日本漢字音の研究は、呉音の使用を規範とする仏典や、漢音の使用を規範とする漢籍を対象として、年代の古い訓点資料・音義等にみられる音形を分析することが、主として行われてきた。しかし、学問的な場面ではなく、より日常的な言語生活の場面において広く使用されていたであろう漢字音(日常漢字音)については、直接的な手掛かりが乏しいことから、これまで十分に論じられてこなかった。
 本研究は、中近世、すなわち院政期から江戸時代における日常漢字音について、共時的な実態解明と、その比較による通時的変化の解明を目的とするものである。その考察にあたっては、複数の字音(主として呉音・漢音)を有する字において、一つの字音が優勢になり他の字音を淘汰していくという「漢字音の一元化」現象との関連を重要視する。
 本研究は、三章からなる序論、二部五章からなる本論、結論、付録のリスト三種(「呉音漢音音形対立・特有音形リスト」「『色葉字類抄』『日葡辞書』漢語語形リスト」「「興」音形リスト」)、文献リストから構成される。
 
 序論では、本研究の意義と方法論を具体的に示した。
 序論第一章では、日常漢字音を扱った先行研究を概観して、①各時代における日常漢字音のリストの提示、②呉音漢音の混読現象の実態解明とその背景の考察、③(特に中世における)漢語の語形変化の実態解明とその背景の考察、④通常の「一元化」を経なかった漢字について例外を生んだ背景の解明、という4つの具体的な課題を設定した。
 序論第二章では、日常漢字音の反映が期待される資料について、仮名による字音の付与(以下「付音」)が豊富な文献を中心に、「辞書体資料」「訓点資料」「日本語文資料」に分けて、具体的な資料名を列挙しながら概観した。
 序論第三章では、本論第一部で使用する「呉音漢音音形対立・特有音形リスト」の作成方針と、呉音・漢音を自動的に判定する方法について解説するとともに、清濁のみで対立する字(例:「大」呉音ダイ/漢音タイ)のように、中近世において十分に弁別的な対立であったのかが問題となる字種について、本研究における処理の方法を論じた。
 
 本論は、三章七節からなる第一部「総体的研究」と、二章からなる第二部「個別的研究」とで構成される。第一部には、定量的見地から一定の漢字・漢語集合を分析した論考を配し、第二部には、事例研究として個別の漢字を取り上げて字音史とその背景を分析した論考を配した。以下に、本論各章の要旨を記述する。
 
 第一部第一章「中世末日常漢字音の数量的概観」では、①付音が網羅的である、②一字に一音のみを付与する、③呉音と漢音とを混用するという三条件を満たす単字字書を利用して、中世末期における日常漢字音の実態解明を試みた。
 第一章第一節では、16世紀の書写とみられる『色葉字平他』大東急記念文庫本(大東急本)・龍門文庫本(龍門本)における漢字音を数量的に概観し、大東急本は龍門本に比して漢音の割合が高いものの、いずれも呉音を交えており、特に両者に共通する呉音形は当時既に「一元化」していた字音と考えられることを論じた。また、両者に共通して、現代の慣用音に通じる音形も多いことを論じた。さらに、龍門本の特徴として、濁点の付与が綿密なこと、オ段/ウ段拗長音の混同が目立つことを、大東急本の特徴として、四つ仮名の混同が目立つことを指摘した。
 第一章第二節では、1598年に刊行されたキリシタン版『落葉集』の「色葉字集」「小玉篇」両篇における漢字音を数量的に概観し、いずれも呉音が55%程度であること、両篇に共通する字種のうち互いに音形が異なる例は1割以下に留まることを明らかにした。また、両篇の字音を、「本篇」の見出し字に呉音・漢音両形が認められる字と照合した結果、両篇に共通する音形は、「本篇」収録漢語における用例数が多い方の音形と一致する例が多く、特に後項よりも前項に現れる音形の多寡が反映されやすいことが明らかになった。
 第一章第三節では、前節までに分析した4資料に共通する字種のうち、呉音・漢音が清濁以外で対立する字について、音形の状況から五つに分類し、「呉音に一元化している漢字」102字、「漢音に一元化している漢字」182字、「呉音が優勢な漢字」60字、「漢音が優勢な漢字」45字、「呉音・漢音が揺れる漢字」56字を具体的なリストとして提示した。また、巨(コ)・犯(ボン)のように、当時は常用的であったと思われるが、現代では使われなくなった音形を具体的に指摘した。
 
 第一部第二章「呉音漢音の混読現象と日常漢字音」では、一般に非規範的なものと考えられている、「言語(漢音ゲン+呉音ゴ)」のような呉音・漢音の混読現象が、中近世を通じてどのように展開したのかを解明し、またその背景について考察した。
 第二章第一節では、『色葉字類抄』と『日葡辞書』の漢語の字音体系を分析し、混読する漢語の割合が約15%から約23%に増加していることを明らかにした上で、その背景について、呉音読・漢音読から混読への変化が「漢字音の一元化」によって説明できることが多いことを根拠に、中世において新たに使用されるようになった漢語が、一元化した日常漢字音で読まれることが多くなったという事情を推定した。
 第二章第二節では、『日本語歴史コーパス』を利用して、キリシタン資料・虎明本狂言・近松浄瑠璃・洒落本・人情本の呉音・漢音を計量的に概観し、近世においては、異なり字数では明瞭でないものの、延べ用例数においては漢音が伸張していることを確認した。また、混読語の増加は、異なり語数が延べ語数に先行することを指摘し、その背景として、近世前期に混読語の種類が増加し、近世後期には使用頻度も高まるという事情を推定した。付随的に、虎明本狂言では、漢字表記された語は、仮名書きの語に比して呉音読語が目立つことが明らかとなった。
 
 第一部第三章「漢語の語形変化と日常漢字音」では、混読され得る漢語だけでなく、全ての漢語を対象に、複数の語形がみられる漢語を抽出し、語形変化の方向性と、その背景について考察した。
 第三章第一節では、『色葉字類抄』と『日葡辞書』の間における漢語の語形変化の事例として、呉音→漢音73例、漢音→呉音59例を指摘し、それらを第一章第三節のリストと照合した結果、7割程度は「呉音/漢音に一元化している漢字」または「呉音/漢音が優勢な漢字」に収まることを明らかにした。そして、一元化で説明できない語形変化について、頭(ヅ)・下(ゲ)といった一字漢語の存在が、「頭巾(トキン→ヅキン)」「下愚(カグ→ゲグ)」などの語形変化に影響している可能性を指摘した。また、呉音漢音の交替以外の語形変化についても全例を提示し、分類を行った。
 第三章第二節では、辞書間の比較によって語形変化を論じる際に直面する、表記は一致しても、意味・用法に連続性があるのかの判断が難しいという問題を克服することを一目的として、近世を通じて出版された両点本『庭訓往来』三本(元禄頃版・宝暦版・慶応版)を取り上げ、左傍に示される単字音と、右傍に示される漢語語形の変化を分析した。その結果、単字音については、中間に位置する宝暦版では元禄頃版・慶応版よりも漢音率が低く、また語形変化については、「上品(ジョウボン→ジョウヒン)」等の例が確認できたものの、宝暦版のみ語形が異なる例も多く、必ずしも一方向的な変化とはならないことが明らかとなった。この結果の解釈をめぐっては、特に宝暦版の反映する言語の性質をさらに追究する必要があるものの、中世の『庭訓往来』の訓読では漢音使用が好まれ、元禄頃版にもその影響が残っていたが、宝暦版では日常漢字音の反映が拡大して呉音が増加し、近世後期に漢音の流行が本格化したものと推定した。
 
 第二部では、多くの日常漢字音が蒙った「呉音・漢音どちらか一方に統合される」という変化とは別の変化を遂げた漢字として、「興」「萌」の二字に注目し、その変化のプロセスについて考察した。
 第二部第一章「「興」の字音の変遷―字義と字音の交渉―」では、現代語の「興」字に観察される、〈おこす、おこる〉意味では呉音コウで、〈面白み〉の意味では漢音キョウで読み分けるというルールの発生と要因について論じた。発生は14世紀前半まで遡る可能性を指摘し、その形成過程については、〈面白み〉の意味が仏典に不在であったこと、漢音キョウが漢籍出自の語として平安時代から一字漢語化していたこと、中国でも声調による読み分けが存したことなどの諸要因の複合によるものであることを論じた。
 第二部第二章「「萌」の字音の変遷―字形と字音の交渉―」では、「萌」字の字音の諸相を取り上げた。現代の漢和辞典は、いずれもホウを慣用音とする一方で、呉音・漢音の認定には揺れがあるという事実の指摘から論を起こし、中世以前は呉音・漢音ともにマウであったことを明らかにした。また、慣用音ホウも室町頃には散見され、日本で一般的に行われた字体である「萠」の「朋」に基づく類推音である可能性が高いことを論じた。近世に入ると漢音マウは廃れボウ(バウ)・ホウが用いられるようになるが、その背景に、常用字でない場合に漢音を一律にバ行に揃える動きがあった可能性を論じた。また、近代にボウ(バウ)が廃れホウに一元化することについては、「朋」を含む漢字(朋・崩など)に共通する流れであることを論じた。
 
 以上のように、本研究では、中世から近世にかけての「漢字音の一元化」や、それに伴う漢語の語形変化や混読現象の拡大といった現象について、主に定量的見地から実態を解明し、また、字音の変化に字義や字形が大きく関わった事例を提供した。本研究を通して、日本語における日常漢字音の歴史的研究を大きく発展させることができたと考える。