本研究は2部構成をとる。第I部(第1~4章)では、アテナイ法における殺人訴訟制度の再定位および、その運用実態の解明を試みる。続く第II部(第5~7章)では、第I部における考察結果を基盤として、アテナイ人たちが有した殺人に対する意識をより深く理解することを目指す。
 次に各章の概要を述べる。第1章では、dike phonouをどのような訴訟手続として理解すべきかを検討する。その際、近年研究が盛んなドラコンの立法内容の復元や、ソロンの改革がアテナイ訴訟制度に与えた影響の分析などの成果を踏まえる。具体的には他の訴訟手続との比較により、dike phonouは私訴の一種なのかという問題を扱う。本章における分析の結果、dike phonoudikeとは手続類型を含意しない「訴訟」という意味であり、dike phonouはいわゆる私的訴訟/公的訴訟の分類には当てはまらない独自の訴訟類型であることが示される。またdike phonouは私的訴訟/公的訴訟双方の特徴を併せ持つが、これはdike phonouという最古の訴訟手続が、ソロンによる公訴手続創設以後の公私の訴訟手続のプロトタイプであることに由来する可能性も提示される。さらに殺人訴訟は個人間の私的な問題であると同時に、異なる一族間の対立やポリスにおける公の利害にも関わる社会的な問題として捉えられていたことが確認される。
 第2章では主に、前4世紀後半の2つの史料(Dem. 23. 28-80; [Arist.] Ath. Pol. 57. 2-4)で説明される殺人訴訟制度について分析することで、当時の殺人訴訟手続がdike phonouという単一の訴訟手続として理解されていたのか、dikai phonouという様々な種類の殺人罪に対する複数の訴訟手続群として理解されていたのかを検討する。またphonosという罪状に含まれるか否かが議論になってきた個々の罪(trauma ek pronoias, purkaiaなど)についてその構成要件や用いられた訴訟手続の種類、刑罰などを分析することで、phonosという法概念の広がりを明らかにする。本章における考察の結果、前4世紀後半においては、殺人訴訟は公的訴訟をも含む「殺人罪に対する訴訟手続群(dikai phonou)」として理解されていたことが明らかになる。そして有意思殺人や奴隷の殺害などに加えて、従来は殺人罪の一部とは見做されてこなかった犯罪(trauma ek pronoiasなど)もphonosの一部として理解されていたこと、それら異なる種類の殺人罪がdikai phonouに含まれる個々の訴訟手続によって裁かれていたことも示される。
 第3章では、第2章で取り上げた、殺人罪に対する訴訟手続群の相互関係を検討する。従来の研究では殺人に関しては、dike phonouapagoge/endeixis/ephegesisの間での「訴訟手続の選択可能性(procedural flexibility)」しか検討されてこなかった。しかし第2章において、dikai phonouは10数種類にも及ぶ殺人事件に関連した様々な訴訟手続の総称であり、各手続は訴訟担当役人・裁判員・法廷・刑罰・訴訟手続の詳細などを異にする別個の訴訟手続で構成されることが示された。したがって第3章ではdike phonouapagoge/endeixis/ephegesisの間での「訴訟手続の選択可能性」を検討するだけでなく、dikai phonou内部での「訴訟手続の選択可能性」も分析する。分析の結果従来アテナイ法としては例外的に「訴訟手続の選択可能性」が低いとされてきた殺人訴訟について、dike phonouapagoge/endeixis/ephegesisの間での「訴訟手続の選択可能性」は限定的な状況でしか観察できないものの、dikai phonou内部においては従来見過ごされていた「訴訟手続の選択可能性」の発現が指摘できる。
 第4章では、アテナイ人たちがどのような行為を殺人行為と見做していたのかを、殺害の手段や「殺す」を意味するギリシア語の用例から分析する。分析の結果、以下のような点が明らかになる。彼らは手段の直接性・間接性を問わず、「ある人間の命を奪う行為」すべてを「殺人行為」として理解していた。行為の主体は人間とは限らず、動物や無生物が人の命を奪う原因となった場合も含まれた。ただし被害者の死に責任がある/被害者の死の原因となった人やモノ(動物・無生物)が複数存在する場合、直接的な責任や原因は誰あるいは何にあるのかという点に関しては議論の余地があった。またすべての殺人が殺人罪として扱われたのではなく、特定の状況下においては合法的な殺人を許可していた。さらに国家による処刑行為も、言語的には殺人と区別されていなかった。以上の第I部の分析を通じて、アテナイの殺人訴訟制度の再構成が図られるとともに、当時の殺人概念の概要も把握されるだろう。
次に本研究の第II部を構成する第5~7章では、第4章までの議論を踏まえて、アテナイの殺人訴訟制度において特に印象的な事象を個別に検討することで、彼らの殺人に対する理解を多角的に把握することを目指す。とりわけ第5章と第 6章では、第4章で得られた古代アテナイの殺人概念に対する理解をさらに深めることを考察の主たる目的とする。
 第5章では「反僭主法」における「反民主派の殺害」の事例を取り上げる。「反僭主法」は他の合法殺人の規定とは異なり、積極的に該当者の殺害を命じるという特殊性を持っている。その背景には、民主政という政治体制を死守するという古典期アテナイに特殊な課題が存在していたことが示される。これを被害者(反民主派であると見做されて殺された人物およびその親族)側の論理と比較することで、殺人法の領域における国家と市民の力関係を描き出す。その結果「反民主派の殺害」は合法殺人規定の一部ではなく、陶片追放などと共に民主政防衛のための諸制度の一種として理解すべきであり、加害者と被害者の処遇はデルピニオンにおけるdike phonou による合法殺人裁判ではなく、民会における加害者への顕彰決議や被害者の遺体に対する追加の刑罰の決定などを通じて処理されたことが明らかになるだろう。「反民主派の殺害」は古代アテナイにおける自力救済の伝統や国家権力の脆弱性を背景としつつ、民主政を死守するという古典期アテナイにおける至上命題の象徴として、被害者親族の復讐の権利さえも制限する事例として捉えることができる。第5章では前記の分析に加えて、「反僭主法」の1つであるデモパントスの決議における誓いの文言にも着目する。分析の結果、アテナイ人たちは裁判や民会における投票や、密告された人物が逮捕・裁判を経て処刑された場合にはその密告行為をも殺人行為として理解していたことが示される。彼らは直接的な殺害だけでなく間接的に人を死に至らしめる原因となった行為も含めて、広範な行為を殺人行為として理解していたのである。
 第6章では殺人と処刑について取り上げる。第4章と第5章で示したようにアテナイでは殺人罪に該当する行為として「人を殺す」ことと、正当な手続を経た法的決定として「罪人を処刑する」こととの間の言語的な区別は極めて希薄であった。近代的な理解では、処刑は正当な権力を有する主体(国家など)が法の定めに基づき、罪を犯した者の生命を合法的に奪う行為である。それゆえ近代法は処刑を殺人とは表現しない。仮に処刑に不備があったとしても、処刑吏などの責任は殺人罪とは別の形で問われるだろう。しかし史料を分析すると、アテナイでは殺人罪と処刑を言語的に区別しないだけでなく、不当な処刑が殺人罪に該当するという主張や、実際に不当な処刑を殺人罪として訴追する可能性を伺わせるものさえ確認される。したがってアテナイでは通常合法であるはずの処刑行為が、殺人罪に該当すると見做され、実際に関係者が訴追されるリスクがあったと推測できる。では彼らはどのようにして訴追のリスクに対処したのだろうか。処刑方法を分析した結果、間接的な処刑方法を採用する、死刑の執行は国有奴隷に任せるなど、アテナイ市民である処刑担当役人を死刑囚の死に対する責任から可能な限り遠ざける制度が整っていた。以上から殺人と処刑の概念的な未分化状態が指摘できる。その背景には国家権力の弱さや、自力救済の伝統の存続などのアテナイ社会の特徴があると解釈できる。
 第7章では、これまで前提としてきた被害者親族による復讐の義務の履行という、当時の倫理観に基づいた行動の実効性を疑い、殺人事件に対処する際のアテナイ人の理想と現実を描き出す。そのためにアンキステイアと呼ばれる親族集団の、殺人訴訟における役割や振る舞いを遺産相続時の行動と比較して論じる。第1章において殺人訴訟の訴追権が被害者のアンキステイアに限定された理由は、被害者のために復讐を果たすという倫理的要請を十分に満たす範囲の親族に訴追権を与えつつも、国家の利益に反するような殺人に対する復讐の無限の連鎖・拡大を抑制するためであったことを指摘した。しかし実例では被害者の父・息子・兄弟しか殺人訴訟を提起しておらず、殺人訴訟におけるアンキステイアの存在は極めて希薄である。他方遺産相続訴訟では、故人のアンキステイアの範囲を超える遠縁の親族たちも積極的に訴訟に参加している。以上よりアンキステイアという親族集団自体は、アルカイック期から古典期を通じて機能していたが、殺人訴訟においてはドラコンによる立法当時のような機能を維持していなかったことが明らかになるだろう。このような訴追権の設定範囲と実際に訴追を行った親族集団の傾向の差は、ドラコンの殺人法の条項のいくつかは、古典期の倫理観や親族関係から大きく乖離した半ば空文化したものであった可能性を示している。アテナイ人たちは殺人法の一体性を保ちつつも、柔軟な法運用を通じて時代的な価値観の変化に対応していたと言える。
結論部では各章の議論を振り返りつつ、殺人訴訟制度をアテナイ法全体の中でいかに位置づけるべきかを論じる。そしてこのような殺人訴訟制度を備えたアテナイという国家のあり方について考察して論を終える。