本論文は、エジプトのムハンマド・アリー政権が歴史的シリア地域(以下、シリア)を支配した 1832 年から 1840 年を対象とし、政権のシリア支配のあり方を広く検討するものである。政権の支配のあり方に迫るために、政権がシリアにおいて構築した支配機構、すなわち配下の官吏・機関から構成される支配体制、およびその下でシリア各地に展開された行政の機序に注目し、その構造の詳細な分析を進めた。この作業を通じて、本論文は19 世紀前半の中東地域に波及しつつあった新しい支配のあり方を検討し、シリアにおけるその展開を詳らかにすることを試みた。
 先行研究においては、政権がどのような支配のあり方を志向し、諸種の施策を実行するための装置としていかなる支配機構を構築したかという、支配の「結果」に先立つ前提の議論が大きく不足していた。この課題を踏まえ、本論文では第一に支配の設計、すなわち政権が構想した支配機構の構造を詳細に分析し、シリアにおいて政権が志向した新しい支配のあり方の特徴を詳らかにした。そしてその知見を踏まえた上で、第二に支配の実践、すなわち徴用や徴税などシリア社会を対象とした施策の展開と、その中での支配機構の運用を分析することで、新しい支配のあり方を社会に広く深く作用させていく政権の試みを明らかにした。
 政権のシリア支配を検討する上では、これまで十分に利用されてこなかったエジプト国立公文書館所蔵の膨大な文書群を活用し、政権の支配を実証的に分析した。その際、10 年弱の支配期間にあっても時系列に目を配り、先行研究が見落としてきた支配の変遷を丹念に追うと共に、特定の地域や都市に集中していた先行研究から視野を広げて、シリア全域に及ぶ支配の構造を俯瞰的に分析した。そして、政権の支配の手法の中に見られる、オスマン朝のみならず西洋諸国にまで及ぶ同時代性に注目し、政権のシリア支配の「近代的性格」を考察した。
 
 第1章では、シリア各地で行政を監督・差配した諸種の行政官を取り上げ、彼ら行政官の配置、人事、職務、そしてその変遷を詳らかにすることで、政権がどのような支配体制を設計したのかを考察した。まず、エジプト支配最初期におけるシリア各地の行政官の配置を詳細に分析し、政権がシリアに既存の行政枠組みを踏襲して支配体制を立ち上げたことを明らかにした。続いてシリア中枢に目を移し、高官たちに与えられたシリア全域の行政の監督・統括の役割を明らかにし、政権がシリア行政の一元的な監督を志向していたことを論じた。最後に再びシリア各地に視点を移し、支配中期にかけて増設・新設された行政官職の人事と職務を検討することで、政権が支配体制の改編を通じて、支配機構の拡大とその監督体制の強化を継続していたことを明らかにした。
 第2章では、シリア各地に新設された在地有力者の合議機関である地方協議会に焦点を当て、その人事と役割、権限の詳細な分析を通じて、政権がこの機関を設立した狙いを論じた。まず支配開始直後に創設されたダマスカス協議会に注目し、創設の経緯や議員の構成、当初の役割や権限を分析した上で、その後各地に同様の協議会が設立されていく展開を分析した。続いて、1838年のアレッポ高等協議会を具体例として、その役割や権限を詳らかにし、また初期の地方協議会からの変化を検討した。最後に、地方協議会の全体像を整理した上で、政権が地方協議会を代官と並ぶ地方支配の要としてシリアの主要都市に設立していくことで、支配機構の拡充を図ると共に、その活動をシリア中枢の一元的な点検の下に置いたことを示した。
 第3章では、政権が整備したシリア財務行政の全体構造を詳らかにし、またその新規性を検討することで、新しい財務行政を通じた政権の目論見を検討した。まず財務に関与していた官吏や機関を一つずつ取り上げ、財務行政におけるそれぞれの役割を具体的に分析することで、政権が立ち上げたシリア財務行政の全体構造とその変遷を詳らかにした。その上で、エジプト支配期の財務行政とそれに先立つ財務行政の構造を比較することで、政権が従来の財務行政の枠組みを援用しつつ、支配機構の外に位置した勢力による財務への関与を減じて、シリア各地で政権の官吏・機関が協働して財務を主導する構造を作り出したこと、また各地の財務をシリア中枢から一元的に点検・監督する体制を作り上げていたことを明らかにした。
 第4章では、情報の収集と伝達の手法を詳細に分析することで、政権による情報の吸い上げの体系を詳らかにした。まずは情報の収集について、各地でそれを実行した主体と、収集・記録される情報の射程を具体的に検討し、情報の収集・記録が官吏や農民一人ひとりの業務や生産にまで及ぶ詳細なものであったことを指摘した。次に情報の伝達に目を移し、シリア域内およびシリア=エジプト間の情報伝達の仕組みの検討から、政権が頻繁かつ迅速な情報伝達を希求していたことを明らかにした。そして、このような情報の吸い上げの試みが、各地の官吏や農民一人ひとりの動向までをも監視下に置こうとする政権の狙いを反映したものであることを論じると共に、そこで用いられた分単位の記録や日報といった新しい手法が、同時代の西洋諸国やオスマン朝中枢の取り組みを参照したものであった可能性を示した。
 第5章では、政権のシリアにおける施策の代表例として、住民の徴用を取り上げた。はじめに、シリアで政権が推し進めた建設や伐採、採掘の事業を具体的に分析し、それらの事業のために政権がシリア住民のみならず、エジプト軍の兵士をも動員し、大規模な徴用を展開していたことを明らかにした。続いて、通行証の導入と農民の移動の制限という2つの取り組みを分析することで、政権がシリアの人々の移動を広く管理しようとしていたことを指摘した。そして、こうした住民の徴用や移動の管理といった施策が、住民を政権の意のままに配置し、指定の作業に従事させるという大きな試みの一環として理解できることを論じた。その上で、周辺地域との比較から、シリアにおける徴用の方式の新規性や同時代性を検討し、また徴用の成果と課題、そして徴用に対するシリア社会の抵抗を分析した。
 第6章では、政権による施策のもう一つの代表例として、徴税を取り上げた。はじめに、徴税開始の経緯と雑税の一律廃止の命令を検討した上で、政権による徴税権の獲得の取り組みを分析し、これらを通じて政権がシリアの税源とその徴税権の掌握を進めていたことを明らかにした。続いて、政権が新たに導入したイアーナ税に焦点を当て、その具体的な徴収手順の分析から、住民一人ひとりの負担能力を把握し、新たな税源として設定する政権の試みを詳らかにした。そして、政権がこれらの施策を通じてシリアからの税収の最大化を目指していたことを指摘し、その試みの新規性を検討した。その上で、徴税を実施する上で政権が支配機構の内外に課題を抱えていたことを明らかにすると共に、政権の徴税がシリア社会に与えた負担と、住民による徴税の回避や抵抗の様子を描き出した。
 第7章では、1839年以降に進められた支配機構の再編の動きを検討した。最初に、シリア中枢の高官から提起されたシリア各州の査察計画および会計業務の改善計画の2つの事例を取り上げ、それぞれの計画の内容を詳細に分析し、州単位での財務の監督・点検の仕組みと、そのためのエジプトからの官吏の派遣という、政権の2つの新しい試みを指摘した。続いて、エジプト軍中将による巡検の計画を検討することに加え、地方都市ラムラを事例に当地の官吏と軍将校との書簡の往復を分析し、エジプト軍の将校がシリアの財務を主導するという、それまでにない展開を明らかにした。そして、支配末期における以上の展開の時代背景を整理すると共に、その中で政権が対処を求められたシリア支配の課題を分析し、以上の支配末期の展開が、新しい支配機構のあり方を模索する動きであったことを指摘した。
 
 本研究から、政権の支配の2つの指針、すなわち地方支配体制の拡充と一元的な監督・点検制度の整備が明らかになった。政権はこれらの指針に基づき、中央集権化されたシリア支配機構を設計し、これまでに政治権力の手が及んだことのない地理空間や社会領域にまで踏み込む強力な統制を敷くという、新しい支配のあり方をシリアに導入したのである。そして、政権が実施した徴用および徴税は、このような新しい支配のあり方をシリア社会にまで及ぼし、それを通じてシリアのヒト・モノ・カネを最大限に収奪していく実践の過程であった。政権は住民一人ひとりの動向を広く掌握することで、各人を意のままに配置し、担うべき負担を割り当てていくことを試みていた。こうした収奪の取り組みは、まさに「支配の深化」と呼ぶべき試みであった。
 一方で、この新しい試みはシリアに既存の行政枠組みを基礎として進められたものであり、地域の権力構造に大きく依拠したものであったことも明らかになった。また、「支配の深化」は段階的な試行錯誤のプロセスであり、地域ごとの状況に即して少なからず異なる展開を見せていた。そして、「支配の深化」の達成のために導入された数々の新しい手法は、西洋諸国において18世紀末から先行して実践された制度や施策を参照したものであったと考えられ、また同時期にオスマン朝中枢もそれらの手法を導入し始めていた。従って、政権のシリアにおける「支配の深化」の試みは、西洋諸国を一つの起点として、中東地域において19世紀以降に実践されつつあった支配の一形態と位置づけられる。ここに、「支配の深化」の動きがシリアの地域社会にまで波及し、さらにシリア支配の終焉後も中東各地の地域社会へと拡大していく流れを見て取ることが出来る。