幕末以来、近代国際社会に巻き込まれた日本において、西洋という他者との出会いは、人々の政治環境、経済生活、精神、風俗を含めた生活のあらゆる側面に大きな変化をもたらした。その変化は多くの場合、「文明化」というテーマとして論じられてきた。本論文は、それを肯定的に捉える啓蒙的なアプローチと、そこにおける抑圧性を告発する国民国家論的叙述をどのように批判し、乗り越えるかというところから、お歯黒という風俗事象を対象に読み解いた。具体的には、明治期における染歯習俗の衰退過程に、行政と知識層による啓蒙と教化、経済活動、地域社会の生活という三つの異なる次元からアプローチし、人々が「文明」の価値をどのように理解し受け入れてきたのか、国民国家の形成における諸原理がどのように人々をその中に取り込んだのかについて考察し、この「文明化」の過程やそこにおける民衆の捉え方を検討するのが本論の目的である。
第一章では、行政や「お歯黒廃止論」の推進役になった知識層の論理と行動に主眼を置き、民衆がこうした「啓蒙」を通じて「文明」を受容する、あるいは「国民国家」に取り込まれる過程を描き出した。
明治初期、公家の在り方への批判から出発し、皇族・公卿を対象とした「染歯禁令」が出された。「開化」を志向した啓蒙家や新聞の投稿者は、染歯習俗を「開化」と対立するものと捉え、それを政令で禁止しようとする要求も民衆からあらわれたが、政府は一般女性の染歯習俗に対して積極的に介入する意思が薄かった。
明治十年代に入ると、これまで人体に害がないとされてきた染歯習俗は、近代歯科医学の展開にともない、洋方歯科医からの批判に晒された。歯科医をはじめとする「開化」を目指す知識層の間で染歯禁令をよびかける声が高まる一方で、民権派の雑誌には、人民の意志を代表する政府が民の好む風俗であるお歯黒を禁止することの妥当性についての議論も現れた。しかし、最終的に法的に女性の染歯慣習を禁止する規制は設けられなかった。一部の地方衛生行政の介入が「染歯慣習の廃止」に正当性を付与しただけのことである。
お歯黒の廃止を積極的に動きかけたのは、歯科医と婦人啓蒙を志向した知識層である。西洋歯科医学の観点からのお歯黒有害論と有益論の両方が存在する中で、洋方歯科医は歯科医学を「文明」の枠内に位置づけることを目指し、お歯黒の廃絶を緊要の問題と捉える時潮に便乗して、お歯黒有害論を都合のよいように選択した。彼らは「国民国家」の形成に対する歯科医の役割の自覚に基づき、染歯習俗の廃絶を自らの責任と捉え、それが衛生上如何に有害であるのかについて論説し、また多様な普及活動を行い、お歯黒有害論を広めるうえで画期的な役割を担ってきた。一方で、歯科医によるお歯黒有害論は、東京婦人矯風会をはじめ、各地に組織された他のキリスト教系婦人会や、私立大日本婦人衛生会、仏教系統の婦人会に都合のよい「論理」を提供することになった。彼らは女性の「国民国家」上の役割を強調することで、「衛生・経済・便利」という近代的合理主義ないし啓蒙イデオロギーを用いてお歯黒廃止論に疑似科学的な装いをまとわせ、日本婦人へお歯黒廃止を動きかけた。
こうした動きを受け、お歯黒廃止を「文明」として受容し、お歯黒をやめたり、染歯習俗を否定的捉えたりする動きが多くなるなかで染歯習俗が衰退していく一方、お歯黒商売は新たな展開をみせた。第二章では、経済活動という側面から染歯習俗の変貌過程を跡付けながら、その担い手であるお歯黒業者はこの衰退過程において具体的にどのようにお歯黒女性の消費意欲を煽ぎ、どのような商売活動を展開したのか、「野蛮」とされた染歯習俗に根差した商売をする業者が、国民国家の形成を課題として駆使された「啓蒙言説」に対してどのような主体的な行動をとってきたのかを検討した。
啓蒙知識層や一部の府県の衛生行政は、歯を染めることが衛生上有害であることを根拠としたお歯黒廃止論を主張してきたが、薬品の安全性を確保するための売薬行政では、歯を染めるための商品を「無害」の商品として承認し、その販売を許した。近代化の波に乗ったお歯黒業者は、染歯女性の需要に応じて、売薬行政によって承認された「無害」で経済的、便利な商品を開発し、広く販売活動を展開した。商品を販売促進する際に、お歯黒業者は同時期におけるお歯黒批判を染歯習俗への批判としてではなく、従来のかね水を用いた染方への批判へと切り替えて、逆に啓蒙知識層の啓蒙言説を用いて、「衛生・経済・便利」との観点から従来の歯の染方との差別化を図ることで、消費者の改良お歯黒商品の購買意欲をかき立てようとした。彼らはこの近代秩序の再編や染歯習俗の衰退の危機をチャンスに変えようとして、新たな歯の染め方を提案し、啓蒙知識人の知的態度を逆手に取り、新時代の人々に染歯習俗の価値を訴えたのである。
第二章では、単に啓蒙言説が民衆の間に根を落としたというシンプルな衰退過程ではなく、お歯黒商品を通して「衛生・経済・便利」などの近代的価値を獲得した土俗的身体と、啓蒙活動を規範とした欧米的身体とが鋭い緊張関係をはらみながら並存し、やがて後者の優位が確立してくという衰退過程が見えてきた。
第三章では、人類学会における染歯習俗の研究、特に明治三十年代の「お歯黒調査活動」に応じて寄せられた調査報告の中で、郷土出身者たちの目によって調査・記録された、地域社会での生活におけるお歯黒のあり方の変化を考察した。村々の女性たちは、黒い歯の女性の「美」が唄われた歌声のなかで、小児から少女へ、そして一人前の女性あるいは新婦、母へ成長していく。染歯習俗は女性の人生のそれぞれの段階において通過儀礼となり、誇りある装飾の役割を果たしていた。第一章で見た歯科医が普及しようとした「お歯黒有害論」とは反対に、女性たちは自身の経験に基づき、歯を染める材料を「無害有効」と認識していた。
伝統的地域社会での染歯習俗の衰退の要因を追ってみると、そこでの生活がなし崩し的に破壊されたことも事実であるが、それは法的規制や知識層の「啓蒙」といった「抑圧」によるものではなく、村の女性たちが変化する時代の中で、染歯習俗をめぐる変化を「当世の風潮」、「新奇の流行」と捉え、自らその変化に応じて歯を染めないという選択をしたのである。第三章では、行政や知識層の啓蒙による風俗の「文明化」とは異なる、地域社会の生活の次元における染歯習俗の衰退過程が垣間見ることができた。
終章では、まず染歯習俗の衰退過程を①行政や知識層による「文明化」あるいは「国民国家化」の過程、②お歯黒商品を通じて文明的価値を獲得した染歯習俗と「文明化」との葛藤の過程、③外部から押し寄せる変化に「好奇心」をもって柔軟に受け入れる地域社会の生活の次元における衰退過程、という時期的に並行しており、相互に関連している三つの異なる文脈からまとめ、国民国家論の抑圧性を軸にした民衆論の相対化を試みた。特に、お歯黒業者やお歯黒商品の消費者、地域社会に生きた人々のあり方を描くことで、「文明化」の底に実在している民衆の膨大な生活の論理の一端を提示してみた。
次に明治期における在来の世相風俗の変容過程を、(一)在来社会の秩序の一部としての生活習慣の近代化の過程、(二)公衆道徳の欠如の表れとされてきたものの近代化の過程、(三)「権力の統制があいまいとなる周縁的」次元に豊かに存在する民俗事象の近代化の過程とに分けて考察した。そして(一)の事例として比較的早く廃れた染歯習俗と、(二)の事例として最後まで残った入れ墨について、これらが明治期においてたどる過程を比較した。明治初期、両者ともに、外国人に対して恥ずべき行為であり、両親から受け継ぐ身体を毀損する行為といった理由で廃止が説かれるようになった。政府は一般女性の染歯習俗に対して積極的に介入する意思が薄く、法的に女性の染歯習俗を禁止する規制は最後まで設けられなかったが、入れ墨に対しては、明治五年の「市中風俗取締」と明治五年十一月の「東京違式詿違条例」から、明治四十一年の警察犯処罰令まで、厳しく取り締まっている。幕末から日本に訪れた外国人たちは、黒い歯に対する激しい嫌悪感を隠さずに表現していたが、一方で和彫りの技術の高さや入れ墨の紋様を高く評価した。外国人の目線はお歯黒廃止の主な根拠となったが、とりわけ英国皇孫滞日中の入れ墨が民権派による「入れ墨の禁を解く可否」との議論を引き起こした。染歯習俗が急速に衰退した背景には、お歯黒の廃止を積極的に推進した行政と啓蒙家と、お歯黒存続論を主張する歯科医や啓蒙家の論理を逆手に新たな歯の染め方を提案した歯黒業者との対立があったが、明治三十年代に入るとお歯黒をする女性が激減し、ついに見られなくなった。これに対して、入れ墨に関しては、否定的な姿勢でそれを抑えようとする動向しか見られないものの、容易に制御することができず、安定的に行われ続けた。「国民国家」に取り込まれる出世の道が閉ざされた無職者たちは、入墨が「不埒」な行為であるという認識に抵抗せず、むしろそれを受け入れて、その抑圧を加えようとする力に対して断固拒否する姿勢として入れ墨を施していたのである。
最後に、その対照性から見出した論点を深め、「束髪」や「洋服」の近代化過程も視野に入れて染歯習俗と比較することで、「文明化」という問題を深めることができるとまとめ、今後の課題を展望した。
第一章では、行政や「お歯黒廃止論」の推進役になった知識層の論理と行動に主眼を置き、民衆がこうした「啓蒙」を通じて「文明」を受容する、あるいは「国民国家」に取り込まれる過程を描き出した。
明治初期、公家の在り方への批判から出発し、皇族・公卿を対象とした「染歯禁令」が出された。「開化」を志向した啓蒙家や新聞の投稿者は、染歯習俗を「開化」と対立するものと捉え、それを政令で禁止しようとする要求も民衆からあらわれたが、政府は一般女性の染歯習俗に対して積極的に介入する意思が薄かった。
明治十年代に入ると、これまで人体に害がないとされてきた染歯習俗は、近代歯科医学の展開にともない、洋方歯科医からの批判に晒された。歯科医をはじめとする「開化」を目指す知識層の間で染歯禁令をよびかける声が高まる一方で、民権派の雑誌には、人民の意志を代表する政府が民の好む風俗であるお歯黒を禁止することの妥当性についての議論も現れた。しかし、最終的に法的に女性の染歯慣習を禁止する規制は設けられなかった。一部の地方衛生行政の介入が「染歯慣習の廃止」に正当性を付与しただけのことである。
お歯黒の廃止を積極的に動きかけたのは、歯科医と婦人啓蒙を志向した知識層である。西洋歯科医学の観点からのお歯黒有害論と有益論の両方が存在する中で、洋方歯科医は歯科医学を「文明」の枠内に位置づけることを目指し、お歯黒の廃絶を緊要の問題と捉える時潮に便乗して、お歯黒有害論を都合のよいように選択した。彼らは「国民国家」の形成に対する歯科医の役割の自覚に基づき、染歯習俗の廃絶を自らの責任と捉え、それが衛生上如何に有害であるのかについて論説し、また多様な普及活動を行い、お歯黒有害論を広めるうえで画期的な役割を担ってきた。一方で、歯科医によるお歯黒有害論は、東京婦人矯風会をはじめ、各地に組織された他のキリスト教系婦人会や、私立大日本婦人衛生会、仏教系統の婦人会に都合のよい「論理」を提供することになった。彼らは女性の「国民国家」上の役割を強調することで、「衛生・経済・便利」という近代的合理主義ないし啓蒙イデオロギーを用いてお歯黒廃止論に疑似科学的な装いをまとわせ、日本婦人へお歯黒廃止を動きかけた。
こうした動きを受け、お歯黒廃止を「文明」として受容し、お歯黒をやめたり、染歯習俗を否定的捉えたりする動きが多くなるなかで染歯習俗が衰退していく一方、お歯黒商売は新たな展開をみせた。第二章では、経済活動という側面から染歯習俗の変貌過程を跡付けながら、その担い手であるお歯黒業者はこの衰退過程において具体的にどのようにお歯黒女性の消費意欲を煽ぎ、どのような商売活動を展開したのか、「野蛮」とされた染歯習俗に根差した商売をする業者が、国民国家の形成を課題として駆使された「啓蒙言説」に対してどのような主体的な行動をとってきたのかを検討した。
啓蒙知識層や一部の府県の衛生行政は、歯を染めることが衛生上有害であることを根拠としたお歯黒廃止論を主張してきたが、薬品の安全性を確保するための売薬行政では、歯を染めるための商品を「無害」の商品として承認し、その販売を許した。近代化の波に乗ったお歯黒業者は、染歯女性の需要に応じて、売薬行政によって承認された「無害」で経済的、便利な商品を開発し、広く販売活動を展開した。商品を販売促進する際に、お歯黒業者は同時期におけるお歯黒批判を染歯習俗への批判としてではなく、従来のかね水を用いた染方への批判へと切り替えて、逆に啓蒙知識層の啓蒙言説を用いて、「衛生・経済・便利」との観点から従来の歯の染方との差別化を図ることで、消費者の改良お歯黒商品の購買意欲をかき立てようとした。彼らはこの近代秩序の再編や染歯習俗の衰退の危機をチャンスに変えようとして、新たな歯の染め方を提案し、啓蒙知識人の知的態度を逆手に取り、新時代の人々に染歯習俗の価値を訴えたのである。
第二章では、単に啓蒙言説が民衆の間に根を落としたというシンプルな衰退過程ではなく、お歯黒商品を通して「衛生・経済・便利」などの近代的価値を獲得した土俗的身体と、啓蒙活動を規範とした欧米的身体とが鋭い緊張関係をはらみながら並存し、やがて後者の優位が確立してくという衰退過程が見えてきた。
第三章では、人類学会における染歯習俗の研究、特に明治三十年代の「お歯黒調査活動」に応じて寄せられた調査報告の中で、郷土出身者たちの目によって調査・記録された、地域社会での生活におけるお歯黒のあり方の変化を考察した。村々の女性たちは、黒い歯の女性の「美」が唄われた歌声のなかで、小児から少女へ、そして一人前の女性あるいは新婦、母へ成長していく。染歯習俗は女性の人生のそれぞれの段階において通過儀礼となり、誇りある装飾の役割を果たしていた。第一章で見た歯科医が普及しようとした「お歯黒有害論」とは反対に、女性たちは自身の経験に基づき、歯を染める材料を「無害有効」と認識していた。
伝統的地域社会での染歯習俗の衰退の要因を追ってみると、そこでの生活がなし崩し的に破壊されたことも事実であるが、それは法的規制や知識層の「啓蒙」といった「抑圧」によるものではなく、村の女性たちが変化する時代の中で、染歯習俗をめぐる変化を「当世の風潮」、「新奇の流行」と捉え、自らその変化に応じて歯を染めないという選択をしたのである。第三章では、行政や知識層の啓蒙による風俗の「文明化」とは異なる、地域社会の生活の次元における染歯習俗の衰退過程が垣間見ることができた。
終章では、まず染歯習俗の衰退過程を①行政や知識層による「文明化」あるいは「国民国家化」の過程、②お歯黒商品を通じて文明的価値を獲得した染歯習俗と「文明化」との葛藤の過程、③外部から押し寄せる変化に「好奇心」をもって柔軟に受け入れる地域社会の生活の次元における衰退過程、という時期的に並行しており、相互に関連している三つの異なる文脈からまとめ、国民国家論の抑圧性を軸にした民衆論の相対化を試みた。特に、お歯黒業者やお歯黒商品の消費者、地域社会に生きた人々のあり方を描くことで、「文明化」の底に実在している民衆の膨大な生活の論理の一端を提示してみた。
次に明治期における在来の世相風俗の変容過程を、(一)在来社会の秩序の一部としての生活習慣の近代化の過程、(二)公衆道徳の欠如の表れとされてきたものの近代化の過程、(三)「権力の統制があいまいとなる周縁的」次元に豊かに存在する民俗事象の近代化の過程とに分けて考察した。そして(一)の事例として比較的早く廃れた染歯習俗と、(二)の事例として最後まで残った入れ墨について、これらが明治期においてたどる過程を比較した。明治初期、両者ともに、外国人に対して恥ずべき行為であり、両親から受け継ぐ身体を毀損する行為といった理由で廃止が説かれるようになった。政府は一般女性の染歯習俗に対して積極的に介入する意思が薄く、法的に女性の染歯習俗を禁止する規制は最後まで設けられなかったが、入れ墨に対しては、明治五年の「市中風俗取締」と明治五年十一月の「東京違式詿違条例」から、明治四十一年の警察犯処罰令まで、厳しく取り締まっている。幕末から日本に訪れた外国人たちは、黒い歯に対する激しい嫌悪感を隠さずに表現していたが、一方で和彫りの技術の高さや入れ墨の紋様を高く評価した。外国人の目線はお歯黒廃止の主な根拠となったが、とりわけ英国皇孫滞日中の入れ墨が民権派による「入れ墨の禁を解く可否」との議論を引き起こした。染歯習俗が急速に衰退した背景には、お歯黒の廃止を積極的に推進した行政と啓蒙家と、お歯黒存続論を主張する歯科医や啓蒙家の論理を逆手に新たな歯の染め方を提案した歯黒業者との対立があったが、明治三十年代に入るとお歯黒をする女性が激減し、ついに見られなくなった。これに対して、入れ墨に関しては、否定的な姿勢でそれを抑えようとする動向しか見られないものの、容易に制御することができず、安定的に行われ続けた。「国民国家」に取り込まれる出世の道が閉ざされた無職者たちは、入墨が「不埒」な行為であるという認識に抵抗せず、むしろそれを受け入れて、その抑圧を加えようとする力に対して断固拒否する姿勢として入れ墨を施していたのである。
最後に、その対照性から見出した論点を深め、「束髪」や「洋服」の近代化過程も視野に入れて染歯習俗と比較することで、「文明化」という問題を深めることができるとまとめ、今後の課題を展望した。