本論文では、1920年の東京帝大神道講座設置などで確立されていった近代神道学を、帝大にとどまらない広い文脈のなかで位置づけた。近代日本においては、religionの訳語としての「宗教」概念が登場してきたことにより、神道が仏教やキリスト教とは別に扱われる部分と並列に扱われる部分が混在する状況が生まれてきた。1880年代以降、近代教育機関の整備や交通の変革が進んでくる時代に神道に向き合った人々が、どのように「宗教」になろうとしたのか・しなかったのか、特に「研究」という営為がどのような意味を持っていたのか、検討を試みた。
 序章第1節「近代神道という視座」では、近年、“国家神道”研究とはやや異なる形で散発的に提起されてきた“近代神道”研究について論じた。“国家神道”およびそれ以外の時代・領域の捉え方により類型を設定できるが、諸領域のうちどれかを“近代神道”とは呼ばずに、広く相互の関係性を捉えていくほうがよい。そのうえで近代仏教研究の視点を参照してみると、メディアの拡大や大学制度の登場といった新たな環境下での動きを狭い意味での“近代神道”と呼べる。
 序章第2節「神道学とその周辺」では、神道学について、哲学系の国民道徳論と国学という2つの系譜をどう位置づけるかが争われてきたなかで、近年は民俗学なども含む近代神道研究の複数性に目が向けられつつあること、神道メディア研究は徐々に進んできているが、“メディア宗教”論のように新たに適用すべき枠組みもあることを論じた。
 序章第2節の最後は、1880年代末から90年代初頭にかけて「神道学」の成立が困難な状況が到来していたことを説明した。近代歴史学をはじめとする外部の学問分野だけではなく、大学の考証派国学や、後に神道講座に関わる井上哲次郎においても「神道学」や「神道」への視線は冷ややかだった。また、その神道学イメージに結びつく形で否定的に捉えられた歴史上の存在として、平田篤胤がいた。
 第1章「久米邦武筆禍事件と「国家神道」再々考」では、久米が発表した「神道は祭天の古俗」による1892年の筆禍事件を検討した。事件以前の神道界では神社や神道のうちどこからどこまでを「非宗教」「宗教」として扱うか論争が続いていたが、『明治会叢誌』における医学士・山崎泰輔と大成教教書嘱託・磯部武者五郎の論争に見られるように、「宗廟」こと伊勢神宮を中心とする祖先崇拝が神道の核心であり「天」とは異なるのだということはどちらの陣営にも共有されていた。山崎は「宗廟」中心の祖先崇拝を「国家神道」として概念化した。一方、草稿も含めて祭天論文の執筆過程と背景を分析していくと、久米が、神道界における陣営のうち「宗教」側の抑制を念頭に置いて神道を「宗教に非ず」と論じる一方、不平等条約改正への障害を取り除くべく、神道の神観念が本来「天」への「想像」による唯一神教的なものだったとも説いていったことが分かる。筆禍事件の主因はその唯一神教化志向と祖先崇拝否定であり、久米の新規性は的確に捉えられていた。事件では他にも様々な要因が複合していき重大な結果を招いたが、突破口となったのはその問題だった。事件後は、久米という共通の敵の刺激によりそれぞれの陣営が活性化し、最終的には合流していくこととなる。宗教学上の神道理解は、事件後に「天」「天然崇拝」と「祖先崇拝」の対比として整序されていった。そして、谷本富が国内の神社問題に関わる文脈で、鳥居龍蔵が大陸宗教との共通性について、それぞれ祭天論文を再評価した。
 第2章「反「神道学」の皇漢学者・久米邦武」では、久米思想の全体像を論じた。基本形として、明治維新を「階級徳治」から「法治の世」への移行と捉えていたこと、「公衆」の集合的な意志が「神」たりうるという考え、「自主」の重視、「忠」は広く「孝」は狭く解釈していたことなどを指摘できる。特質が表面化した事例としては、共和演説事件後の「国体論」、大逆事件と著作の関わり、南北朝正閏問題での論争、森鷗外「かのやうに」への応答としての『時勢と英雄』がある。特に南北朝正閏問題後は、井上哲次郎が国民道徳論の場で祭天論文の再排除を試みた。また久米はその歴史叙述や時評において、天壌無窮の神勅や教育勅語を軽視・無視する一方、「底つ岩根に宮柱太しりて」や五箇条の誓文のように権力観が異なるモチーフは好んでおり、唐代詩人では柳宗元を援用した。特定の人々だけを逆臣としないという価値観も見られ、江藤新平顕彰との連関を考えることができる。一時期だけ祖先崇拝に接近しており、大隈重信に伴走する歴史家としての立場が窺えるが、大隈死後には「天」一元化を再論することになった。
 第3章「神道改革の「宗教」路線」では、前述の磯部と大成教を中心に、1890年代前半の教派神道諸派で自らをルターになぞらえるような改革運動が起こってくる状況を跡づけた。大成教はその教団的特質により雑誌メディアを積極的に活用しており、久米事件以前からルターを引き合いに出す祈祷排除論も生じていた。こうした議論の場と改革言説は、神宮教・実行教・神道本局などにも広がっていく。大成教の場合は傘下の蓮門教会をめぐる軋轢が「改革」論の帰結として生じた。一方、磯部は考証派国学や神社など、「神道」概念を忌避していた人々にも「神道」としての連携を呼びかけた。その後、内地雑居などを機に磯部の「宗教」観は変容していき、宗教領域に軸足を残しつつも神道「非宗教」論者を名乗るようになる。
 第4章「神道改革の「非宗教」路線」では、井上学派の木村鷹太郎らが1897年に発刊した雑誌『日本主義』を中心に、国学者・哲学者の参入を扱った。国学者の雑誌は、神宮教の神宮奉斎会改組に影響を与えた『闇夜の灯』や、國學院の『新国学』である。『闇夜の灯』の「国家神道」論は、第1章の山崎に比べれば「宗教神道」へ融和的になっていた。そして、「局外」の哲学者でありながら神道を論じる場に参入してきたのが、ナショナリズム運動として知られる雑誌『日本主義』だった。当初は「新神道」運動を意図しており、内地雑居開始を見据えた「宗教」全般への警戒と極端な排除、神道界の他のアクターとの連携が見受けられる。易経や実行教の書物に由来する「生々主義」の主張、イギリス「実験」哲学の標榜も特徴だった。宗教界で1901年前後に登場する他の諸「主義」に先立つ“メディア排宗教”運動と位置づけうる。しかしその後の神道論では、「宗教」の取り込みを図る傾向が強まった。木村が1910年から唱えた荒唐無稽な「新史学」もその文脈で位置づけられ、磯部と対照できる。
 第5章「「神道哲学」の誕生」では、井上学派の田中義能が1909年前後に「神道哲学」と「神道史」という2つの枠組みを確立する過程を取りあげた。田中以前には岡吉胤が宇宙論としての、有馬祐政が歴史上の「神道哲学」をそれぞれ論じる。特に有馬は北畠親房を「神道哲学」の先駆者と位置づけるとともにイギリス哲学を重視する点で、木村と田中のあいだの過渡期的な立場だった。『神道発達史』を上巻しか出せなかった足立栗園や、「煩悶」状況における「神道史探求」として『偉人黒住宗忠』を上梓した木山熊次郎などが出てきたなかで、田中義能は平田篤胤を模範として重視した。「神道哲学」は、従来の考証派国学に対し、「神道」を論じるべきだとする國學院大學内部での気運が高まってきた状況で、本居大平の「訓詁」に対する篤胤の「宗教」「死生」論という立ち位置を語った。19世紀のような明治維新イメージや「俗神道」排除とは異なる20世紀の篤胤像だ。「神道史」は、日本が「進化」すると神道だけでは足りなくなるという久米の図式に対し、神道こそが文明の「進歩」に合わせて他の思想や宗教を摂取しうるのだと主語を置き換えることで成立した。その際はドイツ哲学の影響に加え、国学者としての篤胤による師説批判を「神道」そのものの性質だと見做すことが神道「進歩」の論拠となった。
 第6章「神道学を建設する」では、井上学派で、1926年の神道学会創立に直接つながる「神道学」論を提起した遠藤隆吉を扱った。『日本主義』の頃に帝大に在学した遠藤は、「宗教」や「学」への見方を木村と異にし、「東洋倫理学」の一環として神道を論じていった。そして1917年の「日本神道学の建設」で、天や祖先崇拝など様々な要素を「生々主義」によってつなぐ「神道学」論を提示する。それは君主制と「デモクラシー」を統合しようとする試みでもあった。遠藤や田中らは、中産階級に対する学校教育や、大学における神道青年会運動の組織化を目指したが、いずれも成功したとはいいがたい。戦後に「生生主義」の神道を非難した鈴木大拙は、遠藤を念頭に置いていた可能性がある。
 付録「神道談話会ともう一つの「神道学会」」では、帝大の神道談話会について新情報を補うとともに、神道本局の「神道学会」を紹介した。
 以上のように近代神道学は、キリスト教や科学・哲学の流入を前提に、久米事件が刺激した2つの神道改革路線が合流する地点において、改革とは異なる「歴史」という視座も伴いつつ成立してきた。帝大以外では、教派神道諸派を起点とする「神道」諸領域への呼びかけ、国学内部における考証派への批判と「哲学」への期待が特に大きな役割を果たしていた。そこで構築されていった思想は、久米が離脱を宣言した素朴な宇宙論としての「神道学」とは異なり、人間の「理想」や「想像」の領域において「宗教」を捉え、「進歩」や「生々主義」といった観念によって自らを根拠づけようとするものだった。それは、天と祖先の崇拝を二つの極とする模索の過程でもあり、祭天論文は、久米事件のみならず南北朝正閏問題や谷本富による再評価という形でしばしば思い起こされ、新たな「神道学」構築のための「異端」「他山の石」たりえつづけた。