本論文では明治期における農商務省の行政の整備過程について四つの段階に分けて特徴付けるとともに、省外で同省の役割を補完する、全国的な産業振興を企図した運動の事例分析を行った。農商務省は明治一四(一八八一)年に農務・商務・工務局など産業政策に関係の深い部局を集めて設立され、大正期に分割されるまで産業政策を担う主要な官庁であった。農商務省については、人事・歳出などの行政の基礎的な分析に加え、政策構想にも注目した。同省は殖産興業政策が展開される中で創設され、明治一〇年代から一定の歳出規模を有していたものの、駅逓や管船などに偏っていた。省外で提携する機関・組織も整備過程にあり、当該期は主に地方官と協力した。こうした中で、農商務省は地方官を集めて勧業会を開催するなど、経済・地方の実状を把握しながら漸進的な行政整備を図った。こうした状況に対し、『興業意見』に集約される政策構想を掲げ、法制の整備と地方産業の奨励・救済を図ったのが前田正名であった。しかし、急進的に行政の充実を図る姿勢は省の内外から反発を招き、前田は追放され従来の漸進的な整備方針が定着した。
 初期議会期における政治的対立もあって停滞気味であった農商務行政は、日清戦後経営期に歳出の項目・費額ともに増加するなど急速に拡張していった。特に榎本武揚大臣・金子堅太郎次官の体制下では、従来の行政を調査した上で施策構想が纏められ、貿易奨励費のように彼らの任期中に実現した施策もあった。省外の機関・組織との提携も、地方官・領事・商業会議所・大日本農会など、国内外の産業に関する多様な領域への施策が可能な形に整備されていった。こうした行政の拡張や農業の相対的な停滞への危機感などを背景に、同時期には農商務省の再編構想も提起されていた。
 明治三〇年代に入ると農商務行政は一層整備され、大臣を除き主要な人事は、局内での移動や、内務・逓信など産業の奨励に関係する省、法律の運用に長けた司法・法制系の省・機関からの移動が主となった。また、当該期には耕地整理法・農会・産業組合法など行政上重要な諸法律が整備された。こうした法律の整備に大きく貢献し、その運用に尽力したのが岡野敬次郎を筆頭とした参事官であった。日露戦後には行政は一層拡張し、特に経常歳出は費目の数・歳出額ともに安定したが、明治末期には財政整理の圧力が強まった。
 このように農商務省は、明治期を通じて省外の機関との提携を固めつつ、人事の安定、歳出の金額・多様性の増加など、産業に関する様々な施策を行える体制を整備していった。大正期に入ると、大正政変によって政情は不安定化するとともに、第一次世界大戦が日本の経済・財政に大きな影響を与えたが、これらの農商務行政への影響の分析は今後の課題である。
 全国的な産業振興の動きについては、殖産興業という語に象徴されるような産業発展の志向と社会政策的企図の二要素に注目し、こちらも明治一〇年代から四〇年代まで分析した。明治期の社会政策的な企図としては、士族授産が有名であろう。農商務省外の動きの分析において、特に注目した人物が明治一〇年代に農商務大輔を務め、山県系官僚勢力の有力政治家として内相も務めた品川弥二郎である。品川がどの時点で「小農小商工」保護構想を纏めたのかは定かでないが、農商務省在省中から資本や信用に乏しい人々に対する保護の必要性を唱えており、明治二四年の内相就任以降その中核に信用組合を据えた。信用組合法の起草に際し品川に協力したのが、山県系の有力政治家として台頭していく平田東助であり、平田も品川に協力して産業組合法の公布前から信用組合の普及に尽力した。品川は政治的には必ずしも成功したとは言えないが、小農小商工保護構想の推進という点では中央には平田という後継者がおり、各地の有志とも交流を有した。その中には愛知の古橋源六郎のような、地方改良運動に貢献した者もいる。
 まず明治一〇年代については、前述の二要素をともに含む、藤田一郎という人物により推進された産業振興運動を扱った。この運動は品川の他にも岩倉具視や佐佐木高行といった一部の政府高官から熱心な支持を獲得した。特にその中核である農業を中心とした金融を企図した勧農義社構想は、名義のみの可能性も高いとはいえ、政府内の主要勢力から賛成の姿勢を引き出した。構想の未熟さや一四年政変に至る政情の不安定化により、政府からの補助獲得には失敗したが、当該期の政府の積極政策や士族授産を推進するための模索を示す重要な事例といえる。
 藤田が勧農義社構想に続いて打ち出した土地抵当銀行倉庫会社双立論も、一時期は大蔵卿に転じていた松方正義が関心を示し、地域側にも活発な動きが見られた。これは松方との通貨に関する意見の相違から挫折したが、政府の地方金融構想を補う可能性を有してはいた。そしてこの事例を通じ、明治一〇年代においても条件が揃えば全県的な産業振興運動が推進される下地が存在していたことが分かる。勧農義社の創立委員は府県により人数などは様々であり、実際に組織化を推進できたのは一部の県に止まるが、県会議員、実業者など各地の有力者から一定の協力を引き出した。そして義社の組織化の促進要因として挙げた、行政・「既成ノ社」・民権家の協力は、日清戦後経営期から全国的に広く見られるようになった、各地の産業振興を推進する体制の先駆けといえる。
 明治中期については、産業発展の追求という性格が強い前田正名の運動と、社会政策的な志向が強い品川らによる信用組合普及の試みを扱った。前田の産業振興運動は主に実業者の団結を促して粗製濫造など経済活動における弊害を矯正し、輸出の促進を図るものであった。これは明治二〇年代半ばから本格的に開始され、一時は一一の経済団体の組織化にまで至った。前田はこれらの団体を率いて政府への働きかけも行い、重要輸出品同業組合法などの重要な法律の制定に貢献した。
 前田がこうして実業者の結集を進めていく中で、輸出工芸品七業者の団体である五二会も組織された。この組織については、多くの府県に設置された本部役職者の業種や会社での役職、官職を網羅的に分析した。前田は五二会組織化の当初から、地方行政機構と各地の代表的な実業者が会員となる商業会議所に注目しており、会の本部も置かれた京都府の本部は、行政と会議所の協力が得られた模範例とされた。同業組合や一部の地域を中心に組織化が進んだ場合もあり、特に織物が盛んな栃木・群馬県の五二会の活動は前田から高く評価された。前田の運動に協力した有志からは、技術改良に積極的であり、かつ組合組織などを通じ同業における経済活動の弊害の矯正を図るという、前田と共通の問題意識も見られた。
 前田の産業振興運動と同時期に、内相を辞した品川弥二郎は信用組合の普及を模索し、明治二九年からは『信用組合提要』という平田との共著を指導に活用した。尤も、この試みは明治三三年の産業組合法施行まで法的基盤を欠いたため難航した。例えば、品川や平田が設立に関係した信用組合の中に、麹町信用組合・矢板信用組合があるが、「小農小商工」への金融を企図した前者は長続きせず、矢板町の有力者を主体に経営した後者は発展した。日露戦後になると、平田は野田卯太郎のような政党政治家の協力も得ながら、一層産業組合の普及を推進し、社会主義対策を含む様々な問題への解決を図った。地域の側については、古橋のような名望家層に加え、明治三〇年代からは、愛知県の安城農林学校に赴任し、同県を拠点に活動した山崎延吉のような、非名望家層の有志も産業振興に貢献した。
 こうした一貫して産業振興や社会政策を推進する動きに対し、自由党―立憲政友会の経済に対する態度は自由主義から積極政策へと大きく転換した。これに対しては、自由党は人民の智識・財力・人格の伸長とこれら長所の糾合を目指し、特に「輿論」の形成に大きく寄与する「中等社会」に期待したという観点から、転換の前後について可能な限り一貫した説明を試みた。自由党は初期議会期まで、政府への不信もあり産業政策には概して否定的であった。他方で、貿易の促進の必要性には早くから自覚的であり、初期議会期でさえ蚕糸業や茶業などの重要と見做した産業に対しては、根本的な政策方針の策定を求めていた。政友会が結成されると、綱領に産業奨励や運輸機関の整備が盛り込まれ、民力との兼ね合いは意識されつつも、積極主義が一貫した政策志向となる。自由党系政治家の経済や地域振興に関する活動については、まず実業家としても活躍した野田卯太郎を分析の軸としたことで、従来の利益誘導で知られている鉄道などのインフラ整備や治水のみならず、取引所の紛議の仲裁のような農商務行政への貢献の事例も確認した。
信用組合の事例が象徴的なように、運動(実業者の組織化)は法制を欠けば成功は難しく、逆に法制のみ備わっても、幅広い実業者の協力を欠けば実効性に乏しい。この双方が本格的に備わるのが、産業革命が進み、産業政策に懐疑的であった自由党も明確に方針転換する日清戦争以降で、重要物産同業組合法や産業組合法という産業振興の基軸となる法制が整った。明治三〇年代以降、官の中では平田が政党とも一定の提携を行いつつ、産業組合の普及を推進し、地方改良運動を通じて全国的な産業発展と社会政策的志向の普及を図った。こうした動きには、まず主に名望家層や進取的な実業者たちが呼応した。更に三〇年代以降は、農学士の山崎延吉のような、幅広い性格の産業振興を志向する人々が本格的に参入した。こうした産業振興を巡る様々な動きについても、更に具体的な分析を進める必要がある。