本稿は、親鸞の主著として知られている著作『顕浄土真実教行証文類』(以下『教行信証』)を、日本倫理思想史研究の立場から、すなわち、テキスト上の個々の表現およびそれらが形作る文脈がもつ倫理学的・哲学的な含意・射程をふまえたテキスト内在的な精読を主な研究方法として日本の思想的テキストについて考究する立場から読解し、その読解を通じて、『教行信証』の種々の記述の基底にあってその行論を導いていた親鸞の思考の基本構造の一端を見定めることを試みたものである。具体的には、親鸞の思考が、自他が互いにさまざまな関係を結ぶなかでともに煩悩に絡めとられているという現実の生の光景に深く内在する視線のもと、あるべき自他関係への希求に導かれる形で展開されたものであるという可能性、またその思考にあって、自他関係のあり方が具体的には、その関係のなかでどのような言葉が、どのような主体において、どのように語られるのか、という語りのあり方に規定されるものとして捉えられていたという可能性を探るべく、自他関係・語りのそれぞれを原理的な次元から問題にしていると目される真仏土巻の論述を検討することが、本稿の趣旨である。
 
 はじめに、序論では、以上のような本稿の問題関心と読解の方向性とがもつ意味を確認するために、従来の哲学的・思想的な読解のなかでしばしば示されてきた親鸞理解を整理し、従来の読解の問題点を検討した。具体的には、まず、従来示された主な親鸞理解には、親鸞自身の目前に広がる、また自身もそのうちを生きているところの現実の生の光景を対自化・相対化する、いわば対自的視線のもとで親鸞の思考が展開されたという前提が共通して見られるということを、従来の親鸞理解を三つの理念型に整理したうえで指摘した。次に、『教行信証』をはじめとする親鸞の著述のなかに、現実の生の光景に深く根ざした、いわば内在的視線のもとで展開された思考の形跡が見られることを指摘し、親鸞の思考を基本的には対自的視線のもとで展開されたものとして捉える従来の前提が、テキスト読解上大きな問題を抱え込まざるを得なくなるということを確認した。そして、そのような内在的視線が、衆生の自他関係のあり方に注目するものであるように思われること、それゆえ、自他関係をめぐる重要な原理的思考が展開されていると目される『教行信証』真仏土巻が本稿の主要な読解対象となること、また真仏土巻にあって、その自他関係をめぐる思考が仏の語りをめぐる原理的思考と密接に連関していると目されることから、仏の語りをめぐる親鸞の思考についての検討も必要になることを確認した。
 
 第一章では、真仏土巻の主題の概要を確認するとともに、その主題をめぐる親鸞の思考が、仏の語りのあり方を念頭に置きつつ展開されるものであったことを論じた。真仏土巻は、阿弥陀仏と極楽浄土の本来の様態を主題とする巻であるが、親鸞は巻頭の自釈のなかで、その内実を「光」という表現によって示唆するとともに(「不可思議光如来」「无量光明土」)、その「光」としての阿弥陀仏・極楽浄土が、阿弥陀仏が法蔵菩薩という名の修行者であった時に立てた誓願である四十八願のうちの第十二願・第十三願の成就によって成立した真実の仏身・仏土(「真の報仏土」)にほかならないということを記していた。本章では、以上の概要をふまえて、真仏土巻の論述の基点にあたるこの第十二願・第十三願が成就した光景を示す、『無量寿経』(以下『大経』)引文を中心とする一連の章段を主に読解し、その記述に見られる「光」理解の特質を見定めることを試みた。その読解によって確認されたのは、以下の三点である。第一に、一連の章段では、阿弥陀仏の光が形而上学的な原理・理法としてではなく、生死輪廻の世界のただなかで衆生に働きかけて衆生を覚りへ導こうとする、動的なものとして捉えられているということ。第二に、その動的な光は、具体的には、釈迦仏をはじめとする諸仏(またその「弟子」としての念仏者たち)による、阿弥陀仏に対する「称誉」、つまり阿弥陀仏への讃嘆としての称名念仏を通じて衆生の前に現れてくるということ。そして第三に、親鸞が諸仏の「称誉」について思考する際に、諸仏による個々の「称誉」のありようよりも、十方世界のあらゆる仏が多様な表現によって阿弥陀仏の光を「称誉」しているという、いわばポリフォニックな語りの場の総体を強く意識していると考えられるということである。
 
 続く第二章では、第一章の議論をふまえて、諸仏の「称誉」を通じて阿弥陀仏の光にふれるという経験が、親鸞にあって、衆生の自他関係のあり方に関わるものとしても捉えられていたことを論じた。本章でとりあげたのは、『教行信証』信巻の真仏弟子釈に引用されている、第三十三願である。第三十三願は、阿弥陀仏の光にふれた衆生に「身心柔燸」という変容がもたらされることを誓う誓願であるが、真仏土巻の憬興『無量寿経連義述文賛』引文がこの誓願に明示的に言及していることなどから窺われるように、この第三十三願は真仏土巻の論述と密接に関わっていると考えられる。注目されるのは、この第三十三願をその論述の基点とする真仏弟子釈では、阿弥陀仏から与えられる他力の信をよりどころとする念仏者のあるべきあり方として、他の衆生に称名念仏の行を伝えてゆく姿が考えられていたということである。本章では、この点に着目しながら真仏弟子釈の行論をたどり、親鸞が第三十三願をもとに展開した自他関係をめぐる思考の内実を検討した。真仏弟子釈の読解を通じて明らかになったことは、大きく分けて二点ある。一つは、真仏土巻で示されていた、諸仏の「称誉」を通じて阿弥陀仏の光にふれるという事態が、真仏弟子釈では、ある衆生が単独で念仏を修している場ではなく、衆生の間で称名念仏が伝えられてゆく場において生起してくるものとして捉えられているということである。またもう一つは、その際に称名念仏の主体となる信が、個々の衆生の内面に個別に顕現してくるものとしてではなく、全時空に浸透し、あらゆる自他の隔たりを解体してゆく一つの力として捉えられているということである。親鸞の思考にあって称名念仏は、個々の衆生によって個別に修される行としてではなく、自他の間に結ばれる関係から立ち上がってきて、そしてその関係を全時空へとふれさせるような、共同的な行として捉えられているように思われるのである。
 
 次に、第三章では、第一章・第二章のそれぞれでとりあげた、仏の語りと自他関係という二つの契機同士の連関の仕方について、真仏土巻に引用されている長大な『大般涅槃経』(大乗経典、以下『涅槃経』)引文の文体に注目する形で論じた。真仏土巻の『涅槃経』引文では、仏が衆生の素質・能力や衆生を取り巻く状況に応じて無数の名を説くということをめぐる議論が展開されているが、注目されるのは、その一連の論述の多くが、さまざまな概念に関する「…は名けて…とす」といった名づけや、「…は即ち是れ…なり」といったいいかえを連ねるという、独特の表現形式によって貫かれていたということである。またよく知られているように、真仏土巻では、阿弥陀仏が「无量光仏」「端厳光」「不可思議光」等々の無数の名をもつ仏であるということが繰り返し述べられているのであるが、本章では、このように無数の名あるいは名づけに関わる論述・表現が真仏土巻の行論を覆っているという事実に着目し、『涅槃経』引文の読解を通じて、そうした真仏土巻の構造が意味するものの内実を検討した。当該の検討を通じて本章が指摘したのは、主に次の三点である。第一に、『涅槃経』引文では、仏が衆生の素質・能力や衆生を取り巻く状況に応じて説く、いわゆる対機説法の言葉が、衆生を覚りへ導くどころか、反対に衆生を仏智から隔て、その衆生を取り巻く個別的状況のなかに閉じ込める契機として捉えられているということ。第二に、あらゆる名を「名く」という営為によって連関させてゆくことが、その対機説法の構造的問題を乗り越える手立て、すなわち衆生が自身を取り巻く個別的状況を超えて他の衆生と出会うということを可能にする手立てとして考えられているということ。そして第三に、そのような、衆生同士の出会いを可能にするような「名く」という営為を象徴するものとして、阿弥陀仏の名が位置づけられているということである。
 
 最後に、第四章では、以上の各章の議論で確認したような親鸞の思考の基本構造をふまえて、衆生が信へ向かってゆく軌跡の全体像を論じた。本章でとりあげたのは、真仏土巻・真仏弟子釈それぞれの論述と密接に関係する、『教行信証』化身土本巻で展開されたいわゆる三願転入の論である。三願転入の論は、往生浄土を目指す衆生のあり方を、四十八願のうちの第十九願・第二十願・第十八願、および浄土三部経の『観無量寿経』(以下『観経』)・『阿弥陀経』(以下『小経』)・『大経』のそれぞれに対応する三類型に整序し、そのあり方の変容のなかで衆生が信へ近づいてゆく構造を論じたものである。本章では、この三願転入をめぐる論述のうち、とりわけ『観経』『小経』それぞれの記述に即しながら衆生のあり方をめぐる具体的な議論を展開している、いわゆる要門釈・真門釈の行論を検討した。そしてその検討をふまえて、衆生が信へ向かってゆく軌跡が一貫して仏の語りとの関わり方を問題とするものであったこと、またその軌跡がその果てにあって、他の衆生とともに阿弥陀仏の名号にふれるという営為に帰着するものであることを確認した。