本論文は、皇位継承儀礼や神祇祭祀(伊勢神宮・アマテラス関連のもの)の分析を通じ、大化前代から中世初期(院政期)にかけての天皇権威の変化を論じるものである。
 本論文は四つのテーマを取り上げ天皇権威の分析を試みた。第一に天皇の邸宅(宮)に関わる祭祀(「宮中鎮守祭祀」と定義する)である。「宮中鎮守祭祀」とは宮中で邸宅に関わる神を祭り、あるいは邸宅を鎮め、邸宅の住人の身体を間接的に護る祭祀の総称である。第二に皇位継承儀礼であり、特に儀礼の場で使用される宝物に注目する。第三に伊勢斎王制度である。これは天皇が未婚皇女を伊勢神宮に奉仕させる制度である。第四に神鏡祭祀である。これは主に摂関期以降に神聖視され、後に「三種の神器」の一つとなる神鏡に対する祭祀である。
 序章「古代天皇の権威を巡る先行研究と課題」では、古代から中世初期にかけての天皇権威、及び四テーマに関わる先行研究を整理し問題点を指摘した上で、四つの問題視角を提示した。問題視角の第一は律令制下における国家的な行事に加え、ヤマト政権以来の天皇個人に関わる内廷的な行事をも検討すること、第二は九世紀以前の天皇権威のあり方と摂関・院政期のそれとの接続、第三に摂関・院政期の行事について、天皇の個人的祭祀に加え、近年重視されるようになった、前代以来の律令的祭祀を検討すること、第四に天皇の宗教的権威の構築と受容のあり方を見極めること、の四つである。本論文では四テーマと四つの問題視角に基づき天皇権威の分析を試みた。
 第一部「律令制下の神祇祭祀と天皇」では、大化前代を視野に入れつつ主に奈良時代から平安時代前期(九世紀頃)の天皇権威を分析した。
 第一章「日本古代における宮中鎮守祭祀の構造―御巫・宮主・戸座・忌部を中心に―」では、律令制下の宮中鎮守祭祀が前代以来の内廷的祭祀と、律令制下で新たに整備された国家的祭祀とから成ることを論じた。前者は神祇官に所属する伝統氏族が古くから奉仕するもので、宮主(卜部)による宅神祭祀、戸座による竈神祭祀、忌部による鎮祭などが該当する。これらの祭祀は新嘗との関係が強く、律令制下でも前代のあり方が継承された。一方、国家的祭祀として班幣祭祀を主とする宮中神祭祀が行われた。宮中神とは伝統氏族が祭っていた神々を官社として神祇官に祭ったもので、神祇官の巫らによって祭られた。官社としての宮中神や、それを祭る巫らは、持統朝までの神祇官整備と連動する形で生まれたと考えられる。
 第二章「平安時代前期の斎宮寮と伊勢神郡」では、平安時代前期(光仁~仁明朝頃)の斎宮寮(斎王を支えた官司)を論じた。伊勢斎王制度は方格街区が整備されるなど平安時代初期に発展を見せ、斎宮寮は行財政面で伊勢国司と太神宮司(伊勢神宮)との関係を構築した。しかし、伊勢国司と太神宮司は、神郡百姓に対する行政権・斎宮費用の負担を巡って対立を見せた。そこで、淳和天皇は斎宮を離宮院(太神宮司の在る場所)に遷し、方格街区を放棄し、神郡情勢の鎮静化と斎宮費用の削減を図った(この狙いは次の仁明朝で失敗に終わる)。天皇権威を象徴する方格街区の放棄は、積極的に伊勢神宮=アマテラスに依存するというそれまでの方針が改められたことも示しており、この時期に天智系皇統が安定化し、天皇の地位が確立したことを受けたものと考えられる。
 第三章「日本古代の大刀契観と皇位継承儀礼」では、大刀契と呼ばれる宝物を再検討した。従来の研究では大刀契という宝物の時代差を充分に意識せず、その構成宝物も正確に把握されていないが、「大刀契」とは基本的に大刀櫃・契櫃という二つの櫃の総称であり、櫃の中身が時期によって変化していたことが判明した。そして、大刀契が「伝国璽」と呼ばれたのは大刀櫃の護身剣に由来するもので、平城朝以降、中国後漢時代の宝物(剣・璽)を参考にする形で、伝国璽(護身剣)と神璽から成る剣璽渡御が開始された。その一方、奈良時代の皇位継承儀礼で行われていた鏡剣献上儀礼は大嘗祭に移され、仁明朝以降停止されてしまう。これにより、天皇は神的権威に彩られた宝物ではなく、神話と無関係な二つの璽によって皇位を継承できるようになった。その後、鏡剣献上儀礼の停止を受け、次第に護身剣よりも宝剣が重視されるようになり、宝剣と神璽とを渡御する剣璽渡御が成立し、大刀契はその実態が次第に忘れ去られ、その理解も混乱を重ねていくことになった。
 第二部「摂関・院政期の神祇祭祀と天皇」では、平安時代前期以前との接続を意識しつつ、主に摂関・院政期の天皇権威を分析した。
 第一章「平安時代中後期の神鏡を巡る祭祀・信仰」では『諸道勘文 神鏡』という新史料を活用し、神鏡の神聖化の様子、神鏡祭祀の構造・成立過程を論じた。神鏡は摂関・院政期にかけて神聖化が進んでおり、神鏡祭祀についても代始の御供・例供が後一条朝・後朱雀朝に整備され、内侍所御神楽も後朱雀朝に天皇祭祀となり院政期に完成したことを明らかにした。このような神鏡の神聖化を踏まえ、後鳥羽朝で「三種の神器」観が生じたのであり、神鏡=アマテラスは天皇の信仰対象として、伊勢神宮に並ぶ位置づけを獲得することとなった。
 第二章「平安時代の里内裏と宮中鎮守祭祀の変質」は第一部第一章の続篇であり、宮中鎮守祭祀が摂関・院政期にどのように変化したかを論じた。律令制下の国家的な宮中神祭祀は、次第に御巫によって祭られる八神を中心とするようになり、班幣祭祀も伊勢神宮中心に再編される。これらの国家的祭祀は大内裏(跡)で行われ続けるので、天皇の邸宅を護る実質的な役割を喪失するものの、律令制の中心的・象徴的な部分を継承するという形で天皇の宗教的権威を支える役割を果たした。これに対し、律令制下における内廷的祭祀の対象となった内膳司の御竈神や、平安時代に神聖化が進む神鏡は、(里)内裏空間を鎮守する神となっていく。このうち、御竈神は神祇官・太政官に支えられていたが故に、院政期以降衰退していくが、神鏡は内侍所・蔵人所という新たな天皇の内廷官司に支えられており、発展していく。(里)内裏空間は神鏡=アマテラスによって守護される空間となり、これもまた天皇の宗教的権威を示すものであった。
 第三章「摂関・院政期の伊勢神郡と斎王制度」は第一部第二章の続篇であり、摂関・院政期における伊勢斎王制度を論じた。十世紀以降の伊勢神郡の増加等により斎宮財政は伊勢神宮や大中臣氏との結びつきを強め、十二世紀末頃までに斎宮財政は伊勢神宮財政に吸収される。この中で斎宮寮関係者は大中臣氏ら伊勢神宮勢力との協調関係を構築し、斎宮寮を主導する立場にも拘わらず私利を追求する斎宮頭等を、祭主等と結託して排除し、あるいは伊勢神郡・神宮の支配を拡大し、斎宮寮とも結びつくようになった祭主を、特定の大中臣氏や神宮の下級神職と結託して排除しようとした。この背景には伊勢神宮・伊勢斎王制度を重視しつつも、斎宮運営には関心を示さず現地勢力に委任してしまう朝廷の姿勢があった。
 第四章「「三種の神器」観の成立過程」では第一部第三章・第二部第一章の成果を踏まえ、「三種の神器」観の成立過程を詳細に論じた。本稿でいう「三種の神器」観とは神鏡・宝剣・神璽という三宝物をセットで捉え、その起源を神代に求める(記紀の降臨神話に登場する鏡・剣・玉と関連づける)神器観である。本章では皇位継承儀礼と神話の両者を総合的に検討した上で、この問題に取り組んだ。結論は多岐にわたるが、宝物・神話に関わる範囲で簡単にまとめる。まず、奈良時代以前の皇位継承儀礼・宮中の宝物は鏡・剣の二種とみられる。平安時代前期に中国風の宝物(神璽)が導入されたものの、鏡・剣と異なり神話との関係が見出せない。ところが、摂関期以降、神璽を神聖視する理解が登場し、平氏の都落ちで三宝物が持ち出されると、後鳥羽天皇は宝物無しで践祚した。その践祚に際し、三宝物の来歴が同時に勘申され『日本書紀』等が再解釈される中で、神璽=玉観や「三種の神器」観が成立する。壇ノ浦の戦いで宝剣が失われ、神鏡・神璽が帰還するが、順徳朝で伊勢神宮由来の剣を採用することで「三種の神器」観が完成する。このようにしてアマテラスに関わる三宝物という宗教的権威によって、天皇はその地位を強く保障されるようになった。
 補論一「内侍所御神楽に関する部類記の整理・写本系統」では、平安時代の実例を含む内侍所御神楽に関わる部類記の写本系統を検討した。近年は東山御文庫所蔵『内侍所御神楽部類記』(勅封126-7)が利用されることが多いが、前田育徳会尊経閣文庫所蔵『内侍所御神楽部類記』(一冊目)が最善本であり、そこに未翻刻・未活用の院政期の史料が多く含まれることを指摘した。
 補論二「摂関・院政期の内侍所御神楽」は第二部第一章の補論である。補論一で検討した部類記を活用し、内侍所御神楽の創始(一条朝)から鎌倉時代初めまでの全事例を抽出し、第二部第一章および従来の研究成果を統合しつつ、内侍所御神楽の成立・変遷を通史として叙述した。摂関・院政期を通じて内侍所御神楽が発展していく過程を明確にした。
 終章「宗教的権威から見た古代天皇」では各章の結論を統合し、天皇の変化を通史的に論じた。天皇権威のあり方、天皇と伊勢神宮・アマテラスとの関係は時代によって異なっており、古代(特に奈良時代)においては天皇の地位が未確立であるため、天皇側が宗教的権威の積極的な普及を図ったもののその受容が充分とは言えない一方で、天皇の地位が確立した中世では、天皇などが前代以来の天皇の地位を維持するため意図的に、あるいは天皇個人の信仰を前提とする形で自然に、天皇の地位を保障する宗教的権威が生み出され、積極的な普及策が講じられていないにも拘わらず、その受容層を拡大させたと論じた。