本論文が対象とするのは、1960年代以降のフランス文学とベルギー・フランス語圏文学に見られるカフェの表象の比較である。従来の文化史・社会史研究の領域では、1960年頃を境にヨーロッパの多くの都市で文学者や芸術家が議論に花を咲かせる、いわゆる「カフェ文化」は終焉を迎えたと言われ、フランスとベルギー、とりわけパリとブリュッセルにもそのことは共通している。
しかしながら、本当にカフェと文学との緊密な関係は両国で途絶えてしまったのか。むしろ文学作品内の表象という観点では、カフェはその重要性を増しているのではないか。本論文は、こうした問題意識を出発点とし、1960年代以降の新しい時代における文学作品内のカフェ表象、「カフェ文学」に焦点を当て、その意義を再評価する試みである。その際、カフェが、現代において「オートフィクション」をはじめとした自伝的な作品の中で、作家たちが自身のアイデンティティを探究する際に不可欠な背景として機能していることに着目し、そうした「自己探究の物語」に見られるカフェの役割を分析していく。
フランス文学とベルギー・フランス語圏文学、特にパリとブリュッセルという二つの首都に注目するのは、両都市でフランス語という同一言語が用いられているにもかかわらず、フランス語圏文学、ひいては世界文学において「中心」と「周縁」という対照的な役割を演じてきたからであり、そうした差異が作中に描かれるカフェの表象からも浮き彫りになるからだ。中でも、ブリュッセルのカフェの表象は、ベルギー・フランス語圏文学のアイデンティティという問題とも結びつき、フランス語圏の内部にとどまらず、広く「周縁」の文学の特徴の一端を明らかにするのである。
そこで、本論文では、フランスの作家として、パトリック・モディアノ(1945-)、マルグリット・デュラス(1914-1996)、シャンタル・トマ(1945-)、ベルギーの作家としてピエール・メルテンス(1939-2025)、ジャクリーヌ・アルプマン(1929-2012)、アラン・ベレンボーム(1947-)の小説作品を取り上げ、各作家が描くカフェの表象に着目する。これらの小説家たちは、それぞれフランスとベルギー、中でもパリとブリュッセルを舞台とした自伝的な作品、「自己探究の物語」を複数描き、その中にカフェを頻繁に登場させているからである。
三部から成る本論文の具体的な構成は以下の通りである。
第一部では、1960年頃までのパリとブリュッセルのカフェ文化史をそれぞれの国の文学史とのかかわりにおいて論じたうえで、それ以降の時代における社会とカフェ文化の変質に言及する。
第一章では、パリのカフェ文化史を、フランス文学におけるカフェ表象の歴史に着目しながら概観する。パリでは18世紀から1960年頃まで、作家や芸術家、政治思想家など多様な人々が議論する場、そして執筆の場としてカフェが選ばれ、カフェ文化が栄えた。パリのカフェでの議論は「フランス文化」の様々な潮流を形成するのに大きく寄与することとなった。
第二章では、ブリュッセルのカフェ文化史を、ベルギー建国から現在に至るまでのベルギー・フランス語圏文学史との結節点に着目し、論じる。ブリュッセルでも、カフェは作家同士の友情を強固にする場となり、20世紀には多くの文芸雑誌の著者たちを統合する場として機能するようになったが、結果として「ベルギー文化」を形成するだけの強い求心力を持つことはなかった。ブリュッセルのカフェ文化は、自国とパリとの間で引き裂かれた「ベルギー人作家」のアイデンティティの脆弱さを暴露してきたと言える。
第二部では、現代フランス文学におけるカフェの表象を、特にオートフィクションという形式に着目しながら論じる。本論文では、オートフィクションを、ジャン=ジャック・ルソー以来の伝統的な自伝に見られる作者、主人公、語り手の同一性を曖昧化させたポスト・モダン時代における新しい自伝的ジャンルのことと捉え、伝統的なカフェ文化のイメージから解放された場所として、現代文学においてカフェがエクリチュールの内部に開かれるようになった様を描き出していく。
第一章では、パトリック・モディアノの、1960年代のパリを主たる舞台とする小説に見るカフェの表象を論じる。モディアノの作品は、しばしばその記憶の曖昧さやアンビヴァレンスによって特徴づけられるが、そのことは、作中で描かれるカフェにも共通している。カフェのこうした機能は、1960年代という、古い世界と新しい世界とが混ざり合い、カフェ文化が自明ではなくなった時代の性質を示しているだけでなく、オートフィクションという、自己のアイデンティティを曖昧化する手法と通じ合っている。
第二章では、マルグリット・デュラスの晩年の作品『エミリー・L』と『苦悩』に見られるカフェの表象を分析する。カフェは、両作品中で、統一的な自己について語ることが不可能になった現代における自己の問題が前景化される場となっており、絶えず重層化するアイデンティティを許容するオートフィクションの創造に不可欠な場所として機能している。
第三章では、シャンタル・トマの『記憶のカフェ』におけるカフェの表象を論じる。作家自身が青春時代に訪れたカフェでの出来事を描き出した本作品は、時系列が絶えずずらされ、主人公の人生が断片の連続によって構成されるオートフィクションだ。作中で自由と解放の場所として描写されるカフェは、自己に関する自由なエクリチュールの創造にふさわしい背景となるのである。
三人の作家の作品に共通するのは、カフェがオートフィクションという現代的エクリチュールの中で、作家自身のアイデンティティをめぐる問題を前景化する場所として機能していることだ。彼らは、記憶の物語を紡ぎ出す過程で、過去を完全な形で再現することの困難にぶつかり、伝統的な自伝とは異なる方法によって、再創造を試みた。作家たちの自己の所在が曖昧化し、「歴史」や「自伝」が疑問に付されるようになった現代、「フランス文化」への確信が失われた現代において、自己そのものが断片化し、重層化した存在として立ち現れるようになり、カフェはそうした自己の存在をつなぎとめ、「自己とは何か」という問いを提起する場所として意識されるようになったのである。
第三部では、現代ベルギー・フランス語圏文学に見られるカフェの表象を、オートフィクションをはじめとした「自己探究の物語」に着目し、論じる。ベルギーでは、オランダ語圏とフランス語圏の対立が激化し、国家が連邦化に向かう1960年代以降、ベルギー・アイデンティティとは何かという議論が白熱化するが、その中で個々の作家と国家のアイデンティティをめぐる問いが結びつく傾向が強まり、カフェも同様の問題を具現化する場として文学作品に登場しはじめる。
第一章では、ピエール・メルテンスの『亡命地』と『王の平和』を考察対象とする。両作品において、カフェは他者との出会いを通じ、ベルギー・アイデンティティとは何かという根源的な問題を導き出す場所として機能している。作家による自己探究はベルギーという集合的アイデンティティと結びつけられており、ブリュッセルのカフェが自己の所在について考える契機を与えるのは、そもそもこの都市のカフェ文化がベルギー・アイデンティティの不確実さを体現してきたからだと考えられる。
第二章では、ジャクリーヌ・アルプマンの『オルランダ』におけるカフェ表象を論じる。本作品の主人公からは、「大きな文学」に反発しつつも惹かれ、完全に影響下を脱することもできない状況が読み取れ、それは「周縁」の文学、とりわけベルギー・フランス語圏の作家に特有の葛藤と言える。カフェの描写もベルギー・フランス語圏のアイデンティティをめぐる問いと連動し、「幻想的オートフィクション」という特異な形式と共鳴しているのである。
第三章では、アラン・ベレンボームの『ミシェル・ヴァン・ロー探偵の捜査』シリーズにおけるカフェ表象を分析する。本作品では、ベルギーは外国性と不可分の国として描かれているが、カフェはその中でグーズというブリュッセルのローカルビールを介し、主人公に純粋なベルギー・アイデンティティを見出す幻想を抱かせる場になっている。凡庸な探偵に過ぎない主人公による自己探究は絶えず挫折するが、このアイロニカルな状況はベルギーのフランス語作家が置かれている状況を体現している。
三作家の作品において、カフェが自己を前景化する役割を担い、断片化・重層化した自己の所在の不確実さを露わにしている点は、フランス文学と共通している。しかし、作家の自己の問題が、ベルギーという集合的アイデンティティの問いと結合していることは重要だ。ベルギー・アイデンティティと自己に関する問いが結びつく背景には、前者が常に不確実で曖昧であるがゆえに、ベルギー人にとって自己について語ることがそもそも困難であり続けてきた事実がある。そして、ブリュッセルのカフェがこうした問いを具現化する場所になっていることは、この都市のカフェ文化が統一的な「ベルギー文化」を創造できず、「ベルギー人作家」の立ち位置が曖昧であり続けたことと無関係ではないだろう。
このように、現代のフランス文学とベルギー・フランス語圏文学において、カフェは作家の自己を主題化する過程でそれぞれ異なる役割を果たしている。だが、新たな自己に関する創造を導く場として描かれている点は共通している。自己の所在が曖昧化した現代において、作家たちが自身のアイデンティティについて考え、その存在をつなぎとめる可能性を秘めた場こそがカフェなのだ。したがって、「カフェ文化」が終焉してもなお「カフェ文学」は重要な意義を持ち続けていると言えよう。
しかしながら、本当にカフェと文学との緊密な関係は両国で途絶えてしまったのか。むしろ文学作品内の表象という観点では、カフェはその重要性を増しているのではないか。本論文は、こうした問題意識を出発点とし、1960年代以降の新しい時代における文学作品内のカフェ表象、「カフェ文学」に焦点を当て、その意義を再評価する試みである。その際、カフェが、現代において「オートフィクション」をはじめとした自伝的な作品の中で、作家たちが自身のアイデンティティを探究する際に不可欠な背景として機能していることに着目し、そうした「自己探究の物語」に見られるカフェの役割を分析していく。
フランス文学とベルギー・フランス語圏文学、特にパリとブリュッセルという二つの首都に注目するのは、両都市でフランス語という同一言語が用いられているにもかかわらず、フランス語圏文学、ひいては世界文学において「中心」と「周縁」という対照的な役割を演じてきたからであり、そうした差異が作中に描かれるカフェの表象からも浮き彫りになるからだ。中でも、ブリュッセルのカフェの表象は、ベルギー・フランス語圏文学のアイデンティティという問題とも結びつき、フランス語圏の内部にとどまらず、広く「周縁」の文学の特徴の一端を明らかにするのである。
そこで、本論文では、フランスの作家として、パトリック・モディアノ(1945-)、マルグリット・デュラス(1914-1996)、シャンタル・トマ(1945-)、ベルギーの作家としてピエール・メルテンス(1939-2025)、ジャクリーヌ・アルプマン(1929-2012)、アラン・ベレンボーム(1947-)の小説作品を取り上げ、各作家が描くカフェの表象に着目する。これらの小説家たちは、それぞれフランスとベルギー、中でもパリとブリュッセルを舞台とした自伝的な作品、「自己探究の物語」を複数描き、その中にカフェを頻繁に登場させているからである。
三部から成る本論文の具体的な構成は以下の通りである。
第一部では、1960年頃までのパリとブリュッセルのカフェ文化史をそれぞれの国の文学史とのかかわりにおいて論じたうえで、それ以降の時代における社会とカフェ文化の変質に言及する。
第一章では、パリのカフェ文化史を、フランス文学におけるカフェ表象の歴史に着目しながら概観する。パリでは18世紀から1960年頃まで、作家や芸術家、政治思想家など多様な人々が議論する場、そして執筆の場としてカフェが選ばれ、カフェ文化が栄えた。パリのカフェでの議論は「フランス文化」の様々な潮流を形成するのに大きく寄与することとなった。
第二章では、ブリュッセルのカフェ文化史を、ベルギー建国から現在に至るまでのベルギー・フランス語圏文学史との結節点に着目し、論じる。ブリュッセルでも、カフェは作家同士の友情を強固にする場となり、20世紀には多くの文芸雑誌の著者たちを統合する場として機能するようになったが、結果として「ベルギー文化」を形成するだけの強い求心力を持つことはなかった。ブリュッセルのカフェ文化は、自国とパリとの間で引き裂かれた「ベルギー人作家」のアイデンティティの脆弱さを暴露してきたと言える。
第二部では、現代フランス文学におけるカフェの表象を、特にオートフィクションという形式に着目しながら論じる。本論文では、オートフィクションを、ジャン=ジャック・ルソー以来の伝統的な自伝に見られる作者、主人公、語り手の同一性を曖昧化させたポスト・モダン時代における新しい自伝的ジャンルのことと捉え、伝統的なカフェ文化のイメージから解放された場所として、現代文学においてカフェがエクリチュールの内部に開かれるようになった様を描き出していく。
第一章では、パトリック・モディアノの、1960年代のパリを主たる舞台とする小説に見るカフェの表象を論じる。モディアノの作品は、しばしばその記憶の曖昧さやアンビヴァレンスによって特徴づけられるが、そのことは、作中で描かれるカフェにも共通している。カフェのこうした機能は、1960年代という、古い世界と新しい世界とが混ざり合い、カフェ文化が自明ではなくなった時代の性質を示しているだけでなく、オートフィクションという、自己のアイデンティティを曖昧化する手法と通じ合っている。
第二章では、マルグリット・デュラスの晩年の作品『エミリー・L』と『苦悩』に見られるカフェの表象を分析する。カフェは、両作品中で、統一的な自己について語ることが不可能になった現代における自己の問題が前景化される場となっており、絶えず重層化するアイデンティティを許容するオートフィクションの創造に不可欠な場所として機能している。
第三章では、シャンタル・トマの『記憶のカフェ』におけるカフェの表象を論じる。作家自身が青春時代に訪れたカフェでの出来事を描き出した本作品は、時系列が絶えずずらされ、主人公の人生が断片の連続によって構成されるオートフィクションだ。作中で自由と解放の場所として描写されるカフェは、自己に関する自由なエクリチュールの創造にふさわしい背景となるのである。
三人の作家の作品に共通するのは、カフェがオートフィクションという現代的エクリチュールの中で、作家自身のアイデンティティをめぐる問題を前景化する場所として機能していることだ。彼らは、記憶の物語を紡ぎ出す過程で、過去を完全な形で再現することの困難にぶつかり、伝統的な自伝とは異なる方法によって、再創造を試みた。作家たちの自己の所在が曖昧化し、「歴史」や「自伝」が疑問に付されるようになった現代、「フランス文化」への確信が失われた現代において、自己そのものが断片化し、重層化した存在として立ち現れるようになり、カフェはそうした自己の存在をつなぎとめ、「自己とは何か」という問いを提起する場所として意識されるようになったのである。
第三部では、現代ベルギー・フランス語圏文学に見られるカフェの表象を、オートフィクションをはじめとした「自己探究の物語」に着目し、論じる。ベルギーでは、オランダ語圏とフランス語圏の対立が激化し、国家が連邦化に向かう1960年代以降、ベルギー・アイデンティティとは何かという議論が白熱化するが、その中で個々の作家と国家のアイデンティティをめぐる問いが結びつく傾向が強まり、カフェも同様の問題を具現化する場として文学作品に登場しはじめる。
第一章では、ピエール・メルテンスの『亡命地』と『王の平和』を考察対象とする。両作品において、カフェは他者との出会いを通じ、ベルギー・アイデンティティとは何かという根源的な問題を導き出す場所として機能している。作家による自己探究はベルギーという集合的アイデンティティと結びつけられており、ブリュッセルのカフェが自己の所在について考える契機を与えるのは、そもそもこの都市のカフェ文化がベルギー・アイデンティティの不確実さを体現してきたからだと考えられる。
第二章では、ジャクリーヌ・アルプマンの『オルランダ』におけるカフェ表象を論じる。本作品の主人公からは、「大きな文学」に反発しつつも惹かれ、完全に影響下を脱することもできない状況が読み取れ、それは「周縁」の文学、とりわけベルギー・フランス語圏の作家に特有の葛藤と言える。カフェの描写もベルギー・フランス語圏のアイデンティティをめぐる問いと連動し、「幻想的オートフィクション」という特異な形式と共鳴しているのである。
第三章では、アラン・ベレンボームの『ミシェル・ヴァン・ロー探偵の捜査』シリーズにおけるカフェ表象を分析する。本作品では、ベルギーは外国性と不可分の国として描かれているが、カフェはその中でグーズというブリュッセルのローカルビールを介し、主人公に純粋なベルギー・アイデンティティを見出す幻想を抱かせる場になっている。凡庸な探偵に過ぎない主人公による自己探究は絶えず挫折するが、このアイロニカルな状況はベルギーのフランス語作家が置かれている状況を体現している。
三作家の作品において、カフェが自己を前景化する役割を担い、断片化・重層化した自己の所在の不確実さを露わにしている点は、フランス文学と共通している。しかし、作家の自己の問題が、ベルギーという集合的アイデンティティの問いと結合していることは重要だ。ベルギー・アイデンティティと自己に関する問いが結びつく背景には、前者が常に不確実で曖昧であるがゆえに、ベルギー人にとって自己について語ることがそもそも困難であり続けてきた事実がある。そして、ブリュッセルのカフェがこうした問いを具現化する場所になっていることは、この都市のカフェ文化が統一的な「ベルギー文化」を創造できず、「ベルギー人作家」の立ち位置が曖昧であり続けたことと無関係ではないだろう。
このように、現代のフランス文学とベルギー・フランス語圏文学において、カフェは作家の自己を主題化する過程でそれぞれ異なる役割を果たしている。だが、新たな自己に関する創造を導く場として描かれている点は共通している。自己の所在が曖昧化した現代において、作家たちが自身のアイデンティティについて考え、その存在をつなぎとめる可能性を秘めた場こそがカフェなのだ。したがって、「カフェ文化」が終焉してもなお「カフェ文学」は重要な意義を持ち続けていると言えよう。