は多様化していったという構造変化が見られた。それと同時に、日本炭の輸入額は石炭輸入総額とほぼ同じ比率で増加し、そのシェアも長い期間にわたって上海市場の70%以上を保っていた。一方、石炭需要の多様化は、多様な性質の石炭を産出できる日本の石炭業にとって市場を拡張する好機となった。
第二章では、上海市場を中心に、日本炭の流通構造について考察し、日本の生産地から中国の消費地までの流通径路を解明した。さらに、貿易史の視点から、近代日中石炭貿易の歴史的性格について分析した。清代中期以降、日中貿易は縮小していたが、両国が相次いで開港した後、石炭が日中貿易にとって新たな発展のチャンスをもたらした。石炭の輸出により、日本は多額の外貨を獲得し、三井や三菱を代表とする日本の商社は大きな利益を上げながら、販売ルートの開拓や海外支店の設立を通じて、日本の資本主義の基盤形成に寄与したのである。また、日本炭の中国市場での成功は、ほかの日本製品の輸出を促進していた。したがって、石炭は、日中貿易が伝統的な海産物を中心とする在来の長崎貿易から近代的な工業製品を中心とする貿易へと移行する過渡期における重要な商品であったと言える。
第三章では、上海市場に注目し、日中石炭貿易の担い手である日本人と中国人の石炭商人の間の競争と連携について考察し、各々が果たした役割を検討した。在上海の浙江人石炭商は長崎に支店を設立し、長崎―上海間での石炭貿易のルートを形成することによって、日本炭の上海市場参入に大きく貢献した。一方、日本の商社による石炭の直輸出の急増に対応するために、中国人石炭商は上海市場において新たな役割を見出し、仲買商として働くようになった。中国人石炭商は結束して季節変動などの要素を利用し、中小消費者向けの廉価な石炭の市場を掌握していた。したがって、上海石炭市場では、日本の商社が上等炭の販売を独占し、中国人石炭商が中下等炭の市場を把握するという相違が見られた。
第四章では、上海に次いで重要な石炭市場であった武漢における石炭の需給の実態について考察した。1910年代までは、武漢は日本炭の輸入に依存していた。1910年代中期以降、上海では主に海運を利用し、1930年代に至っても日本炭・撫順炭の供給に頼っていたの対し、武漢では鉄道の交通の便に恵まれたため、京漢鉄道沿線からの石炭供給が中心となった。ただし、1920年代後半の軍閥戦争により、再び日本炭が武漢に輸入されるようになり、撫順炭の輸入も増加していた。こうして、武漢では石炭供給不足の問題が発生することはなかったものの、軍閥戦争前に増加傾向にあった石炭の需要は大幅に減少したため、需要の不足によって武漢の石炭市場は停滞を余儀なくされた。
第五章では、長江中下流域の石炭市場を対象に、日本と中国の石炭の競争について分析した。生産・運輸・販売の各側面について比較したところ、資金力の弱さやコストの高さ、輸送の不便さから、中国企業が採掘した石炭が販路を確保するのは極めて困難であったことがわかる。しかし、外国の石炭に頼っていたことは、エネルギーの安全保障における潜在的な危機を抱えていた。そのため、中国の政府や石炭の採掘業者は、日本炭の市場支配を中国国内の石炭産業の発展を阻害する要因として問題視していた。満洲事変後、日本炭および撫順炭に対する未曽有のボイコット運動が発生し、これにより長江中下流域では石炭供給不足の問題が生じた。こうして、中国の石炭産業は、前例のない危機の中で、鉄道運賃の値下げなどの南京国民政府の振興策によって発展のチャンスも得た。
第六章では、日本炭および撫順炭のダンピング問題をめぐる議論と対策について検討した。上海停戦協定の後、日本炭・撫順炭は過剰在庫を解消するために値下げなどの対策を行い、銀高の状況下で売れ行きが急速に伸びていた。こうして、中国炭は大きな危機に直面し、供給過剰の状態に陥った。中国の専門家や石炭業者は中国炭を救済するために、日本炭・撫順炭が略奪的ダンピングを行っていると誇張して宣伝し、ダンピング防止税の賦課を要請した。しかし、当時の日本国内における石炭の需給の実態を考えると、「中国の石炭産業を破壊する」意図を持つ可能性は低かったと考えられる。一方、ダンピング防止税導入の提案は、実施の困難、外交交渉の回避、東北の領土問題や中国工業に対する悪影響などの理由で、結果的には採用されなかった。南京国民政府は石炭に対する輸入税の調整を、日中関税協定の失効後の関税改訂に組み込んで、保護関税によって政策意図を達成した。
以上のように、本論文では1859年から1937年にかけて、上海と武漢における石炭需給の動向、石炭の流通径路、および石炭市場に関与した生産者・商人・政府の活動について検討した。石炭の利用にとっては、単に埋蔵量の多さだけが鍵となったわけではなく、生産地から消費地へ効率的に運ぶための輸送コストが決定的な要因となった。上海における石炭供給は、長期にわたり海運に依存しており、最初は日本炭が圧倒的な優位を占めていたが、1920年代になると日本炭・撫順炭・開灤炭へと多様化した。一方、武漢市場では、鉄道・内河航路・長江航路という複数の交通手段に恵まれ、様々な供給源から石炭を獲得していた。その結果、日本炭から中国産の石炭、再び日本炭および撫順炭、そして再度中国産の石炭へと供給源の変化を繰り返した。このように、日本炭は長年にわたり、重要なエネルギー資源として近代中国の経済成長を支え、同時に先鋒として近代日中貿易の拡大を促進していた。一方、日本炭や撫順炭の輸入は、中国国内の石炭産業の発展を妨げ、エネルギー供給の安全保障における課題も生み出した。このような矛盾が満洲事変を契機に激化する中、南京国民政府は関税引き上げによって日本炭の輸入制限を図ったが、中国資本の炭鉱の成長は石炭需要の低迷により依然として制約されていたと言える。
18世紀後半から20世紀前期まで、欧米諸国では石炭は最も重要なエネルギー資源とされていた。カリフォルニア学派の「大分岐」説によれば、西ヨーロッパは石炭の利用によってエネルギー源としての森林資源の制約を突破し、近代経済の成長を可能にした。一方、中国南部の長江デルタは北部の主要な炭鉱から遠く離れていたため、産業革命が起こり得なかったと指摘されている。近代に入り、中国の経済の発展を牽引した長江中下流域では、北部の炭鉱へのアクセスが依然として問題とされていた。しかし、近代中国は如何に石炭の安定供給を確保したのか、という問いに対して、従来の研究はまだ明確な答えを見出していない。
実際のところ、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、日本炭、または撫順炭などの日系企業が産出する石炭は大量に上海や漢口などの開港場に輸入され、これらの地域の主要なエネルギー供給源となった。そこで、本論文の第一の目的は、長江中下流域を中心に、日中石炭貿易の展開過程を把握することである。さらに、石炭の安定供給には、石炭市場が適切に機能し、石炭の取引が円滑に行われることが不可欠である。したがって、本論文の第二の目的は、日本炭の流通ルートを解明した上で、日中石炭貿易の担い手について検討することである。他方では、日本炭の存在が中国の鉱業の発展を阻害していたという側面も見逃せない。本論文の第三の目的は、日本と中国の石炭業界の競争の実態を明らかにし、南京国民政府による自国石炭業振興策について分析することである。
以上の問題意識に基づき、本論文は六つの章から構成される。各章の概要は以下の通りである。
第一章では、近代中国における石炭の最大市場であった上海における石炭需給の推移について考察した。1870年代半ば以降、上海は約40年間にわたり日本炭の輸入に依存していた。これは、日本炭が運賃や為替相場などの要素において優位性を持ち、価格競争力を有したことで、イギリス炭やオーストラリア炭を市場から排除したからである。しかし、20世紀に入ると、日本炭は日本国内の賃金や物価の上昇により中国市場での地位が低下し優位性を失いつつあった。1910年代中期以降、上海市場では、日本炭・撫順炭・開灤炭が三本柱となっていった。大量の日本炭の輸入は、上海の経済発展に積極的な役割を果たした。とりわけ、日清戦争以降、上海における石炭需要は著しく拡大していた。この時期には、船舶用炭の増加のみならず、工場・発電・家庭などの需要も増加し、石炭の用途は多様化していったという構造変化が見られた。それと同時に、日本炭の輸入額は石炭輸入総額とほぼ同じ比率で増加し、そのシェアも長い期間にわたって上海市場の70%以上を保っていた。一方、石炭需要の多様化は、多様な性質の石炭を産出できる日本の石炭業にとって市場を拡張する好機となった。
第二章では、上海市場を中心に、日本炭の流通構造について考察し、日本の生産地から中国の消費地までの流通径路を解明した。さらに、貿易史の視点から、近代日中石炭貿易の歴史的性格について分析した。清代中期以降、日中貿易は縮小していたが、両国が相次いで開港した後、石炭が日中貿易にとって新たな発展のチャンスをもたらした。石炭の輸出により、日本は多額の外貨を獲得し、三井や三菱を代表とする日本の商社は大きな利益を上げながら、販売ルートの開拓や海外支店の設立を通じて、日本の資本主義の基盤形成に寄与したのである。また、日本炭の中国市場での成功は、ほかの日本製品の輸出を促進していた。したがって、石炭は、日中貿易が伝統的な海産物を中心とする在来の長崎貿易から近代的な工業製品を中心とする貿易へと移行する過渡期における重要な商品であったと言える。
第三章では、上海市場に注目し、日中石炭貿易の担い手である日本人と中国人の石炭商人の間の競争と連携について考察し、各々が果たした役割を検討した。在上海の浙江人石炭商は長崎に支店を設立し、長崎―上海間での石炭貿易のルートを形成することによって、日本炭の上海市場参入に大きく貢献した。一方、日本の商社による石炭の直輸出の急増に対応するために、中国人石炭商は上海市場において新たな役割を見出し、仲買商として働くようになった。中国人石炭商は結束して季節変動などの要素を利用し、中小消費者向けの廉価な石炭の市場を掌握していた。したがって、上海石炭市場では、日本の商社が上等炭の販売を独占し、中国人石炭商が中下等炭の市場を把握するという相違が見られた。
第四章では、上海に次いで重要な石炭市場であった武漢における石炭の需給の実態について考察した。1910年代までは、武漢は日本炭の輸入に依存していた。1910年代中期以降、上海では主に海運を利用し、1930年代に至っても日本炭・撫順炭の供給に頼っていたの対し、武漢では鉄道の交通の便に恵まれたため、京漢鉄道沿線からの石炭供給が中心となった。ただし、1920年代後半の軍閥戦争により、再び日本炭が武漢に輸入されるようになり、撫順炭の輸入も増加していた。こうして、武漢では石炭供給不足の問題が発生することはなかったものの、軍閥戦争前に増加傾向にあった石炭の需要は大幅に減少したため、需要の不足によって武漢の石炭市場は停滞を余儀なくされた。
第五章では、長江中下流域の石炭市場を対象に、日本と中国の石炭の競争について分析した。生産・運輸・販売の各側面について比較したところ、資金力の弱さやコストの高さ、輸送の不便さから、中国企業が採掘した石炭が販路を確保するのは極めて困難であったことがわかる。しかし、外国の石炭に頼っていたことは、エネルギーの安全保障における潜在的な危機を抱えていた。そのため、中国の政府や石炭の採掘業者は、日本炭の市場支配を中国国内の石炭産業の発展を阻害する要因として問題視していた。満洲事変後、日本炭および撫順炭に対する未曽有のボイコット運動が発生し、これにより長江中下流域では石炭供給不足の問題が生じた。こうして、中国の石炭産業は、前例のない危機の中で、鉄道運賃の値下げなどの南京国民政府の振興策によって発展のチャンスも得た。
第六章では、日本炭および撫順炭のダンピング問題をめぐる議論と対策について検討した。上海停戦協定の後、日本炭・撫順炭は過剰在庫を解消するために値下げなどの対策を行い、銀高の状況下で売れ行きが急速に伸びていた。こうして、中国炭は大きな危機に直面し、供給過剰の状態に陥った。中国の専門家や石炭業者は中国炭を救済するために、日本炭・撫順炭が略奪的ダンピングを行っていると誇張して宣伝し、ダンピング防止税の賦課を要請した。しかし、当時の日本国内における石炭の需給の実態を考えると、「中国の石炭産業を破壊する」意図を持つ可能性は低かったと考えられる。一方、ダンピング防止税導入の提案は、実施の困難、外交交渉の回避、東北の領土問題や中国工業に対する悪影響などの理由で、結果的には採用されなかった。南京国民政府は石炭に対する輸入税の調整を、日中関税協定の失効後の関税改訂に組み込んで、保護関税によって政策意図を達成した。
以上のように、本論文では1859年から1937年にかけて、上海と武漢における石炭需給の動向、石炭の流通径路、および石炭市場に関与した生産者・商人・政府の活動について検討した。石炭の利用にとっては、単に埋蔵量の多さだけが鍵となったわけではなく、生産地から消費地へ効率的に運ぶための輸送コストが決定的な要因となった。上海における石炭供給は、長期にわたり海運に依存しており、最初は日本炭が圧倒的な優位を占めていたが、1920年代になると日本炭・撫順炭・開灤炭へと多様化した。一方、武漢市場では、鉄道・内河航路・長江航路という複数の交通手段に恵まれ、様々な供給源から石炭を獲得していた。その結果、日本炭から中国産の石炭、再び日本炭および撫順炭、そして再度中国産の石炭へと供給源の変化を繰り返した。このように、日本炭は長年にわたり、重要なエネルギー資源として近代中国の経済成長を支え、同時に先鋒として近代日中貿易の拡大を促進していた。一方、日本炭や撫順炭の輸入は、中国国内の石炭産業の発展を妨げ、エネルギー供給の安全保障における課題も生み出した。このような矛盾が満洲事変を契機に激化する中、南京国民政府は関税引き上げによって日本炭の輸入制限を図ったが、中国資本の炭鉱の成長は石炭需要の低迷により依然として制約されていたと言える。