この論文は、第一に、広く「コミュニケーション」と呼ばれているものを適切に捉えるための理論を提示し、第二に、いわゆる「言語」とはその意味でのコミュニケーションを実行するための道具に他ならないという素朴な見方の正当性を主張するものである。
 第一の要素であるコミュニケーション理論は、私たちが「コミュニケーション」と呼びたくなるもの、および「コミュニケーション」とは呼びたくないと思うものが、それぞれいかなる特徴を備えているのかを観察することを通して構築される。1節においては、コミュニケーションというものが「アリスが歩く」「アリスとビルが一緒に机を運ぶ」といったような「やろうと思えばやれるし、やらずにいようと思えばやらずにいることもできるようなもの」、すなわち「行為」の特殊例であるということが確認される。続く2節では、会話の途中で急にどこかへ行ってしまうことが咎められるべきことであるという一般的な事実に基づき、コミュニケーション一般が「それを個人の一存で中断することが社会的に許されない」という特徴を持つ行為、すなわち「共同的行為」に分類されるということが主張される。3節ではこれと並行して、私たちが日常的に「然々の行為が行われた」ということを認定する際に依拠している2つの原理が見出される。例えばアリスによる殺人行為は、被害者が命を落としていない場合には認定されないし、アリスが被害者を殺すつもりが全くなかった場合にも認定されない。このことから、私たちが行為を認定する際に依拠している次の2つの原理に輪郭が与えられる:何らかの行為と目されるところの振る舞いが行われた結果として何が起こっているかに着目せよ=結果依存原理;何らかの行為と目されるところの振る舞いを呈する主体はどういうつもりでその振る舞いを呈していたのかに着目せよ=意図依存原理。コミュニケーションもまた行為であるからには、「主体Sが振る舞いxを提示し主体Hがそれを最後まで受け取ることによって内容pに関するコミュニケーションが成立する」という共同的行為の認定条件は、上の二つの原理に則して与えられなければならない。この見込みのもと、4節から12節にかけての議論では、結果依存原理の側からは「Sがpと思っているということに関する共同的コミットメントがS-H間に生ずること」、意図依存原理の側からは「「まさにこの意図がSに帰属させられることがHにとっての理由の一部となってHがSがpと思っていると思うよう意図する」という自己言及的な意図がSに帰属させられること」が、それぞれ「外的要件」「内的要件」の名の下にコミュニケーション行為の認定条件として与えられる。12節までの議論とは対照的に、13節から23節にかけては、一見コミュニケーションであるかに思われる振る舞いがコミュニケーションではないものとみなされるための条件が検討される。そこでは、「嘘をつく」という行為に代表されるようないわば「悪きコミュニケーション」に関して次の2点が指摘される:悪きコミュニケーションは通常のコミュニケーション行為と同じようには慣習化され得ない(=本稿が再演・定着可能性条件と呼ぶ条件を満たしていない);悪きコミュニケーションの成立においては、HによってSに帰属させられてしまった場合にそれを伴う行為が失敗することになるであろうところの意図がH以外の主体によってSに帰属させられうる(=本稿が贋作性条件と呼ぶ条件を満たしている)。この2点において嘘は通常のコミュニケーションと一線を画されるべき行為であるということが主張される。この見方は嘘専用形式のようなものが私たちの共同体の中にまったく定着していないという事実を能く捉えるが、それと同時に、嘘の差別化においては贋作性条件だけで十分であり、再演・定着可能性条件が(非)コミュニケーション行為の認定において機能していないのではないかという疑いを生じさせた。これを承け、24節から32節にかけては、再演・定着可能性条件がコミュニケーション行為の共同性を保証するために必要な条件であるということを論証することが試みられる。そこにおいては、再演可能であるというのはコミュニケーションのみならず行為一般について言えることであるということが指摘されたのち、行為が共同的なものであるためには当のその行為の遂行に先立って、それに従事する複数の主体があたかも単一の主体であるかのように意図を共有しうる状態=「複体」が成立していなければならないということが主張される。複体は、本稿が「弱いコミュニケーション」と呼ぶところの対人的な振る舞いによって、かつそれのみによって、自動的に主体間に形成される。コミュニケーションが共同的行為である以上は、コミュニケーション一般は弱いコミュニケーションによる複体の形成を以て初めて開始し、その後Sが提示したxをHが最後まで受け取ることで終わりを迎えるのでなければならない。この結論は27節において、共同的行為の二段階仮説として提示される。ただし複体の形成において、どのような振る舞いが弱いコミュニケーションでありどのような振る舞いがそうでないのかを決定するのは、その振る舞いを提示する主体が属する共同体の慣習(=その振る舞いを提示する主体が事前に従事してしまっている共同的行為を基底する共同的コミットメント)を措いて他にない。この点を以て、29節から31節にかけて次の立場が表明される:私たちは見知らぬ他者との間にデフォルトで「共に生きる」という抽象的な共同的行為に常に既に従事してしまっていると考える他ない(=超越論的共同体仮説)。それに続く32節では、そこまでの議論において修正を受けた条件としての修正版再演・定着可能性条件が、人間とロボットとの間のコミュニケーションと人間同士のコミュニケーションの間の差異を能く捉えるということを示すことを以てこれが擁護され、33節でこの新たに整備された条件を書き加えた形でコミュニケーションの定義が与えられる。
 第二の要素である言語の道具性は、33節までの議論で定義づけられるコミュニケーションを実行するための振る舞いの諸形式が共同体の中に定着する過程=言語成立シナリオを提示すること、および、そのシナリオを受け入れることによる利点を示すことを通じて、間接的に支持される。まず34節では、共同体における振る舞いタイプの定着は、当の共同体に属する少なくない数のメンバーがその振る舞いを習得しており、かつその振る舞いトークンの「正誤」を評価しうる状態になっていることを意味するということが指摘される。ここにおける習得とは、人々がその振る舞いの理想形を行為タイプとして共有し、その習得に向けた「訓練」を行うことによって実現するものであるが、そもそも訓練が可能であるためには、「あれとこれとが似ている/同じタイプに属する」という判断=類似性判断のあり方が共同体のメンバー間で十分に共通していなければならない。35節においては、この共通性を確保するのが、共同体における権力勾配に基づいて新生児が蒙る根源的な暴力であるということが論じられる。新生児は、彼/彼女の生まれ落ちた共同体のメンバーが世界を見ている通りに世界を見ていると判断されればその共同体の大人たちから受け入れられ、そうでなければ制裁を受ける。そのような環境に彼/彼女が置かれることによって、新生児はやがて、何と何が似ていて何と何が似ていないのかを周りの大人たちと同じように判断するようになり、そこにおいて判断される(非)類似性は、新生児自身にとってはあたかも世界が初めからそのように与えられているかのような「客観性」を持って立ち現れる。かくして訓練が可能になった新生児は、彼/彼女の生まれ落ちた共同体におけるコミュニケーション/弱いコミュニケーションの様式を習得するための土台を得る。これを踏まえ、36節では、コミュニケーションを成立させるための振る舞いの訓練・定着は、その背後に必ず根源的暴力を息づかせているのでなければならないということが主張され、言語成立シナリオが完成する。37節から最終節にかけては、この意味での言語成立シナリオを受け入れることは、言語というものをコミュニケーションを成立させるために作られた道具として理解することに他ならないということが主張される。道具とは、ある目的のために取られる手段としての行為を遂行する際に用いられるものとして作られた存在者であり、かつ、手段としての行為は必ずその行為者がいるのでなければ成り立たない。38節においては、この動かし難い構造が言語にも見られるということを受け入れることによって、言語が示すポリフォニー性が容易に説明されるということが主張される:ポリフォニー性は、道具としての言語に張り付いた過去の使用者たちの人格が、コミュニケーションの現場でパロールを産出する話し手とは別に想起されることによって実現する。これに続く39節・40節では、38節までに示された立場が、いわゆる「文体」というものの存在を自明のものとするとともに、私たちが話し手のいないところに話し手を幻視してしまうという一般的な現象に対する見通しの良い説明をも与えるという点で擁護されうるものであるということが主張される。
 以上の行論を経て本稿は、言語はコミュニケーションの道具であるという素朴な見方が、かえって私たちに見通しの良い説明を与えることになるという立場を提示した。