リグヴェーダ(以下 R̥V と略す)は、古インドアーリヤ語(サンスクリット語)を用いて作られた最古の文献である。本論文は、R̥V における重要語彙の一つである hā́rd-i / hr̥d-; hŕ̥daya-「心臓」を主題とする。当該語は、複合語の一部や派生語をも含め、R̥V に 106 回出現し、臓器を意味する語彙の中でも用例数が突出している。それだけでなく、その機能は単なる臓器を超えて様々な領域にわたり,文化的・思想史的にも極めて重要となる。しかし、その重要性に比して、先行研究で十分な検討がなされてきたとは言い難い。
上述の現状を鑑み、本論文では、以下の二つの目標を定めた:
[1]R̥V において心臓には如何なる諸機能があるかを調べ、それぞれの機能ごとに詳細と背景を明らかにすること。
[2]それらを綜合すると、R̥V において心臓が全体として如何に表象されていたかを明らかにすること。
なお、その際に、R̥V における心臓の語の形態論的側面についても注意を払う。
この目標を達成するため、本論文では、R̥V における心臓の全用例を調査し、原文に詳細な文化的・言語学的訳注を付した上で、諸観念ごとに分類し、文脈を議論する、という手法を採った。このような徹底した文献学的手続きは、先行研究において十全に行われてこなかったものであり、本論文の顕著な特徴をなす。
本論文は、末尾の文献一覧を除けば、I. 序論・II. 本論・III. 資料篇・IV. 付録 という全 4 篇に分かれる。
I. 序論は、二つに分かれる。最初の I.1. では、本論文の問題設定・先行研究・目標と研究方法・構成などを論じた。次に来る I.2. では、本論への前提知識として、R̥V という文献と、ヴェーダ文献全般の基礎・概要について説明した。
II. 本論 は、本論文全体の中核であり、11 章からなる。その末尾で結論が示される。
第 1 章では、心臓が言葉の形成・発出に関与する諸例を論じた。R̥V における心臓による詩作の過程が、大工仕事、およびソーマの濾過に喩えられる例がある。そのような例では、詩作に心臓が関与しており、心臓から詩が発出するという描写、心臓によって詩が形成されるという描写がみられる。
詩作に際しては、〈1〉心臓の他に、〈2〉√man「考える」の派生語によって表される精神作用である matí-「考え・アイデア」・mánas-「思考」・manīṣā́-「思考の方向付け」、更に〈3〉krátu-「精神力、意志力」の関与が見られる。加えて、〈4〉ソーマが心臓に入ってそこで詩のアイデアを生み出すとされていた可能性も想定しうる。
第 2 章では、讃歌が神の心臓に到着するといえる諸例を論じた。讃歌が神の心臓に寄り掛かるとされる例、(讃歌の)言葉が心臓の内にある(/に近い)ものであれと述べられる例、讃歌が「心臓に触れる」とされる例である。これらの表現は主に、詩人が自らの讃歌に言及する中で、詩人が神の好意を得て、自分の発した詩を聞き入れてもらう、という文脈に出現する。心臓は、神が詩人の言葉を嘉納する器官として捉えられていたといえる。
第 3 章では、śám hr̥dé「心臓にとって吉祥である」というフレーズを論じた。このフレーズは、ソーマ・讃歌・薬について用いられる。讃歌についていう例は、詩が神の心臓に届くという表現、および他者への感情や態度を司る機能と関連する可能性が考えられる。讃歌の例は、讃歌が神格の心臓に到着する例と関連する。ソーマの例の背景には、ソーマが心臓中にあり、心臓に作用を及ぼすという観念があると思われる。薬の例では、心臓に治療効果が及ぶことが述べられている可能性が考えられ、心臓に病があるとされる例を参照しうる。
第 4 章では、明言されない何らかの(神秘的)事物――太陽などの可能性がある――を心臓によって見るとされる例 2 例を論じた。見る際の熱心さを謂うのでない場合は、通常の視覚を越えた視覚を謂う可能性がある。更に、創造讃歌(R̥V 10.129.4)において、宇宙創造の有様を心臓の中に探し、見出すという重要な描写を論じた。心臓は、通常の感覚では知覚できないものをその中において知覚する器官と考えられていたものと思われる。
第 5 章では、心臓中に様々な精神機能があるとされる諸例を論じた。心臓中には、krátu-「精神力・意志力」、ā́kūti-「目論見」、dhītí-「思念」、kéta-「意図」、mánas-「思考(器官)」、(諸感覚器官に並んで)jyótiṣ-「光」が存在するとされる。人間の表には出さない考えも、心臓中にあるものと解釈される。
第 6 章では、心臓が感情と関わる諸例を論じた。心臓は様々な感情(恐れ、勇気、喜ばしさ、欲望[解釈による]、熱するような苦しみ、愛しさ、他者への感情・態度、熱心さ、男女の恋愛感情など、好ましさ・享受)を担う、感情の座である。「恐れが心臓に行く」という表現は、R̥V においては、感情が独立したものとして、外側から当人に、特にその心臓にやって来るものとして経験・表象されていたことを示唆する。熱するような苦しみを心臓で感じる諸例からは、心臓が内的感覚と結びついていたことが示唆される。「心臓」の語が pl. で用いられる場合は、比喩的に「感情」を表す場合がある。
第 7 章では、心臓の中に飲まれたソーマが入るとされる諸例を論じた。R̥V において、液体飲料としてのソーマが飲まれると入るとされる身体部位としては、[1] kukṣí- m.「脇腹(/頬 ?)」、[2] jaṭhára- n.「腹」、[3] udára- n.「腹」、[4] gā́tra- n.「肢・身体部位」、[5] hā́rdi / hr̥d- n.「心臓」の例が確認される。「心臓」の例に限って言えば、飲食主体としてはインドラおよび人間が在証され、心臓に入るとされる飲食物はソーマのみである。
胃などと異なって消化器系に直結しない心臓にソーマが流入すると考えられていたことは、現代の解剖学的観点からは奇妙であり、その理由が問題となる。心臓への流入として体感されるような、身体、特に心臓に対する何らかの(例えば興奮による高心拍数などの)生理作用が感じられた可能性が考えられる。それ以外にも、ソーマが讃歌の言葉――そのアイデアは心臓中にあるとされる――を生み出すとされていたことが背景にある可能性もある。或いは、例えば消化器系と繋がっているなど、心臓が消化に何らかの形で関わると考えられていた可能性も排除されない。
第 8 章では、心臓中に病気があるとされる少数の例を論じた。ミトラ・ヴァルナによる神罰としての病が心臓中にあるという例、昇りつつある太陽に心臓病(hr̥drogá-)を消す効能があるとされる例、ヴァルナが心臓病の一種と思われるものを癒す例、治療呪文における身体部位の列挙中に心臓も出現する例が挙げられる。
第 9 章では、敵の心臓が攻撃対象となる例を論じた。用例数は少なく、事実上 2 つの讃歌の用例に限られる。心臓が急所の一つと考えられていた可能性が考えられる。
第 10 章では、解釈困難な諸例を個別に論じた。
第 11 章は、結論の章となる。その前半において本論文で得られた形態論的知見について述べた後、後半においては第 1–10 章で得られた結果を分析し、以下の結論を導いた:
R̥V における心臓自体は、原則としてあくまで人の身体中に具体的な形で存在する臓器であることを離れるわけではない(心臓を例外的に「比喩的」と呼びうる確実な例は、感情を表す比喩的 pl. の例に限られる)。しかし、それが示す機能は、より物質的・身体的なものから、より精神的なものまで、幅広い。
心臓の、物質的・身体的器官としての側面がより強く見られる場合(本論第 7–9 章)をも軽視し得ないものの、全体として見ると寧ろ、精神活動を担う器官・場としての心臓(本論 1–6 章)のほうにより重点が置かれているといえる。そのような精神活動のなかには、感情のような文化普遍的と思われるものもある。一方で、R̥V の文化に特徴的であり、特に重要と思われる例として、心臓が言葉(讃歌)の発出に関わる、心臓が諸々の精神機能を担う、心臓において通常の感覚では知覚できないと思われる宇宙創造の有様を知覚する、といった例がとりわけ注目される。
要するに、R̥V において心臓は、物質性を完全に離れるわけではないものの、主として精神的な活動が行われる場としての側面を色濃く有している身体器官であるといえる。
III. 資料篇 として、R̥V における心臓の語を含む詩節の全用例の原文と、それに詳細な訳注を付したものを掲載し、さらに本論中において論じた箇所への参照指示を付した。
IV. 付録 として、以下を収録した:
1. hā́rd- / hr̥d-, hŕ̥daya- およびその派生語の R̥V での全出現箇所の表。
2. 心臓の語の数についてのまとめ。
3. 心臓の語を用いた特徴的コロケーションのまとめ。
4.「心臓」を含む全ての R̥V 詩節の、詩人・神格・韻律表。
上述の現状を鑑み、本論文では、以下の二つの目標を定めた:
[1]R̥V において心臓には如何なる諸機能があるかを調べ、それぞれの機能ごとに詳細と背景を明らかにすること。
[2]それらを綜合すると、R̥V において心臓が全体として如何に表象されていたかを明らかにすること。
なお、その際に、R̥V における心臓の語の形態論的側面についても注意を払う。
この目標を達成するため、本論文では、R̥V における心臓の全用例を調査し、原文に詳細な文化的・言語学的訳注を付した上で、諸観念ごとに分類し、文脈を議論する、という手法を採った。このような徹底した文献学的手続きは、先行研究において十全に行われてこなかったものであり、本論文の顕著な特徴をなす。
本論文は、末尾の文献一覧を除けば、I. 序論・II. 本論・III. 資料篇・IV. 付録 という全 4 篇に分かれる。
I. 序論は、二つに分かれる。最初の I.1. では、本論文の問題設定・先行研究・目標と研究方法・構成などを論じた。次に来る I.2. では、本論への前提知識として、R̥V という文献と、ヴェーダ文献全般の基礎・概要について説明した。
II. 本論 は、本論文全体の中核であり、11 章からなる。その末尾で結論が示される。
第 1 章では、心臓が言葉の形成・発出に関与する諸例を論じた。R̥V における心臓による詩作の過程が、大工仕事、およびソーマの濾過に喩えられる例がある。そのような例では、詩作に心臓が関与しており、心臓から詩が発出するという描写、心臓によって詩が形成されるという描写がみられる。
詩作に際しては、〈1〉心臓の他に、〈2〉√man「考える」の派生語によって表される精神作用である matí-「考え・アイデア」・mánas-「思考」・manīṣā́-「思考の方向付け」、更に〈3〉krátu-「精神力、意志力」の関与が見られる。加えて、〈4〉ソーマが心臓に入ってそこで詩のアイデアを生み出すとされていた可能性も想定しうる。
第 2 章では、讃歌が神の心臓に到着するといえる諸例を論じた。讃歌が神の心臓に寄り掛かるとされる例、(讃歌の)言葉が心臓の内にある(/に近い)ものであれと述べられる例、讃歌が「心臓に触れる」とされる例である。これらの表現は主に、詩人が自らの讃歌に言及する中で、詩人が神の好意を得て、自分の発した詩を聞き入れてもらう、という文脈に出現する。心臓は、神が詩人の言葉を嘉納する器官として捉えられていたといえる。
第 3 章では、śám hr̥dé「心臓にとって吉祥である」というフレーズを論じた。このフレーズは、ソーマ・讃歌・薬について用いられる。讃歌についていう例は、詩が神の心臓に届くという表現、および他者への感情や態度を司る機能と関連する可能性が考えられる。讃歌の例は、讃歌が神格の心臓に到着する例と関連する。ソーマの例の背景には、ソーマが心臓中にあり、心臓に作用を及ぼすという観念があると思われる。薬の例では、心臓に治療効果が及ぶことが述べられている可能性が考えられ、心臓に病があるとされる例を参照しうる。
第 4 章では、明言されない何らかの(神秘的)事物――太陽などの可能性がある――を心臓によって見るとされる例 2 例を論じた。見る際の熱心さを謂うのでない場合は、通常の視覚を越えた視覚を謂う可能性がある。更に、創造讃歌(R̥V 10.129.4)において、宇宙創造の有様を心臓の中に探し、見出すという重要な描写を論じた。心臓は、通常の感覚では知覚できないものをその中において知覚する器官と考えられていたものと思われる。
第 5 章では、心臓中に様々な精神機能があるとされる諸例を論じた。心臓中には、krátu-「精神力・意志力」、ā́kūti-「目論見」、dhītí-「思念」、kéta-「意図」、mánas-「思考(器官)」、(諸感覚器官に並んで)jyótiṣ-「光」が存在するとされる。人間の表には出さない考えも、心臓中にあるものと解釈される。
第 6 章では、心臓が感情と関わる諸例を論じた。心臓は様々な感情(恐れ、勇気、喜ばしさ、欲望[解釈による]、熱するような苦しみ、愛しさ、他者への感情・態度、熱心さ、男女の恋愛感情など、好ましさ・享受)を担う、感情の座である。「恐れが心臓に行く」という表現は、R̥V においては、感情が独立したものとして、外側から当人に、特にその心臓にやって来るものとして経験・表象されていたことを示唆する。熱するような苦しみを心臓で感じる諸例からは、心臓が内的感覚と結びついていたことが示唆される。「心臓」の語が pl. で用いられる場合は、比喩的に「感情」を表す場合がある。
第 7 章では、心臓の中に飲まれたソーマが入るとされる諸例を論じた。R̥V において、液体飲料としてのソーマが飲まれると入るとされる身体部位としては、[1] kukṣí- m.「脇腹(/頬 ?)」、[2] jaṭhára- n.「腹」、[3] udára- n.「腹」、[4] gā́tra- n.「肢・身体部位」、[5] hā́rdi / hr̥d- n.「心臓」の例が確認される。「心臓」の例に限って言えば、飲食主体としてはインドラおよび人間が在証され、心臓に入るとされる飲食物はソーマのみである。
胃などと異なって消化器系に直結しない心臓にソーマが流入すると考えられていたことは、現代の解剖学的観点からは奇妙であり、その理由が問題となる。心臓への流入として体感されるような、身体、特に心臓に対する何らかの(例えば興奮による高心拍数などの)生理作用が感じられた可能性が考えられる。それ以外にも、ソーマが讃歌の言葉――そのアイデアは心臓中にあるとされる――を生み出すとされていたことが背景にある可能性もある。或いは、例えば消化器系と繋がっているなど、心臓が消化に何らかの形で関わると考えられていた可能性も排除されない。
第 8 章では、心臓中に病気があるとされる少数の例を論じた。ミトラ・ヴァルナによる神罰としての病が心臓中にあるという例、昇りつつある太陽に心臓病(hr̥drogá-)を消す効能があるとされる例、ヴァルナが心臓病の一種と思われるものを癒す例、治療呪文における身体部位の列挙中に心臓も出現する例が挙げられる。
第 9 章では、敵の心臓が攻撃対象となる例を論じた。用例数は少なく、事実上 2 つの讃歌の用例に限られる。心臓が急所の一つと考えられていた可能性が考えられる。
第 10 章では、解釈困難な諸例を個別に論じた。
第 11 章は、結論の章となる。その前半において本論文で得られた形態論的知見について述べた後、後半においては第 1–10 章で得られた結果を分析し、以下の結論を導いた:
R̥V における心臓自体は、原則としてあくまで人の身体中に具体的な形で存在する臓器であることを離れるわけではない(心臓を例外的に「比喩的」と呼びうる確実な例は、感情を表す比喩的 pl. の例に限られる)。しかし、それが示す機能は、より物質的・身体的なものから、より精神的なものまで、幅広い。
心臓の、物質的・身体的器官としての側面がより強く見られる場合(本論第 7–9 章)をも軽視し得ないものの、全体として見ると寧ろ、精神活動を担う器官・場としての心臓(本論 1–6 章)のほうにより重点が置かれているといえる。そのような精神活動のなかには、感情のような文化普遍的と思われるものもある。一方で、R̥V の文化に特徴的であり、特に重要と思われる例として、心臓が言葉(讃歌)の発出に関わる、心臓が諸々の精神機能を担う、心臓において通常の感覚では知覚できないと思われる宇宙創造の有様を知覚する、といった例がとりわけ注目される。
要するに、R̥V において心臓は、物質性を完全に離れるわけではないものの、主として精神的な活動が行われる場としての側面を色濃く有している身体器官であるといえる。
III. 資料篇 として、R̥V における心臓の語を含む詩節の全用例の原文と、それに詳細な訳注を付したものを掲載し、さらに本論中において論じた箇所への参照指示を付した。
IV. 付録 として、以下を収録した:
1. hā́rd- / hr̥d-, hŕ̥daya- およびその派生語の R̥V での全出現箇所の表。
2. 心臓の語の数についてのまとめ。
3. 心臓の語を用いた特徴的コロケーションのまとめ。
4.「心臓」を含む全ての R̥V 詩節の、詩人・神格・韻律表。