本論文は、第一次世界大戦が終結した大正8(1919)年から、昭和15(1940)年に大政翼賛会・日独伊三国同盟が成立するまでの約20年間における政治外交の変容を、大戦後のヨーロッパに誕生した国際秩序であるヴェルサイユ体制への日本陸軍の対応過程という視角から分析したものである。
まず、序章「ヴェルサイユ体制の成立と政軍関係の変容」では本論文の分析視角を提示した。第一次世界大戦後のヨーロッパでヴェルサイユ体制が誕生し、国際軍縮の思潮が高揚したことは、大戦による総力戦の登場・軍事技術の革新という戦争形態の変化と重なることで次の三つの新しい状況を生んだ。その三つの新状況とは、国際連盟での軍縮会議を通じ日本陸軍がヨーロッパで外交を経験するというスケールの広域化、「国防」概念におけるコンセプトの肥大化、国防政策へ参入するアクターの多様化である。この三つの契機、つまり伝統的な大陸要因の分析ではなくヨーロッパ要因に由来する新領域への日本陸軍のアプローチから、軍部の台頭過程を再構成することが本論文の眼目である。
その具体的な分析課題としては、国際軍縮政策・航空政策に象徴される新しい安全保障問題と、国内における陸軍部外の在野諸集団の編成をめぐる陸軍派閥対立という、当該期の国防政策の領域における三つの層(専門領域・中間領域・国政領域)をカバーする二つの問題系を選択している。この視角に基づき、日本陸軍をめぐるヴェルサイユ体制の展開・危機・崩壊という三つの局面を設定し、各章を時系列順に整理した。その概要は次の通りである。
第一章「ヴェルサイユ体制の展開と自己改革の模索 1919-1930年」では大戦後の軍備観の諸類型に応じた政治的な合従連衡の力学について、第一節では民間航空を題材に国際協調下の軍備近代化・総動員政策の形成から、第二節では新たに登場した軍事評論家・在郷軍人系政治団体と陸軍部内の関係性の構築から、それぞれ分析している。
日露戦後、陸軍において対外専門家集団として非主流派ながら一定の影響力を誇示してきた上原派には、中国通だけでなく田中国重など欧米通も内包されており、彼らがヴェルサイユ体制への初動対応を国際舞台で担任した。田中らは大戦前に学習した守旧的軍備観を上書きすることはなかったが、その国際軍縮会議における民間航空制限賛成という立場は、相手国の削減という方法での積極的軍縮論を提示したものとして陸軍主流派たる田中・宇垣派にも受容されていく。一方で、その陸軍主流派も民間航空行政機構の形成過程で主導権の掌握には至らなかった。実際、当初陸軍大臣下に置かれた航空局だが、その拡充過程で陸軍主導に反抗する海軍が非軍事化を唱え、また軍縮のための陸軍部内で予算削減も迫られるなか、存在感を増した逓信省への移管という非軍事化を許したのである。むしろ陸軍の再浮上を用意したのは政党政治への不満感により逓信官僚は予算獲得論理のために親軍性を打ち出したことにあり、それは第三章で検討する再軍事化過程に影を落とすことになる。
また、非主流派としての上原派は保守的な軍備論者から小林順一郎など急進的な軍備近代化論者までウイングを広く反主流派の軍人を傘下に集結・包摂した点に特質を有し、国防会議論など総力戦に適合した議論を持ち掛けるなど政策方針を振動させながら主流派に対抗した。制度外のアクターを吸収するこの方式は、政党内閣と結合した田中義一が在郷軍人会本部への代議制の論理の導入を志向したこととコントラストをなしており、実際に田中肝煎りの本部改革問題で両者は激突することになる。その対立は宇垣一成がその指導のもと一旦中断させるが、政治的に活性化した在郷軍人が陸軍内部の主流派ではなく、非主流派の政治的サポーターとして活動するという構図は温存され、ここに定着した。
第二章「ヴェルサイユ体制の危機と自己抑制の融解 1930-1933年」では、陸軍の権力状況における転換期を、国際軍縮という規範からのフリーハンドの獲得、換言すれば専門領域に対する政治的脅威の除去過程という視角から捉え直すものである。第一節では満州事変期におけるヴェルサイユ体制の枠組からの離脱を、第二節ではロンドン海軍軍縮会議を契機とした非主流派たる皇道派の浮上を準備するような政治的言説の変容を、それぞれ検討している。
第一章でみた航空軍縮論に象徴されるように、日本陸軍は国際軍縮会議への適応可能性を探りつつ、他国との提携についてはヨーロッパ国際政治への関与を招来するとして限定的姿勢を採っていた。陸軍主流派の欧米通たる建川美次を中心に策定されたこの国際連盟の枠組への順応方針は、満州事変初期においても維持されていた。しかし、一九三二年に開会したジュネーブ一般軍縮会議の難航は陸軍をして軍縮の精神の退潮を見定めさせ、同時に並行した日本・満州におけるリットン調査団への対応にも失敗した。ここにおいて陸軍は既存の方針を転換し、満州事変の収拾と国際連盟の脱退回避を目的とする、東アジアとヨーロッパを連結させた世界政策としての対仏提携論を展開していく。これは挫折し最終的に国際連盟脱退へと進むことになり、同時に日本陸軍の対外政策は多国間協調から二国間提携路線へと切り替わることになる。
もう一つの変化が、ロンドン海軍軍縮会議に端を発する言論環境の変容であった。同会議を通じた誕生した海軍艦隊派を擁護する新しい軍事評論家は、政策的観点から軍縮論を唱える既存の軍事評論家に対して、武人型軍人の指揮能力を称揚する純軍事的な人物評論を展開する点に特徴があり、陸軍における皇道派の支持調達の一翼を担うことになる。こうした構造的変容と、宇垣派の三月事件といった一連の不祥事による失点という好機に乗じて、清廉なカリスマのイメージを打ち出して登場した点に荒木貞夫の軍政の特質があった。しかし、荒木の個人的資質に多くを依存する手法はその賞味期限が短く、陸軍派閥対立は激化することになる。
第三章「ヴェルサイユ体制の崩壊と自己膨張の限界 1933-1940年」では、こうして政治構造の中心へと躍り出た陸軍における体制の統合体として内在的限界を、第一節で陸軍中堅層における航空戦略とこれをめぐる省間競合から、第二節において皇道派がその復権可能性を賭した在郷軍人編成から、それぞれ検討した。
満州事変後の二国間外交の束としての航空戦略の展開は複雑な軌跡を描いた。当初、陸軍が華北での排他的航空秩序の建設に邁進するなか、逓信省は欧米諸国との太平洋での航空連絡に目を向けていた。二・二六事件後、陸軍中堅層により本格的に体制の軍事化が志向され航空省構想が一つの目玉になり、同時に各国との航空路線の成立が本格的に模索されるが、一方では海軍・逓信省との調整で消耗し、他方では華北自由飛行や他国機の内地乗り入れ不承認という軍事的価値が優先され、暗礁に乗り上げることになる。この膠着状態において逓信省が民間航空の経済的価値を積極的に打ち出し、航空省構想は挫折し外局昇格で決着した。日中戦争期に入ると、太平洋への航空連絡が日独提携とも合わさって目指され、その実現のために仏国機の内地乗り入れ承認が準備されるが、未発に終わっている。全体として見たとき、同問題で調整者たり得たのは陸軍ではなく逓信省であり、陸軍による軍事的価値の追求は航空秩序の形成を蹉跌させたと言える。
他方で、軍備近代化の優先度を低く設定して陸軍の中枢から転落した皇道派は、新たに誕生した在郷軍人系政治団体(明倫会・三六倶楽部)と連合して巻き返しを模索する。これらの団体は田中国重・小林順一郎など、その豊富な欧米体験をリーダーシップの源泉とする「国家主義的欧米通」による運動指導のもと、天皇機関説事件と建川美次との提携による内閣の攻撃を画策する。しかし、皇道派は在郷軍人会本部を動揺させることには成功したものの、統制派による再引き締め策のなか、指導者間の戦争観に由来する政治観・政策面で不一致が生じた。そして、自派を正当化する論理として持ち出した、陸軍部内の混乱の起源を三月事件に求める言説(=三月事件起源説)は、その首謀者の一人と目された建川との提携構想と矛盾するものであって、その矛盾の解消を模索する最中に二・二六事件が発生し、これらの策は不発に終わった。事件後、それまでの在郷軍人系政治団体(三六倶楽部・大日本青年党)は転向左翼を吸収してその組織構造を変質させ、親軍党への昇華を目指す右翼統一戦線として時局協議会を結成する。これは陸軍中堅層も期待感を寄せていたが、政策面では合意しつつも組織形成の方法論での懸隔が大きく、橋本欣五郎とともに大日本青年党を率いる建川美次をハブとした結集が目指されるも、日中戦争期に至っても統合体が誕生することはなかった。この団体間の一致と不一致が、革新右翼/観念右翼との分裂を抱えながら両者が大政翼賛会へ合流する帰結をもたらすことになる。
終章「第二次世界大戦への帰着と戦後への再起動」では、本論文の内容を要約しつつその意義を総括した。ヴェルサイユ体制への対応過程として軍部の台頭過程を再照射すれば、陸軍主流派/非主流派はともに他の新たなアクターを巻き込み、専門領域・中間領域を固めることで政治的台頭を可能にしたものの、その体制の統合体としての内在的限界から中間領域・国政領域への進出局面において多様化するアクターの動向を収拾できなかった。以上みた第一次世界大戦に由来する諸状況への対応過程に、戦間期の軍部が強大だが絶対ではない一勢力へと終着した要因を見出せよう。
まず、序章「ヴェルサイユ体制の成立と政軍関係の変容」では本論文の分析視角を提示した。第一次世界大戦後のヨーロッパでヴェルサイユ体制が誕生し、国際軍縮の思潮が高揚したことは、大戦による総力戦の登場・軍事技術の革新という戦争形態の変化と重なることで次の三つの新しい状況を生んだ。その三つの新状況とは、国際連盟での軍縮会議を通じ日本陸軍がヨーロッパで外交を経験するというスケールの広域化、「国防」概念におけるコンセプトの肥大化、国防政策へ参入するアクターの多様化である。この三つの契機、つまり伝統的な大陸要因の分析ではなくヨーロッパ要因に由来する新領域への日本陸軍のアプローチから、軍部の台頭過程を再構成することが本論文の眼目である。
その具体的な分析課題としては、国際軍縮政策・航空政策に象徴される新しい安全保障問題と、国内における陸軍部外の在野諸集団の編成をめぐる陸軍派閥対立という、当該期の国防政策の領域における三つの層(専門領域・中間領域・国政領域)をカバーする二つの問題系を選択している。この視角に基づき、日本陸軍をめぐるヴェルサイユ体制の展開・危機・崩壊という三つの局面を設定し、各章を時系列順に整理した。その概要は次の通りである。
第一章「ヴェルサイユ体制の展開と自己改革の模索 1919-1930年」では大戦後の軍備観の諸類型に応じた政治的な合従連衡の力学について、第一節では民間航空を題材に国際協調下の軍備近代化・総動員政策の形成から、第二節では新たに登場した軍事評論家・在郷軍人系政治団体と陸軍部内の関係性の構築から、それぞれ分析している。
日露戦後、陸軍において対外専門家集団として非主流派ながら一定の影響力を誇示してきた上原派には、中国通だけでなく田中国重など欧米通も内包されており、彼らがヴェルサイユ体制への初動対応を国際舞台で担任した。田中らは大戦前に学習した守旧的軍備観を上書きすることはなかったが、その国際軍縮会議における民間航空制限賛成という立場は、相手国の削減という方法での積極的軍縮論を提示したものとして陸軍主流派たる田中・宇垣派にも受容されていく。一方で、その陸軍主流派も民間航空行政機構の形成過程で主導権の掌握には至らなかった。実際、当初陸軍大臣下に置かれた航空局だが、その拡充過程で陸軍主導に反抗する海軍が非軍事化を唱え、また軍縮のための陸軍部内で予算削減も迫られるなか、存在感を増した逓信省への移管という非軍事化を許したのである。むしろ陸軍の再浮上を用意したのは政党政治への不満感により逓信官僚は予算獲得論理のために親軍性を打ち出したことにあり、それは第三章で検討する再軍事化過程に影を落とすことになる。
また、非主流派としての上原派は保守的な軍備論者から小林順一郎など急進的な軍備近代化論者までウイングを広く反主流派の軍人を傘下に集結・包摂した点に特質を有し、国防会議論など総力戦に適合した議論を持ち掛けるなど政策方針を振動させながら主流派に対抗した。制度外のアクターを吸収するこの方式は、政党内閣と結合した田中義一が在郷軍人会本部への代議制の論理の導入を志向したこととコントラストをなしており、実際に田中肝煎りの本部改革問題で両者は激突することになる。その対立は宇垣一成がその指導のもと一旦中断させるが、政治的に活性化した在郷軍人が陸軍内部の主流派ではなく、非主流派の政治的サポーターとして活動するという構図は温存され、ここに定着した。
第二章「ヴェルサイユ体制の危機と自己抑制の融解 1930-1933年」では、陸軍の権力状況における転換期を、国際軍縮という規範からのフリーハンドの獲得、換言すれば専門領域に対する政治的脅威の除去過程という視角から捉え直すものである。第一節では満州事変期におけるヴェルサイユ体制の枠組からの離脱を、第二節ではロンドン海軍軍縮会議を契機とした非主流派たる皇道派の浮上を準備するような政治的言説の変容を、それぞれ検討している。
第一章でみた航空軍縮論に象徴されるように、日本陸軍は国際軍縮会議への適応可能性を探りつつ、他国との提携についてはヨーロッパ国際政治への関与を招来するとして限定的姿勢を採っていた。陸軍主流派の欧米通たる建川美次を中心に策定されたこの国際連盟の枠組への順応方針は、満州事変初期においても維持されていた。しかし、一九三二年に開会したジュネーブ一般軍縮会議の難航は陸軍をして軍縮の精神の退潮を見定めさせ、同時に並行した日本・満州におけるリットン調査団への対応にも失敗した。ここにおいて陸軍は既存の方針を転換し、満州事変の収拾と国際連盟の脱退回避を目的とする、東アジアとヨーロッパを連結させた世界政策としての対仏提携論を展開していく。これは挫折し最終的に国際連盟脱退へと進むことになり、同時に日本陸軍の対外政策は多国間協調から二国間提携路線へと切り替わることになる。
もう一つの変化が、ロンドン海軍軍縮会議に端を発する言論環境の変容であった。同会議を通じた誕生した海軍艦隊派を擁護する新しい軍事評論家は、政策的観点から軍縮論を唱える既存の軍事評論家に対して、武人型軍人の指揮能力を称揚する純軍事的な人物評論を展開する点に特徴があり、陸軍における皇道派の支持調達の一翼を担うことになる。こうした構造的変容と、宇垣派の三月事件といった一連の不祥事による失点という好機に乗じて、清廉なカリスマのイメージを打ち出して登場した点に荒木貞夫の軍政の特質があった。しかし、荒木の個人的資質に多くを依存する手法はその賞味期限が短く、陸軍派閥対立は激化することになる。
第三章「ヴェルサイユ体制の崩壊と自己膨張の限界 1933-1940年」では、こうして政治構造の中心へと躍り出た陸軍における体制の統合体として内在的限界を、第一節で陸軍中堅層における航空戦略とこれをめぐる省間競合から、第二節において皇道派がその復権可能性を賭した在郷軍人編成から、それぞれ検討した。
満州事変後の二国間外交の束としての航空戦略の展開は複雑な軌跡を描いた。当初、陸軍が華北での排他的航空秩序の建設に邁進するなか、逓信省は欧米諸国との太平洋での航空連絡に目を向けていた。二・二六事件後、陸軍中堅層により本格的に体制の軍事化が志向され航空省構想が一つの目玉になり、同時に各国との航空路線の成立が本格的に模索されるが、一方では海軍・逓信省との調整で消耗し、他方では華北自由飛行や他国機の内地乗り入れ不承認という軍事的価値が優先され、暗礁に乗り上げることになる。この膠着状態において逓信省が民間航空の経済的価値を積極的に打ち出し、航空省構想は挫折し外局昇格で決着した。日中戦争期に入ると、太平洋への航空連絡が日独提携とも合わさって目指され、その実現のために仏国機の内地乗り入れ承認が準備されるが、未発に終わっている。全体として見たとき、同問題で調整者たり得たのは陸軍ではなく逓信省であり、陸軍による軍事的価値の追求は航空秩序の形成を蹉跌させたと言える。
他方で、軍備近代化の優先度を低く設定して陸軍の中枢から転落した皇道派は、新たに誕生した在郷軍人系政治団体(明倫会・三六倶楽部)と連合して巻き返しを模索する。これらの団体は田中国重・小林順一郎など、その豊富な欧米体験をリーダーシップの源泉とする「国家主義的欧米通」による運動指導のもと、天皇機関説事件と建川美次との提携による内閣の攻撃を画策する。しかし、皇道派は在郷軍人会本部を動揺させることには成功したものの、統制派による再引き締め策のなか、指導者間の戦争観に由来する政治観・政策面で不一致が生じた。そして、自派を正当化する論理として持ち出した、陸軍部内の混乱の起源を三月事件に求める言説(=三月事件起源説)は、その首謀者の一人と目された建川との提携構想と矛盾するものであって、その矛盾の解消を模索する最中に二・二六事件が発生し、これらの策は不発に終わった。事件後、それまでの在郷軍人系政治団体(三六倶楽部・大日本青年党)は転向左翼を吸収してその組織構造を変質させ、親軍党への昇華を目指す右翼統一戦線として時局協議会を結成する。これは陸軍中堅層も期待感を寄せていたが、政策面では合意しつつも組織形成の方法論での懸隔が大きく、橋本欣五郎とともに大日本青年党を率いる建川美次をハブとした結集が目指されるも、日中戦争期に至っても統合体が誕生することはなかった。この団体間の一致と不一致が、革新右翼/観念右翼との分裂を抱えながら両者が大政翼賛会へ合流する帰結をもたらすことになる。
終章「第二次世界大戦への帰着と戦後への再起動」では、本論文の内容を要約しつつその意義を総括した。ヴェルサイユ体制への対応過程として軍部の台頭過程を再照射すれば、陸軍主流派/非主流派はともに他の新たなアクターを巻き込み、専門領域・中間領域を固めることで政治的台頭を可能にしたものの、その体制の統合体としての内在的限界から中間領域・国政領域への進出局面において多様化するアクターの動向を収拾できなかった。以上みた第一次世界大戦に由来する諸状況への対応過程に、戦間期の軍部が強大だが絶対ではない一勢力へと終着した要因を見出せよう。