本論文は、鹿児島県肝属郡肝付町内の旧内之浦町中心部で話されている伝統方言(以下内之浦方言)を対象とする記述的研究の成果に基づく。序論である第1章では、研究の背景・目的・方法を記し、主な先行研究を挙げ、例文提示の方針を示したのち、章末に本論文全体の構成を示した。第2章では内之浦方言の概要として、当該方言が話されている旧内之浦町地域の地理、人口、内之浦方言を含む南九州方言の方言区画に言及した。
続く本論部分は大きく2つに分かれる。前半の第3章から第9章が第I部であり、ここでは「体系の記述」として内之浦方言の音韻と形態の概略を示した上で、内之浦方言の音韻と形態を網羅的に調査した結果を提示し、音韻と形態をはじめとする言語現象を体系的に記述する。共通語や古語に関する前提知識に頼った説明を避け、共時的な姿を記録することを目指す。後半の第II部は第10章から第13章であり、ここでは「現象の記述」として個別の音韻現象の記述を行い、従来手薄であった内之浦方言に関する研究データの拡充を図る。内之浦方言の特徴や独自性を明らかにするとともに、近隣方言や他言語にみられる類似の現象との関連を考察することを目指す。最後に第14章で結論を述べている。
内之浦方言の音韻と形態の概略を示す第I部(第3章から第9章)のうち、第3章では音韻論を扱った。論文中で用いる簡略音声表記の一覧を示したのち、音節構造ならびに音節の認定基準を示し、アクセントの現象を用いて音節の認定を行った。その際低音調から高音調への切り替えが生じうる箇所を音節境界であると見做し、音節境界で区切られる分節音のまとまりを「音節」と呼んだ。鹿児島市を中心とする鹿児島県本土方言のアクセント研究において、音節単位によるアクセント付与の例外とされてきた「サア(=様)」や「セエ(=して)」の現象についても、内之浦方言では統一的に説明できることを示した。さらに音節量の観点から閉音節が2種類に区分できるという観察に基づいて、この方言において音節だけでなくモーラも機能をもつ単位であることを主張した。次に、先に記述した音節構造を参照しつつ、分節音、すなわち母音と子音を記述した。超分節的要素であるアクセントとイントネーションについて概略を述べたのち、章末では形態音韻論として形態素境界で見られる音韻現象を記述している。動詞接尾辞初頭子音の有声化規則や、母音融合規則など、動詞や屈折形容詞の内部である接辞境界の現象に加えて、名詞と一部の助詞の間で観察される接語境界の現象を紹介した。
第4章から第9章では形態論を扱った。記述の単位となる用語の定義を示す第4章では、初めに語の内部構造の問題として、語を構成する要素である語根、接辞、語幹、語基の定義を行い、続いて名詞語根、動詞語根、屈折形容詞語根を用いた語形成方法についてそれぞれ述べた。その後、語性について扱い、内之浦方言の記述において、「語」は音韻・形態・統語のすべての観点において自立した単位であり、先に定義した語根と接辞は語の内部にあって語を構成する語未満の要素であり、音韻的にも形態的にも統語的にも非自立的な単位であることを述べた上で、「接語」がこの中間に位置づけられることを述べた。章末では、名詞語根と動詞語根を取り上げて、表層形から基底形を導く方法、すなわち表層形の分析によって設定される、より抽象的な概念である基底形の立て方について議論した。
名詞の形態論である第5章では名詞の内部構造として複合語形成及び接辞付与について述べた後、代名詞、数詞、形式名詞を記述した。動詞の形態論を扱った第6章では屈折接尾辞の接続先である語幹のクラスが子音語幹と母音語幹に大別し、それぞれの下位分類および例外的なふるまいをする動詞語根についてそれぞれ記述した。その後、屈折接尾辞についてはパラダイム、派生接辞については承接順序を示した上で、それぞれの接辞について記述し、章末では特殊なふるまいをする存在動詞とコピュラ動詞を取り上げた。形容詞の形態論である第7章では、形容詞を屈折形容詞と非屈折形容詞に分けた上で、それぞれについて順に述べている。屈折形容詞については屈折接尾辞のパラダイムを示し、派生接尾辞による副詞や名詞への品詞転換について記述した。非屈折形容詞については共起するコピュラ動詞のパラダイムを再掲したのち、共通語との対応関係に基づく予測に反して非屈折形容詞として現れない個別の語彙の表現方法を提示した。助詞の形態論である第8章では、格助詞、とりたて助詞、接続助詞、終助詞のそれぞれについて定義を示した上で、内之浦方言における機能と例文を示した。第9章では名詞や副詞など複数の品詞にまたがって実現するという特徴を共有する、指示語と疑問語についてそれぞれ記述した。
個別の音韻現象を扱う第II部(第10章から第13章)は以下のように構成される。第10章では音節末子音の調査データを提示し、音節末摩擦音に関する調査結果を提示した。内之浦方言の音節末には、閉鎖音、摩擦音、鼻音、接近音が出現する。このうち摩擦音と接近音を残りの2つ(特に閉鎖音)と区別する大きな特徴としては、後続子音に同化しないことが挙げられる。さらに、音節末摩擦音が「母音脱落形」で実現するとされている鹿児島市方言(木部2001)とは異なり、内之浦方言では、無声硬口蓋摩擦音çや無声歯茎硬口蓋摩擦音ɕとして実現することを報告した。スペクトログラム、形態音韻規則、アクセントのそれぞれに関する分析案を検討し、音節末摩擦音が実際に音節末にあることを確認した。
第11章では音節構造を記述し、分析上特に問題となる狭母音 /i, u/ と接近音 /j, w/ について議論し、内之浦方言の狭母音と接近音について次の2点を主張している。(i)二重母音が存在せず、音節末に接近音の /j/ が認められる。(ii)わたり音のスロット(=G)を埋める接近音に /j, w/ の2つが存在し、これらが頭子音(=C1)との共起の有無にかかわらずGに立つ。さらに、Levi(2011)の通言語的研究を参考に、形態音韻規則に基づいて基底と表層における狭母音と接近音の関係を議論した。
第12章では、先行研究によって「一型アクセント」であるとされてきた内之浦方言のアクセント体系を記述し、二型アクセントの痕跡が見られることを指摘する。語と0以上の接語からなる拡張語を2つ以上使用した文中での名詞の発音を観察すると、ある話者の発音では鹿児島市方言の二型アクセントと類似する、対立する2種類のアクセント型が現れることから、この話者が鹿児島市方言と同じ二型アクセントに近い体系を意識下に持っていると考える。さらに、拡張語を単独で発音した際にはアクセント型の対立が見られない別の話者も、文中での発音においては2種類のアクセント型が比較的安定して現れることを示す。両話者の体系にはそれぞれ鹿児島市方言とのアクセント型の対応や語末音素による条件づけが想定でき、これは二型アクセントから変化したものであると考えられる。一方、拡張語を単独で発音したときの体系に、「拡張語単位で見ると同じ語が複数のアクセント型で実現しうるが、そのアクセント型が拡張語境界を超えて実現することはなく、弁別機能も持たない」という、これまで報告されていない体系が存在することになる。この部分体系のふるまいが先行研究の枠組みでは捉えきれないことを最後に指摘している。
第13章では閉音節が音韻論的に2種類に区分できることを示し、内之浦方言において音節量の変化が進行中であることを主張した。内之浦方言のアクセント体系を観察すると、アクセント単位である拡張語の最終音節が閉音節であり、尾子音が共鳴音の /n, j/ である場合には最終音節内部で下降する型が観察されるのに対して、尾子音が阻害音の /t, s/ である場合にはこの型が観察されない。Hayes(1995: 120)が述べるモーラを担わない尾子音を認め、前者は尾子音がモーラを担う重音節であり、後者は尾子音がモーラを担わない軽音節であると分析した。最終音節の尾子音が共鳴音である場合に観察されるアクセント実現の揺れから、アクセントの位置を数える単位がモーラから音節へ変化している可能性を指摘した。