序章では摂関家の政治的位置づけをめぐる研究史を整理し、摂関家の存在形態と朝廷政務における位置づけという二点の解明を課題として掲げた。
第一部「摂関家の成立と展開―摂関継承と外戚関係―」は、摂関継承(特に父子継承)と王家との婚姻関係(天皇との外戚関係)の二点を考察対象とし、摂関家の成立から五摂家分立に至る過程、「家」としての在り方の変遷を考察した。
第一章「藤原頼通の関白辞任―摂関家成立前史―」では藤原頼通の関白辞任に関わる『古事談』説話を再検討し、『摂関補任次第別本』所収の該当説話の分析から、康平年間(1058~65)に頼通は子息師実への関白直接継承を断念していったん弟の教通に譲ることを決め、頼通→教通→師実という就任順序について頼通・教通・彰子の間で合意を得ていたことを推論した。そのうえで改めて諸史料から経緯を復元し、当事者間で合意が取れているにもかかわらず、政務面で頼通に依存する後冷泉天皇の意向によって関白譲渡が認められず、結果として治暦四年(1068)の後三条践祚の前夜まで関白継承が持ち越されたと論じた。そして、道長の死後、複数の主体の思惑が入り乱れて摂関人事などについて統一的な意思決定を欠く政治状況のなかで、摂関の継承が円滑に行われなくなっていたこと、院政の開始にともない院が摂関人事を掌握することで、逆説的に摂関父子継承が軌道に乗ったことを指摘した。
第二章「院政・鎌倉期の天皇正妃―摂関家成立再考―」は、院政・鎌倉期の天皇正妃を概観・個別検討してその変遷を解明し、摂関家成立についても再考した。まず白河院政期の分析から、天皇正妃はまず摂関家から迎えられたこと、それが叶わない場合は他家の女性を王家の養女として入内させたこと、の二点を導き出し、これらを〈原則〉と呼称した。次に院政・鎌倉期を概観して、〈原則〉が鎌倉中期の四条朝のころまで機能していたことを確認し、各事例について個別検討も行い、外戚または正妃の出身として摂関家が特別な位置を占めることを確認し、このような〈原則〉に基づく天皇正妃の在り方を「院政期的正妃」と呼称した。さらに、後三条・白河期に院政期的正妃が成立する過程を検討し、後三条が頼通流(師実)を姻戚としたことが重要な意味をもったこと、白河期においても頼通・師実の流れが摂関を継承して特権的に王家の姻戚・外戚として位置づけられていたことを指摘し、これをもって摂関家の成立とした。
第三章「五摂家分立をめぐる一考察―摂関継承の転換―」では、まず師実が祖父の道長をモデルとして摂関父子継承を「家」の故実として位置づけたことを明らかにした。一二世紀後半からは政変などにより父子継承が実現できない状況が続いたが、承久の乱で失脚した九条道家は安貞二年(1228)の政変により関白に復帰すると、娘の竴子を後堀河天皇の后とし、かつ子息教実に関白父子継承を果たした(父子譲補)。そこでは道長・師実の先例が強く意識されていた。道家は当初、九条家による摂関の独占を志向して近衛家を排除しており、両家は〈分裂〉状態にあった。しかし、嫡子教実の死や政治情勢の推移を受けて、道家は自身の娘と近衛兼経との間に婚姻を結ばせ、兼経に摂政を譲った(他家譲補)。これにより複数の摂家が共同で摂関の地位を担う〈分立〉状態が初めて成立した。鎌倉後期に五摂家分立が成立すると、以後は原則として官位の順序によって摂関人事が行われるようになり、摂関父子継承の系譜は終焉し、摂関家自身の先例意識にも変化がみられた。
第四章「九条道家晩年の継承構想―摂家分立の一過程―」は、九条道家晩年の処分状にみえるような継承構想(一条家・九条家の分立)が、寛元四年(1246)以降の一連の政変を経て形成されたものであり、道家はもともと嫡系継承を志向していたが、嫡子教実の早世と自家の危機を前に、〈生き残り戦略〉として後継者を二人(一条実経・九条忠家)設定したのだと論じた。これは、「家」の分立を中世前期における財産の分割相続と結びつけて把握する学説への批判でもある。
第二部「摂関家と朝廷政務―大殿の変遷から―」では、第一部の議論をふまえ、「大殿」(摂関退任者)という本来は非制度的な存在が、どのように朝廷政務に関与したかを、それぞれの時期の政治構造や摂関家の変遷と関連づけながら解明し、摂関家の朝廷政務における位置づけを探った。
第五章「摂関・院政期の大殿―摂関家の成立―」は主に大殿道長・師実の政務参加を扱った。道長は早期の摂関父子継承を初めて実現し、自身は「大殿」として出仕、内裏に直廬をもち政務決裁に携わり、朝廷儀礼にも参仕した。大殿道長の自己規定は第一に後一条天皇の外祖父であり、自身が外孫を後見する姿を儀礼などで示し、ときに現任摂関(頼通)の存在の軽視を招くこともあった。孫の師実も子息師通への摂関継承を果たし、道長のように政務に関わったが、特に儀礼においては父子一体で参仕する姿が強調されている。その背景として、この時期に摂関家が成立し、大殿が院政のもとで天皇後見を担う摂関家の家長として位置づけられたことを指摘した。
第六章「鎌倉期の大殿―摂関家の転換―」は、鎌倉期における大殿、さらには摂関家の政治的な転換を論じた。一二世紀から一三世紀前半にかけて、道長・師実的な大殿の在り方はしばらく途絶えていたが、九条道家は久しぶりに子息への摂関継承を実現し、また四条天皇の外祖父ともなった。大殿道家は内裏に直廬を有して出仕し、日常的な政務決裁は現任摂政に任せつつも重要な案件では自身の意見を反映させ、また朝廷儀礼に参仕し、元日には貴族たちから拝礼も受けていた。道家は道長・師実を「家」の先例として強く意識してその再現を目指しており、大殿としての活動もその一環であったと考えられる。大殿道家の政務への関与は政治的地位の変化(四条天皇の早世による外祖父の立場の喪失など)に影響を受けつつも、寛元四年の失脚まで続いた。その後、近衛兼経は養子の鷹司兼平に摂政を譲り、大殿としての動向も確認でき、兼経自身は摂関父子継承(「譲補」)の先例を意識していた。ただし、道長・師実・道家と比べるとその活動には限定的な部分もあり、これは兼経が天皇外戚ではないことが影響していると推測される。鎌倉後期には天皇との外戚関係も摂関父子継承も途絶し、道長・師実的な大殿の系譜も終焉を迎えた。この頃からみられるようになる大殿への内覧宣下にも、先行研究が述べるような実質的効力は確認できない。
補論「南北朝期の大殿をめぐる若干の考察―北朝と摂関家―」では、まず顕著な政治活動がみられる二条良基について、その空想的仮名日記の『思ひのままの日記』から、「大閤」「大殿」としての自己の理想像を読み取った。しかし、実際の大殿良基の動向は理想像とは程遠く、現任摂関の父としての「真実大殿」路線は挫折し、以後は将軍義満と関係を結び、義満を朝廷政治・貴族社会に引き込むことで朝儀の再興を目指す方針に転換した。また鎌倉後期以降に継続的にみられるようになる大殿への内覧宣下の効力・転換についても論じた。一四世紀後半の近衛道嗣や九条経教の事例から、内覧宣下によって大殿は議奏として議定・評定に参加するようになり、また頻繁に勅問を受け、治天の開催する御会など文化的催しにも参加したことを明らかにした。ここには本来の(政務決裁の主体としての)内覧の役割というよりは、治天の顧問・近臣としての立場が明瞭になっている。このように治天が内覧宣旨によって大殿を「院近臣化」するという在り方は、鎌倉末期の後醍醐朝に成立したと考えられる。内覧宣下は大殿のなかから特に顧問・近臣とする者を抜き出すものであったが、宣下の有無にかかわらず大殿は重事において意見を問われ、その際に大殿が自家の意見を代表することもあった。五摂家が横並びで治天の政務に奉仕し、大殿が諸摂家の家長として一定の役割を果たす体制が成立していた。
終章では、本論の成果として、摂関家の成立の意味やその後の変遷・転換の過程が明瞭になったこと、また「専制的な院政」から「制度的な院政」への移行に対応する形で王家・摂関家の婚姻や摂関父子継承、また大殿の政務参加に本質的な変容が確認できるというように、院政の展開についても摂関家の観点から知見を得られたことを挙げた。そして今後の課題として、現任摂関の変化、貴族社会のなかの摂関家論、そして中世の社会や支配体制における摂関家の役割の解明を挙げた。
第一部「摂関家の成立と展開―摂関継承と外戚関係―」は、摂関継承(特に父子継承)と王家との婚姻関係(天皇との外戚関係)の二点を考察対象とし、摂関家の成立から五摂家分立に至る過程、「家」としての在り方の変遷を考察した。
第一章「藤原頼通の関白辞任―摂関家成立前史―」では藤原頼通の関白辞任に関わる『古事談』説話を再検討し、『摂関補任次第別本』所収の該当説話の分析から、康平年間(1058~65)に頼通は子息師実への関白直接継承を断念していったん弟の教通に譲ることを決め、頼通→教通→師実という就任順序について頼通・教通・彰子の間で合意を得ていたことを推論した。そのうえで改めて諸史料から経緯を復元し、当事者間で合意が取れているにもかかわらず、政務面で頼通に依存する後冷泉天皇の意向によって関白譲渡が認められず、結果として治暦四年(1068)の後三条践祚の前夜まで関白継承が持ち越されたと論じた。そして、道長の死後、複数の主体の思惑が入り乱れて摂関人事などについて統一的な意思決定を欠く政治状況のなかで、摂関の継承が円滑に行われなくなっていたこと、院政の開始にともない院が摂関人事を掌握することで、逆説的に摂関父子継承が軌道に乗ったことを指摘した。
第二章「院政・鎌倉期の天皇正妃―摂関家成立再考―」は、院政・鎌倉期の天皇正妃を概観・個別検討してその変遷を解明し、摂関家成立についても再考した。まず白河院政期の分析から、天皇正妃はまず摂関家から迎えられたこと、それが叶わない場合は他家の女性を王家の養女として入内させたこと、の二点を導き出し、これらを〈原則〉と呼称した。次に院政・鎌倉期を概観して、〈原則〉が鎌倉中期の四条朝のころまで機能していたことを確認し、各事例について個別検討も行い、外戚または正妃の出身として摂関家が特別な位置を占めることを確認し、このような〈原則〉に基づく天皇正妃の在り方を「院政期的正妃」と呼称した。さらに、後三条・白河期に院政期的正妃が成立する過程を検討し、後三条が頼通流(師実)を姻戚としたことが重要な意味をもったこと、白河期においても頼通・師実の流れが摂関を継承して特権的に王家の姻戚・外戚として位置づけられていたことを指摘し、これをもって摂関家の成立とした。
第三章「五摂家分立をめぐる一考察―摂関継承の転換―」では、まず師実が祖父の道長をモデルとして摂関父子継承を「家」の故実として位置づけたことを明らかにした。一二世紀後半からは政変などにより父子継承が実現できない状況が続いたが、承久の乱で失脚した九条道家は安貞二年(1228)の政変により関白に復帰すると、娘の竴子を後堀河天皇の后とし、かつ子息教実に関白父子継承を果たした(父子譲補)。そこでは道長・師実の先例が強く意識されていた。道家は当初、九条家による摂関の独占を志向して近衛家を排除しており、両家は〈分裂〉状態にあった。しかし、嫡子教実の死や政治情勢の推移を受けて、道家は自身の娘と近衛兼経との間に婚姻を結ばせ、兼経に摂政を譲った(他家譲補)。これにより複数の摂家が共同で摂関の地位を担う〈分立〉状態が初めて成立した。鎌倉後期に五摂家分立が成立すると、以後は原則として官位の順序によって摂関人事が行われるようになり、摂関父子継承の系譜は終焉し、摂関家自身の先例意識にも変化がみられた。
第四章「九条道家晩年の継承構想―摂家分立の一過程―」は、九条道家晩年の処分状にみえるような継承構想(一条家・九条家の分立)が、寛元四年(1246)以降の一連の政変を経て形成されたものであり、道家はもともと嫡系継承を志向していたが、嫡子教実の早世と自家の危機を前に、〈生き残り戦略〉として後継者を二人(一条実経・九条忠家)設定したのだと論じた。これは、「家」の分立を中世前期における財産の分割相続と結びつけて把握する学説への批判でもある。
第二部「摂関家と朝廷政務―大殿の変遷から―」では、第一部の議論をふまえ、「大殿」(摂関退任者)という本来は非制度的な存在が、どのように朝廷政務に関与したかを、それぞれの時期の政治構造や摂関家の変遷と関連づけながら解明し、摂関家の朝廷政務における位置づけを探った。
第五章「摂関・院政期の大殿―摂関家の成立―」は主に大殿道長・師実の政務参加を扱った。道長は早期の摂関父子継承を初めて実現し、自身は「大殿」として出仕、内裏に直廬をもち政務決裁に携わり、朝廷儀礼にも参仕した。大殿道長の自己規定は第一に後一条天皇の外祖父であり、自身が外孫を後見する姿を儀礼などで示し、ときに現任摂関(頼通)の存在の軽視を招くこともあった。孫の師実も子息師通への摂関継承を果たし、道長のように政務に関わったが、特に儀礼においては父子一体で参仕する姿が強調されている。その背景として、この時期に摂関家が成立し、大殿が院政のもとで天皇後見を担う摂関家の家長として位置づけられたことを指摘した。
第六章「鎌倉期の大殿―摂関家の転換―」は、鎌倉期における大殿、さらには摂関家の政治的な転換を論じた。一二世紀から一三世紀前半にかけて、道長・師実的な大殿の在り方はしばらく途絶えていたが、九条道家は久しぶりに子息への摂関継承を実現し、また四条天皇の外祖父ともなった。大殿道家は内裏に直廬を有して出仕し、日常的な政務決裁は現任摂政に任せつつも重要な案件では自身の意見を反映させ、また朝廷儀礼に参仕し、元日には貴族たちから拝礼も受けていた。道家は道長・師実を「家」の先例として強く意識してその再現を目指しており、大殿としての活動もその一環であったと考えられる。大殿道家の政務への関与は政治的地位の変化(四条天皇の早世による外祖父の立場の喪失など)に影響を受けつつも、寛元四年の失脚まで続いた。その後、近衛兼経は養子の鷹司兼平に摂政を譲り、大殿としての動向も確認でき、兼経自身は摂関父子継承(「譲補」)の先例を意識していた。ただし、道長・師実・道家と比べるとその活動には限定的な部分もあり、これは兼経が天皇外戚ではないことが影響していると推測される。鎌倉後期には天皇との外戚関係も摂関父子継承も途絶し、道長・師実的な大殿の系譜も終焉を迎えた。この頃からみられるようになる大殿への内覧宣下にも、先行研究が述べるような実質的効力は確認できない。
補論「南北朝期の大殿をめぐる若干の考察―北朝と摂関家―」では、まず顕著な政治活動がみられる二条良基について、その空想的仮名日記の『思ひのままの日記』から、「大閤」「大殿」としての自己の理想像を読み取った。しかし、実際の大殿良基の動向は理想像とは程遠く、現任摂関の父としての「真実大殿」路線は挫折し、以後は将軍義満と関係を結び、義満を朝廷政治・貴族社会に引き込むことで朝儀の再興を目指す方針に転換した。また鎌倉後期以降に継続的にみられるようになる大殿への内覧宣下の効力・転換についても論じた。一四世紀後半の近衛道嗣や九条経教の事例から、内覧宣下によって大殿は議奏として議定・評定に参加するようになり、また頻繁に勅問を受け、治天の開催する御会など文化的催しにも参加したことを明らかにした。ここには本来の(政務決裁の主体としての)内覧の役割というよりは、治天の顧問・近臣としての立場が明瞭になっている。このように治天が内覧宣旨によって大殿を「院近臣化」するという在り方は、鎌倉末期の後醍醐朝に成立したと考えられる。内覧宣下は大殿のなかから特に顧問・近臣とする者を抜き出すものであったが、宣下の有無にかかわらず大殿は重事において意見を問われ、その際に大殿が自家の意見を代表することもあった。五摂家が横並びで治天の政務に奉仕し、大殿が諸摂家の家長として一定の役割を果たす体制が成立していた。
終章では、本論の成果として、摂関家の成立の意味やその後の変遷・転換の過程が明瞭になったこと、また「専制的な院政」から「制度的な院政」への移行に対応する形で王家・摂関家の婚姻や摂関父子継承、また大殿の政務参加に本質的な変容が確認できるというように、院政の展開についても摂関家の観点から知見を得られたことを挙げた。そして今後の課題として、現任摂関の変化、貴族社会のなかの摂関家論、そして中世の社会や支配体制における摂関家の役割の解明を挙げた。