1795/6年の『フィヒテ研究』に始まり、98/9年の『フライベルク自然科学研究』や『一般草稿』に至るまで、ノヴァーリスの思想はどのように発展したのか。この一連の過程の再構成が本論における課題である。
『夜の讃歌』や『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』といった著名な文学作品ではなく、むしろ理論的な著述の側に焦点を当てて、詳細に分析するのが本論の特色である。ノヴァーリスが展開した知的活動はすぐれて領域横断的な性格をもち、同時代のさまざまな知を包括しながら、これらに独自の仕方で応答を試みたものである。それゆえ、こうした大きなスケールで展開された知的活動を文学の領域に縮減してしまうなら、その思考の全体像は見失われるほかない。ノヴァーリスの著述における哲学や思想の重要性を一貫して示す作業が不可欠であるし、こうした作業を経ることで、文学作品の創作が重視されるに至った理由もはじめて解明されるのである。
以上の課題に取り組むには、フィヒテやシェリングをはじめとする初期観念論の哲学に対して、ノヴァーリスがどのように応接したかが重要となる。ノヴァーリスが展開した思考は、初期観念論の強烈なインパクトの下で成立したからである。ただし、両者の関係は複雑に入り組んでいる。それゆえ、こうした関係を正確に把握するために、1)〈受容〉、2)〈発展〉、3)〈超克〉という三つの観点を導入して、詳細な分析を行った。第一に、ノヴァーリスはフィヒテの知識学やシェリングの自然哲学がもたらした成果を積極的に受容した。第二に、発生的演繹をはじめとして、これらの哲学の核となる方法を独自の発展へと導いた。そして第三に、諸学問の包括的な体系化のプロジェクトを展開しながら、哲学を経験や歴史の側へと開くことで、フィヒテとシェリングを超克しようと試みたのである。
本論における基本的な狙いについては以上として、次に本論の内容説明に移りたい。大きく分けて、本論は前編「ノヴァーリス思想の成立―『フィヒテ研究』(95/6年)」と、後編「ノヴァーリス思想の展開―『ヘムステルホイス研究』(97年)から『一般草稿』(98/9年)へ」に区分される。
前編では、『フィヒテ研究』という初期の手稿群を分析しながら、ノヴァーリスの哲学的思考の形成過程を再構成する。第1章でこの膨大な手稿群への導入を行ったのちに、第3章でその本格的な分析を試み、全容を明らかにする。これと並行して、第2、4、5章では、『フィヒテ研究』の成立に大きな影響を与えた『全知識学の基礎』の詳細な分析を行い、この著作の全体像を提示した。最後に第6、7章では、フィヒテとノヴァーリスを比較検討しながら、両者の思考の特質を明らかにすることで、前編の内容が総括される。
フィヒテや同時期のシェリングにおいては、根本原理からの演繹に基づいて体系構想が展開されたのに対し、ノヴァーリスはそうした構想が抱えている問題点を鋭く指摘する。しかし、単なる懐疑主義的な立場から異議申し立てが行われたわけではない。発生的演繹を方法として確立し、意識の無限な進展の運動を導出することが『フィヒテ研究』におけるノヴァーリスの狙いだったのである。
こうした意識の運動を駆り立てる出発点となるのは自己感情である。これは自我が受け止めるほかない出来事であり、原‐受動性である。この感情が反省を喚起し、呼び起こされた反省が感情を対象化することで、経験的意識が産出される。この発生の運動に続くのは遡行の運動である。反省は対象化される以前の感情へと向かい、発生の現場を取り押さえようとするからである。ところが、その瞬間に、感情はふたたび反省によって対象化され、新たな経験的意識が発生する。
発生と遡行を反復しながら、以上の運動は絶対的自我へとむかって無限に進展し続けてゆく。ここから導き出される帰結とは、意識による絶対的自我の把握不可能性である。ところが、もうひとつの帰結の方がより重要である。この一連の過程をとおして、意識はその母胎である意識以前的なものとの関係を次々に組み替えてゆく力をもつ。こうした関係が再編されるたびに、潜在していたものが現実化され、新しい認識が生成して、意識はより豊かな内容を獲得するようになる。意識の無限の進展とは、所与の根源的事実を引き受け、そこに内在するポテンシャリティーを漸進的に展開する運動であり、ひいては、展開された多様性を有機的な統一の内部へと組み込み、知のネットワークを不断に創出し続けてゆく運動なのである。
98年から翌99年にかけて執筆された膨大な省察群では、『フィヒテ研究』で確立された原理的な枠組が現実のさまざまな領域に適用される。これは独自に練り上げられた超越論哲学の成果を、生や歴史の側へと開いてゆく過程ともなる。その諸相を詳細に分析するのが後編での狙いである。
まず、第1部「学知の体系化をめぐって―エンチュクロペディー構想の成立」では理論に関わる領域に、第2部「プラクシスの問題をめぐって―『さまざまな断章集のための準備稿』、『信仰と愛』(98年)を中心に」では、実践に関わる領域にそれぞれ焦点が当てられる。
第1部では、第1、2章において、学知を領域横断的に体系化するエンチュクロペディー構想がどのように生成したのか、その過程が究明される。そののち、第3章では、『フライベルク自然科学研究』や『一般草稿』を詳細に読解し、当構想を貫く基本的な枠組が再構成される。さらに、末尾に付した補論では、自然の問題をめぐるノヴァーリスの思考をシェリングと比較検討し、前者の独自性を明確化する作業につとめた。
諸学問はいずれも、哲学を頂点とする階層構造の内部に位置づけられるため、これらの学の体系化は哲学という最高の学を目指して、垂直的な方向にむかって推し進められる。と同時に、これらの学は不可分に関連しているため、ある学における発展は別の学に、さらにまた別の学に波及して、こうした相互移行が水平的に展開される。これらの対立する運動が両輪となって駆り立てられることで、理念と経験が総合され、有機的な統一に基づく体系が諸学問のあいだに形成されるのである。ただし、こうした体系化は永続的な完成の過程にとどまるため、その終極に出現する諸学問の有機的な統一は統制的理念でしかありえない。
諸学問のこの体系化の過程においては、真理のありかへとむかって自己を方向づける潜在知が重要な役割を果たしている。この潜在知を現実化することで新たな仮設を見出し、この仮設を経験的な領域に適用することで、その吟味、修正を図る。学問の枠組をラディカルに更新する大胆な仮設を立てる一方で、できるだけ多くのデータを収集して仮設を修正し、学問の探究を推し進めてゆける者ほど創造的なのである。
さらに第2部では、『さまざまな断章集のための準備稿』や『信仰と愛』といった著作群に依拠しながら、実践に関わる領域を究明する。第1章で、世界における人間の生が原理的な視点から分析されたのちに、以降の各章ではその諸相に光が当てられる。第2章では〈日常〉の生、第3章では〈知覚〉、〈身体〉、〈道具〉、第4章では〈国家〉、第5章では〈芸術〉といった具体的なテーマを取り扱い、第1章で論じた枠組がこれらの具体的な領域にどのように適用されたか、を詳細に解明している。
身体に内包されたポテンシャリティーは、生の経験的な領域においては、ごくわずかな部分しか現実化されていない。それゆえ、このポテンシャリティーを意識化し、現実化しながら、自我が世界と関わる仕方を変容することが目指される。その際に重要な役割を果たすのが道具である。身体に道具を接続することで、こうした現実化の過程のさらなる拡張が可能となるからである。知覚、身体、道具というさまざまな媒体をとおして、自己と世界の関係をより豊かに創造し直すことがノヴァーリスの追究した課題なのである。
さらに、他者の問題も重要なテーマとなる。自我とはさまざまな他者との関係によって編まれた織物である。相互主観性の枠組が論じられるにあたって、こうした大胆な発想がその基盤となる。自己に宿る未知のポテンシャリティーが現実化されるとき、自我は自らの内部に知られざる他者を見出し、自己の生を変容させている。自らの内により多くの他者を開き、そうした他者との関係を生きる者だけが自己の生をより豊かにできるし、現実世界においても、他者との創造的な関係を取り結ぶことができるのである。
以上の論述をとおして、次の結論が示される。ノヴァーリスを含む初期ロマン派においては、〈つくる〉こと、〈制作する〉ことが人間の活動の本質であると見なされる。こうした人間観に基づいて、理論および実践の根柢につくる活動が認められるとき、両者は生き生きとした創造性を内包し始める。知は創造的認識へと変容し、行為は自己創造性に基づく倫理へと接近する。これはおのずと、芸術創作が理論と実践に対して規範を与えるという枠組に結びつく。生の芸術化が重要な目標として浮上するのはこのためである。ノヴァーリスによって特権視されたのは文学であり、とりわけ長編小説である以上、長編小説を書くことが自己の生の理想的な実現と見なされたのは必然的な帰結であった。
ノヴァーリスという卓抜な知性を育む揺籃となったのは、実践理性の優位を核心とするカントやフィヒテの哲学である。こうした哲学の受容から出発しつつも、人間を〈ポイエーシス的存在〉と見なす洞察がしだいにその思想の根柢を形づくってゆく。本論では、こうした過程が一貫して再構成されたのである。
『夜の讃歌』や『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』といった著名な文学作品ではなく、むしろ理論的な著述の側に焦点を当てて、詳細に分析するのが本論の特色である。ノヴァーリスが展開した知的活動はすぐれて領域横断的な性格をもち、同時代のさまざまな知を包括しながら、これらに独自の仕方で応答を試みたものである。それゆえ、こうした大きなスケールで展開された知的活動を文学の領域に縮減してしまうなら、その思考の全体像は見失われるほかない。ノヴァーリスの著述における哲学や思想の重要性を一貫して示す作業が不可欠であるし、こうした作業を経ることで、文学作品の創作が重視されるに至った理由もはじめて解明されるのである。
以上の課題に取り組むには、フィヒテやシェリングをはじめとする初期観念論の哲学に対して、ノヴァーリスがどのように応接したかが重要となる。ノヴァーリスが展開した思考は、初期観念論の強烈なインパクトの下で成立したからである。ただし、両者の関係は複雑に入り組んでいる。それゆえ、こうした関係を正確に把握するために、1)〈受容〉、2)〈発展〉、3)〈超克〉という三つの観点を導入して、詳細な分析を行った。第一に、ノヴァーリスはフィヒテの知識学やシェリングの自然哲学がもたらした成果を積極的に受容した。第二に、発生的演繹をはじめとして、これらの哲学の核となる方法を独自の発展へと導いた。そして第三に、諸学問の包括的な体系化のプロジェクトを展開しながら、哲学を経験や歴史の側へと開くことで、フィヒテとシェリングを超克しようと試みたのである。
本論における基本的な狙いについては以上として、次に本論の内容説明に移りたい。大きく分けて、本論は前編「ノヴァーリス思想の成立―『フィヒテ研究』(95/6年)」と、後編「ノヴァーリス思想の展開―『ヘムステルホイス研究』(97年)から『一般草稿』(98/9年)へ」に区分される。
前編では、『フィヒテ研究』という初期の手稿群を分析しながら、ノヴァーリスの哲学的思考の形成過程を再構成する。第1章でこの膨大な手稿群への導入を行ったのちに、第3章でその本格的な分析を試み、全容を明らかにする。これと並行して、第2、4、5章では、『フィヒテ研究』の成立に大きな影響を与えた『全知識学の基礎』の詳細な分析を行い、この著作の全体像を提示した。最後に第6、7章では、フィヒテとノヴァーリスを比較検討しながら、両者の思考の特質を明らかにすることで、前編の内容が総括される。
フィヒテや同時期のシェリングにおいては、根本原理からの演繹に基づいて体系構想が展開されたのに対し、ノヴァーリスはそうした構想が抱えている問題点を鋭く指摘する。しかし、単なる懐疑主義的な立場から異議申し立てが行われたわけではない。発生的演繹を方法として確立し、意識の無限な進展の運動を導出することが『フィヒテ研究』におけるノヴァーリスの狙いだったのである。
こうした意識の運動を駆り立てる出発点となるのは自己感情である。これは自我が受け止めるほかない出来事であり、原‐受動性である。この感情が反省を喚起し、呼び起こされた反省が感情を対象化することで、経験的意識が産出される。この発生の運動に続くのは遡行の運動である。反省は対象化される以前の感情へと向かい、発生の現場を取り押さえようとするからである。ところが、その瞬間に、感情はふたたび反省によって対象化され、新たな経験的意識が発生する。
発生と遡行を反復しながら、以上の運動は絶対的自我へとむかって無限に進展し続けてゆく。ここから導き出される帰結とは、意識による絶対的自我の把握不可能性である。ところが、もうひとつの帰結の方がより重要である。この一連の過程をとおして、意識はその母胎である意識以前的なものとの関係を次々に組み替えてゆく力をもつ。こうした関係が再編されるたびに、潜在していたものが現実化され、新しい認識が生成して、意識はより豊かな内容を獲得するようになる。意識の無限の進展とは、所与の根源的事実を引き受け、そこに内在するポテンシャリティーを漸進的に展開する運動であり、ひいては、展開された多様性を有機的な統一の内部へと組み込み、知のネットワークを不断に創出し続けてゆく運動なのである。
98年から翌99年にかけて執筆された膨大な省察群では、『フィヒテ研究』で確立された原理的な枠組が現実のさまざまな領域に適用される。これは独自に練り上げられた超越論哲学の成果を、生や歴史の側へと開いてゆく過程ともなる。その諸相を詳細に分析するのが後編での狙いである。
まず、第1部「学知の体系化をめぐって―エンチュクロペディー構想の成立」では理論に関わる領域に、第2部「プラクシスの問題をめぐって―『さまざまな断章集のための準備稿』、『信仰と愛』(98年)を中心に」では、実践に関わる領域にそれぞれ焦点が当てられる。
第1部では、第1、2章において、学知を領域横断的に体系化するエンチュクロペディー構想がどのように生成したのか、その過程が究明される。そののち、第3章では、『フライベルク自然科学研究』や『一般草稿』を詳細に読解し、当構想を貫く基本的な枠組が再構成される。さらに、末尾に付した補論では、自然の問題をめぐるノヴァーリスの思考をシェリングと比較検討し、前者の独自性を明確化する作業につとめた。
諸学問はいずれも、哲学を頂点とする階層構造の内部に位置づけられるため、これらの学の体系化は哲学という最高の学を目指して、垂直的な方向にむかって推し進められる。と同時に、これらの学は不可分に関連しているため、ある学における発展は別の学に、さらにまた別の学に波及して、こうした相互移行が水平的に展開される。これらの対立する運動が両輪となって駆り立てられることで、理念と経験が総合され、有機的な統一に基づく体系が諸学問のあいだに形成されるのである。ただし、こうした体系化は永続的な完成の過程にとどまるため、その終極に出現する諸学問の有機的な統一は統制的理念でしかありえない。
諸学問のこの体系化の過程においては、真理のありかへとむかって自己を方向づける潜在知が重要な役割を果たしている。この潜在知を現実化することで新たな仮設を見出し、この仮設を経験的な領域に適用することで、その吟味、修正を図る。学問の枠組をラディカルに更新する大胆な仮設を立てる一方で、できるだけ多くのデータを収集して仮設を修正し、学問の探究を推し進めてゆける者ほど創造的なのである。
さらに第2部では、『さまざまな断章集のための準備稿』や『信仰と愛』といった著作群に依拠しながら、実践に関わる領域を究明する。第1章で、世界における人間の生が原理的な視点から分析されたのちに、以降の各章ではその諸相に光が当てられる。第2章では〈日常〉の生、第3章では〈知覚〉、〈身体〉、〈道具〉、第4章では〈国家〉、第5章では〈芸術〉といった具体的なテーマを取り扱い、第1章で論じた枠組がこれらの具体的な領域にどのように適用されたか、を詳細に解明している。
身体に内包されたポテンシャリティーは、生の経験的な領域においては、ごくわずかな部分しか現実化されていない。それゆえ、このポテンシャリティーを意識化し、現実化しながら、自我が世界と関わる仕方を変容することが目指される。その際に重要な役割を果たすのが道具である。身体に道具を接続することで、こうした現実化の過程のさらなる拡張が可能となるからである。知覚、身体、道具というさまざまな媒体をとおして、自己と世界の関係をより豊かに創造し直すことがノヴァーリスの追究した課題なのである。
さらに、他者の問題も重要なテーマとなる。自我とはさまざまな他者との関係によって編まれた織物である。相互主観性の枠組が論じられるにあたって、こうした大胆な発想がその基盤となる。自己に宿る未知のポテンシャリティーが現実化されるとき、自我は自らの内部に知られざる他者を見出し、自己の生を変容させている。自らの内により多くの他者を開き、そうした他者との関係を生きる者だけが自己の生をより豊かにできるし、現実世界においても、他者との創造的な関係を取り結ぶことができるのである。
以上の論述をとおして、次の結論が示される。ノヴァーリスを含む初期ロマン派においては、〈つくる〉こと、〈制作する〉ことが人間の活動の本質であると見なされる。こうした人間観に基づいて、理論および実践の根柢につくる活動が認められるとき、両者は生き生きとした創造性を内包し始める。知は創造的認識へと変容し、行為は自己創造性に基づく倫理へと接近する。これはおのずと、芸術創作が理論と実践に対して規範を与えるという枠組に結びつく。生の芸術化が重要な目標として浮上するのはこのためである。ノヴァーリスによって特権視されたのは文学であり、とりわけ長編小説である以上、長編小説を書くことが自己の生の理想的な実現と見なされたのは必然的な帰結であった。
ノヴァーリスという卓抜な知性を育む揺籃となったのは、実践理性の優位を核心とするカントやフィヒテの哲学である。こうした哲学の受容から出発しつつも、人間を〈ポイエーシス的存在〉と見なす洞察がしだいにその思想の根柢を形づくってゆく。本論では、こうした過程が一貫して再構成されたのである。