アリストテレスは『形而上学』最後の二巻(M巻とN巻)において、プラトン学派に対する集中的な批判を展開した。中世までの受容史において、これらの巻がアリストテレスの本格的な真理探究と見なされることはなく、近代以降の研究史においても、ごく限定された主題を扱う論考、あるいは考証的な資料として偏った関心から読まれてきた。本論文では古典文献学の手法によってMN巻全体を読みなおし、形而上学を破壊的に創造した仕事として再評価する。
 本論文は、序論、十の章、結論から構成される。
 序論では、MN巻の解釈上の困難とこれまでのアプローチを概観し、本稿の立場を明示する。両巻には、内容と配置、主題、構成、源泉などをめぐる厄介な問題がある。形式的には『形而上学』の企図に組み込まれており、近年の研究史も両巻の重要性を認めつつあるが、形而上学を創設する構想の一角として正面から受け止められるまでに至っていない。その背景には古代ペリパトス派の権威、アフロディシアスのアレクサンドロスに由来する解釈の枠組みがある。歴史的な偏見を乗り越えてMN巻を読みなおすため、井上忠とアウグスト・ベークの議論を方法論的なよすがとして、「アリストテレスにとってのMN巻」と「私たちにとってのMN巻」を同時に立ち上げることを目標とする。
 第一章はMN巻の資料論である。『形而上学』のテクストは非常に不安定であるため、現行の校訂版に依拠するだけでは不十分である。本文確定の基準を立てるため、現在の文献学の到達点と限界を見定めておく必要がある。それはPrimavesiがA巻の新校訂(2012)で示した校訂方針に集約されるが、A巻とMN巻の資料状況は大きく異なる。後者は写本系統図の一部に変動が起こり、系統を同定しうる間接伝承にも恵まれないからである。本論ではRoss版(1924)を底本とし、LunaによるMN巻の本文研究(2005)を慎重に参照しながら、必要に応じて主要な中世写本を参照する。
 第二章では、現代の研究に欠けている視角を古代の註解(古註)から補う。概して『形而上学』の註解史はMN巻に冷淡であり、中世では註解を省く慣例すらあった。例外は、プラトン主義の立場からアリストテレスを再批判したシュリアノス(5C)である。近代人とは異なり、シュリアノスはMN巻をM巻1章の講義計画に基づく統一的な論考と見なしていた。この読み方には限界もあるが、重要なのは、彼がこの計画の「分割と配列」そのものを問題化し、アリストテレスの大局的な戦略を読み取ろうとした点である。両巻に一つの哲学的構想を見る思考が壊滅的に失われている現代において、シュリアノスの読み方は示唆的である。
 第三章~第十章ではMN巻の本文の読解を行う。
 第三章では、探究の主題・狙い・方法を掲げるM巻1章の記述をもとに、MN巻の哲学的射程を考察する。主題(1076a8-12)と狙い(10-16)とプログラム(22-32)は別個に釈義されがちであるが、全体を貫く視野の再現が求められている。MN巻は「実在とは何か」を問うZHΘ巻の考察を引き継ぎ、「感覚される諸実在のほかにある実在」を検証する。しかしその狙いは独特であり、「不動で永遠な実在」をめぐるプラトン学派の学説と自説を対峙させ、比較することを目標とする。そこでイデアを否定するスペウシッポスの説を梃子として、単純なものから複合的なものへ向かう精緻なプログラムを導入する。一連のMN巻の構想は、ΖHΘ巻とΛ巻を含めた探究のネットワークの一部となっている。
 第四章では、数学的対象のあり方を端的に扱うM巻2-3章を読解する。この箇所はしばしばアリストテレスの数学論として取り沙汰されるが、その場合にMN巻固有の文脈が無視されがちである。本稿の関心は、E巻で保留にされていた「分離されない」という数学的対象のあり方を、プラトン的な仮定の批判を通じて解決する点にある。M巻2-3章には問答法的な側面と課題解決的な側面がある。両側面を結びつけるのは論敵への対抗心や純粋な数学的興味でなく、数学と第一哲学の間に新たな関係を打ち立てる構想である。その狙いは、数学を哲学化するプラトン学派と数学を善や美から切り離すソフィストに対して、数学を理論学の一つとして確保することにある。
 第五章では、M巻4-5章におけるイデア論の成立史とその諸困難を検討する。この部分ではA巻との記事重複が問題となるため、間テクスト的手法によってM巻独自の論理を再構成する。イデア論の成立史はA巻ではピュタゴラス派と比較してイデアの原因性に光を当てるのに対して、M巻ではソクラテスと対比して、イデアの普遍性を問題とする。また、数学的なものからイデアを介してイデア数に至る点は同じだが、A巻のイデアが数学的なものと地続きであるのに対して、M巻のイデアは1章のプログラムによって数学的なものから切り離される。よって、A巻の記述を利用しつつ、異なる系譜・論点のもとでイデアが語り直されている。
 第六章では、M巻6-9章前半のイデア数批判を扱う。とりわけ先行する第一・第二プログラムとの関係に着眼し、アリストテレスがM巻で引き受けた問題を再評価する。イデア数批判は二つに分けられる。前半では数を構成する二種類の単一を通じてイデア数の矛盾が導かれ、後半では数と単一の原因性の齟齬によってイデア数の分離性が否定される。第一・第二プログラムの機能は、帰謬的構造の土台を作り(前半)、論敵の方法論的な問題を予示すること(後半)である。アリストテレスの関心は、数学的対象の正しいあり方を示すというより、形而上学が前提とする領域的・方法論的体系(Γ巻と Ε巻)を横断し、かつ融合するイデア数の困難をあぶり出すことにあった。
 第七章では、M巻とN巻の繋ぎ目について論じる。巻の区切りについては古代から論争が続いているが、十分に解明されたとは言いがたい。本章では、「接続部」(M巻9章後半~N巻1章冒頭)の読解により、何と何が接続され、論点がどう移行したのかを観察する。接続部の関心は、論敵の原理論の枠組みにおける実在(感覚物の原理)とその原理(上位の原理)を橋渡しすることにある。よって接続部が厳密に結びつけているのはMN巻全体でなく、M巻6章~N巻4章の範囲である。論点はプラトンに固有のアポリアを普遍的なアポリアに転換することによって、「分離される実在」から「第一原理」に移行する。
 第八章では、N巻1-2章におけるプラトン学派の数的二元論への批判を検討する。この部分にはプラトン『ソフィスト』への言及があるが、従来の研究はN巻の文脈をあまり考慮してこなかった。そこで、N巻1-2章の文脈を考慮してアリストテレスによる『ソフィスト』受容を考察する。対話篇への言及は、プラトン学派の学説のバリエーションを認めたうえで、それらの困難の淵源に遡るために行われる。その淵源はパルメニデスに対するプラトンの「父親殺し」である。アリストテレスはプラトンが対話篇で書いた二つのアポリアの位置づけをN巻の文脈に合わせて逆転させることによって、数的二元論の問題の起源を突き止め、他方でそこから逃れる出口を示した。
 第九章ではN巻2章末尾~4章における、スペウシッポスを主な論敵とする批判を検討する。N巻2章末尾はM巻3章への参照指示を含み、またおそらくM巻9章から参照指示を受けるが、M巻との連続性は、既存の研究において真剣に受け止められてこなかった。しかしM巻との二重の繋がりに注目すると、スペウシッポスのプラトン学派の一員としての側面と、その改革者としての側面の両方が批判されていることが理解される。スペウシッポスはイデア論者の困難を正しく認識しながら、その困難の原因を精確に見極められなかった。アリストテレスが徹底的に論敵の諸困難の原因を突き詰めるのは、スペウシッポスによる「父親殺し」の失敗に学んだからだろう。
 第十章では、N巻の結論部における、数の原因性をめぐる考察を検討する。本箇所はM巻2章から続くMN巻の議論全体を閉じつつ、M巻6章以降の第三プログラムを閉じる役割を担っている。本箇所で、アリストテレスは二つの点でプラトン学派との差異化を行う。第一に、「類比によって一つ」の原因を想定する点ではプラトン学派とアリストテレスは同じだが、後者が原因の語られ方の区別に依拠しているのに対して、前者が依拠する数はたまたま事象に一致しているに過ぎない。第二に、双方とも古い詩人たちや賢者の洞察を引き継いでいるが、アリストテレスが方法的に神話から脱却しているのに対して、プラトン学派はアポリアに留まらないことによって、無自覚に神話的な語りに舞い戻っている。
 以上の読解を踏まえて、三つの成果を提示する。第一に、MN巻は「数学的なものとイデア」と「実在と原理」という二重の視点によって構造化された、統一的な論考である。第二に、アリストテレスは領域(観照的学知)と方法論(すべてを扱う知)の両面からプラトン学派を批判することによって、知の体系の再編成を行っている。第三に、アリストテレスはプラトン学派の真理探究が挫折した原因を歴史的に特定し、正しいアポリアの認識に基づく別の道筋を示すことで、知の歴史の再編成を行っている。この三点から、本論はMN巻がアリストテレスの形而上学的企図の一角をなす、本格的な真理探究であると考える。
 本研究の成果は、以下の二つのことを示唆する。第一に、MN巻が末尾に置かれる現在の『形而上学』の巻構成を、アリストテレス自身が考えていた探究の機序として正当化できる可能性がある。第二に、形而上学の始まりあるいはあり方への見直しが求められる。形而上学は特定の主題に関する積極的な立論や演繹を積み重ねることによってのみ成立するのではなく、既存の世界観との対決や歴史の語りなおしを通じて新しい空間的・時間的な広がりを切り拓く営み、すなわち破壊的創造の側面をもつ。