本論文は、1920-1930年代の中国文学における詩的言語が、近代的な「主体」の希求という使命を託されていたことを明らかにするものである。分析の対象となるのは、近代詩 が詩という文体であることに強い拘りを示した詩論、および近代小説の規範からは逸脱するために詩的だと称されてきた小説の二つ、具体的には郭沫若、穆木天、李健吾、廃名、施蟄存の詩論、そして廃名と穆時英の小説である。これらのテクスト群について、いわゆる五四新文学時期の文学言説との連続性を論証することによって、新文学の作家が近代文学のうちに求めた近代的な「主体」という理想像が1920年代および1930年代を通して一貫して存在し続け、その追求の試みの一部が詩的言語の模索という形で表出したことを示すのが本論文の目的である。
序章ではまず本論文における「主体」および詩的言語の定義を確認したうえで、先行研究の問題点を指摘し、そうした問題を乗り越えるためには新たな文学史的視野を提出することが不可欠であることを論じた。また中国近代文学の詩的言語に関連する「主体」言説として、1980年代の人文学的諸言説、戦後日本の魯迅研究、中国古典文学の批評の3点を挙げ、本論文における議論が持ち得る広がりについて示した。
本論文は第1部「「詩」に拘る新詩論における作家という「主体」」、第2部「廃名の詩論・新詩・小説における詩的言語と「主体」の関係」、第3部「施蟄存詩論および穆時英小説の「肌理」と「主体」の存在」の全3部からなる。
第1部は3章構成である。第1章では、初期郭沫若を代表する新詩論『三葉集』を分析し、詩それ自体への注目、詩人の自我の重視、作者個人の感情に支えられた詩といった郭の新詩観が、果たして先行研究で論じられてきたほどに郭独自のものであったのかという点について分析を行った。詩人という作者主体の個性やそれに固有の経験に支えられることによって新詩は詩となるというのが郭の新詩観であるが、郭の新詩論を胡適、劉半農、兪平伯、周作人といった同時代の文学者たちの文学論と照らし合わせてみると、そのような新詩観が郭独自のものというよりは、当時の新文学の空間において広く共有されたものであったことが明らかになる。
第2章では、詩と散文の間に明確な境界線を引くことを主張した穆木天「譚詩」を分析し、穆にとって詩が詩である所以はどこにあるのか、またそれが穆の象徴詩に対する認識とどのような関係にあるのかについて分析を行った。まず穆木天の新詩論と郭沫若および成仿吾の新詩論との共通点について指摘したうえで、穆にとっても作者の個性や自我こそが詩の根拠として重要な役割を果たしていたことを示した。続けてフランス文学に関する穆の評論を分析し、穆が作者主体の個性と詩の関係を象徴の問題としても捉えていたことを明らかにした。つまり「譚詩」は象徴主義という装いを与えることで、結果的に新文学的な新詩観を温存したのだと言える。
第3章では、1930年代に新しく登場した卞之琳の詩を肯定したことで知られる李健吾の評論「魚目集――卞之琳先生」を取り上げ、同評において、詩人の個性という要素と、詩が生まれた時代環境という要素とが如何なる形で関連付けられ、評価の対象となっているのかについて分析を行った。李健吾もまた詩人という作者主体の個性を重視するのだが、それが郭沫若や穆木天の場合と異なるのは、そうした作者の個性はあくまで「現代」という時代環境において形成されるものだとの認識を示したことである。ゆえに李健吾にとっての優れた新詩とは、個人としての詩人が直面する繁雑な「現代」を表現した詩ということになる。このように李健吾の新詩論もまた新文学的な新詩観を着実に継承しつつも、1930年代に登場した新たな新詩を評価する言説として独自の展開を見せたのである。
第2部は4章構成である。第4章では、廃名の新詩論『談新詩』を取り上げ、廃名が優れた新詩を肯定する際の論理について分析を行った。『談新詩』において廃名が掲げるのは、「新詩の内容は詩の内容でなければならない」というテーゼであるが、その「詩の内容」を担保するものとして廃名が重視したのもまた、作者という主体に具わる個性もしくはそれに固有の経験である。但し廃名にとっては作者主体に由来する個性のほかに、読者主体にとっての可読性という意味での普遍性もまた重要な要素であり、その両者の間でバランスを取ることが理想的であるとされた。廃名もまた穆木天や李健吾とは異なる形で、新文学的な新詩観を発展的に継承したと言える。
第5章では、自作の新詩に対する廃名の評価、廃名の小説に対する同時代評、自身の師にあたる周作人に関する廃名の評論の三つを取り上げ、作者主体の個性が強く発揮されることによって文章は晦渋になるという、三者に共通する論理について分析を行った。廃名は『談新詩』において自らの新詩を取り上げて論じているが、そこで廃名は、自作は普遍性よりも個性に偏っているために難解だと言われるが、だからこそ同時に詩的な完全性を具えているのだと主張する。そしてこの見解と奇妙な符号を見せるのが、廃名の小説は個性的であるがゆえに詩的であり難解であるという同時代評、および周作人の散文は自身の個性との関係を「隔」として捉えているがゆえに得難いという廃名の評価である。こうした論理からは、廃名自身のテクストの難解さの根底にも、新文学的な言説空間以来綿々と続く「主体」が支える詩的言語という認識が流れていたことが分かる。
第6章では、前章の結論を糸口として、本論文で展開してきた新詩論に関する議論を小説言語の詩的な性質というもう一つの課題へと開くことを試みた。本章では廃名を代表する長篇小説『橋』の上篇を扱い、同小説に具わった断片的かつ連続的であるという性質について、男性主人公である小林の、文字を書く主体、風景を眺める主体、想起する主体という三つの側面に注目して分析を行った。『橋』上篇にはヒロインである琴子の主観世界はほとんど登場せず、上述の三つの行為に基づく小林の主観世界の展開がその大部分を占めている。そして各章の内容の独立性が高いにも拘らず、この小林の主体性がそれらを貫く一本の糸として機能することで、断片的でありながらも同時に連続性もまた『橋』上篇には担保されることを示したうえで、そのようなシステムは第5章で論じた個性と詩的言語に関する見解を踏まえた場合には、たしかに「詩的」なものとして読者の眼に映り得ることについても明らかにした。
第7章では、上篇の物語世界の10年後を描く『橋』下篇を扱い、そこに表れる上篇とは異なる形での小林の主体性について分析を行った。この10年の間に小林は大人になったことで厭世的な人物になっているのだが、それに伴い下篇には、上篇では見られなかった女性人物に対するフェティッシュな視線や窃視の快楽、幼少時の想起、詩の読み書きといった、五四新文学以来の先行する恋愛小説に散見される主体としての男性主人公像が顕著に認められる。但し一方で小林の主体性が相対化されるシーンも主に恋愛という形で登場するため、その点において『橋』下篇は新文学的な小説をずらす形で成立した「詩的」なテクストであると言える。
第3部は2章構成である。第8章では、施蟄存の新詩論「又関於本刊中的詩」を扱い、同論がときに難解でもある『現代』の新詩を如何なる論理を以て肯定したのか、そしてその際の胆となる「肌理」という概念の内実について分析を行った。同論は新詩が「現代」的であることを言祝いだ文章として知られているが、その「現代」的という評価の根底には、それが作者主体の「現代」的な「情緒」に基づくものだという条件が存在する。また『現代』の詩が詩である根拠として提示される「肌理」という概念にも、作者主体の特権性を前提とする発想が潜んでおり、これらの点において施蟄存の新詩論もまた新文学的な新詩論の発展的継承の産物であると言える。
第9章では、第8章でその内実を明らかにした施蟄存の「肌理」概念を手がかりに、穆時英の小説「暇潰しに使われた男」における男性主人公の主体性とその小説言語の「詩的」な側面との関連について分析を行った。まず穆時英小説の特徴はその断片的で鮮烈な文体のみならず、恋愛における男女の人物形象の差異がストーリーの根幹になっていることにもあるという見解を提示したうえで、「暇潰しに使われた男」が男性主人公の主体形成を描く小説であることを明らかにした。またそのような主体性に強く支配されたテクストにおける断片的で鮮烈なイメージとは、施蟄存の「肌理」概念と照らし合わせるのであれば、「詩的」な小説言語の一例であると見做し得る。
終章では、本論の内容を詩的言語の流通と「主体」の展開の諸相としてまとめたうえで、本論文によって得られた3つの新たな知見、すなわち歴史的な文脈に基づいた中国近代文学における詩的言語の一端の解明、「主体」の問題としての詩的言語という観点、それにより浮かび上がる新たな文学史的視野の3点を示し、また残された今後の課題についても説明を加えた。
以上のように、中国近代文学における詩的言語とは、詩と小説という近代文学的なジャンルやその風格の相違に囚われることなく、「主体」の展開と表裏一体となって流通していた。そして詩的言語は近代的な「主体」を宣言する役割を期待され、「詩的」ではないテクスト以上に「主体」概念と強く結びつく一方で、その過程で必然的に「主体」概念の綻びをも提示することになったのである。
序章ではまず本論文における「主体」および詩的言語の定義を確認したうえで、先行研究の問題点を指摘し、そうした問題を乗り越えるためには新たな文学史的視野を提出することが不可欠であることを論じた。また中国近代文学の詩的言語に関連する「主体」言説として、1980年代の人文学的諸言説、戦後日本の魯迅研究、中国古典文学の批評の3点を挙げ、本論文における議論が持ち得る広がりについて示した。
本論文は第1部「「詩」に拘る新詩論における作家という「主体」」、第2部「廃名の詩論・新詩・小説における詩的言語と「主体」の関係」、第3部「施蟄存詩論および穆時英小説の「肌理」と「主体」の存在」の全3部からなる。
第1部は3章構成である。第1章では、初期郭沫若を代表する新詩論『三葉集』を分析し、詩それ自体への注目、詩人の自我の重視、作者個人の感情に支えられた詩といった郭の新詩観が、果たして先行研究で論じられてきたほどに郭独自のものであったのかという点について分析を行った。詩人という作者主体の個性やそれに固有の経験に支えられることによって新詩は詩となるというのが郭の新詩観であるが、郭の新詩論を胡適、劉半農、兪平伯、周作人といった同時代の文学者たちの文学論と照らし合わせてみると、そのような新詩観が郭独自のものというよりは、当時の新文学の空間において広く共有されたものであったことが明らかになる。
第2章では、詩と散文の間に明確な境界線を引くことを主張した穆木天「譚詩」を分析し、穆にとって詩が詩である所以はどこにあるのか、またそれが穆の象徴詩に対する認識とどのような関係にあるのかについて分析を行った。まず穆木天の新詩論と郭沫若および成仿吾の新詩論との共通点について指摘したうえで、穆にとっても作者の個性や自我こそが詩の根拠として重要な役割を果たしていたことを示した。続けてフランス文学に関する穆の評論を分析し、穆が作者主体の個性と詩の関係を象徴の問題としても捉えていたことを明らかにした。つまり「譚詩」は象徴主義という装いを与えることで、結果的に新文学的な新詩観を温存したのだと言える。
第3章では、1930年代に新しく登場した卞之琳の詩を肯定したことで知られる李健吾の評論「魚目集――卞之琳先生」を取り上げ、同評において、詩人の個性という要素と、詩が生まれた時代環境という要素とが如何なる形で関連付けられ、評価の対象となっているのかについて分析を行った。李健吾もまた詩人という作者主体の個性を重視するのだが、それが郭沫若や穆木天の場合と異なるのは、そうした作者の個性はあくまで「現代」という時代環境において形成されるものだとの認識を示したことである。ゆえに李健吾にとっての優れた新詩とは、個人としての詩人が直面する繁雑な「現代」を表現した詩ということになる。このように李健吾の新詩論もまた新文学的な新詩観を着実に継承しつつも、1930年代に登場した新たな新詩を評価する言説として独自の展開を見せたのである。
第2部は4章構成である。第4章では、廃名の新詩論『談新詩』を取り上げ、廃名が優れた新詩を肯定する際の論理について分析を行った。『談新詩』において廃名が掲げるのは、「新詩の内容は詩の内容でなければならない」というテーゼであるが、その「詩の内容」を担保するものとして廃名が重視したのもまた、作者という主体に具わる個性もしくはそれに固有の経験である。但し廃名にとっては作者主体に由来する個性のほかに、読者主体にとっての可読性という意味での普遍性もまた重要な要素であり、その両者の間でバランスを取ることが理想的であるとされた。廃名もまた穆木天や李健吾とは異なる形で、新文学的な新詩観を発展的に継承したと言える。
第5章では、自作の新詩に対する廃名の評価、廃名の小説に対する同時代評、自身の師にあたる周作人に関する廃名の評論の三つを取り上げ、作者主体の個性が強く発揮されることによって文章は晦渋になるという、三者に共通する論理について分析を行った。廃名は『談新詩』において自らの新詩を取り上げて論じているが、そこで廃名は、自作は普遍性よりも個性に偏っているために難解だと言われるが、だからこそ同時に詩的な完全性を具えているのだと主張する。そしてこの見解と奇妙な符号を見せるのが、廃名の小説は個性的であるがゆえに詩的であり難解であるという同時代評、および周作人の散文は自身の個性との関係を「隔」として捉えているがゆえに得難いという廃名の評価である。こうした論理からは、廃名自身のテクストの難解さの根底にも、新文学的な言説空間以来綿々と続く「主体」が支える詩的言語という認識が流れていたことが分かる。
第6章では、前章の結論を糸口として、本論文で展開してきた新詩論に関する議論を小説言語の詩的な性質というもう一つの課題へと開くことを試みた。本章では廃名を代表する長篇小説『橋』の上篇を扱い、同小説に具わった断片的かつ連続的であるという性質について、男性主人公である小林の、文字を書く主体、風景を眺める主体、想起する主体という三つの側面に注目して分析を行った。『橋』上篇にはヒロインである琴子の主観世界はほとんど登場せず、上述の三つの行為に基づく小林の主観世界の展開がその大部分を占めている。そして各章の内容の独立性が高いにも拘らず、この小林の主体性がそれらを貫く一本の糸として機能することで、断片的でありながらも同時に連続性もまた『橋』上篇には担保されることを示したうえで、そのようなシステムは第5章で論じた個性と詩的言語に関する見解を踏まえた場合には、たしかに「詩的」なものとして読者の眼に映り得ることについても明らかにした。
第7章では、上篇の物語世界の10年後を描く『橋』下篇を扱い、そこに表れる上篇とは異なる形での小林の主体性について分析を行った。この10年の間に小林は大人になったことで厭世的な人物になっているのだが、それに伴い下篇には、上篇では見られなかった女性人物に対するフェティッシュな視線や窃視の快楽、幼少時の想起、詩の読み書きといった、五四新文学以来の先行する恋愛小説に散見される主体としての男性主人公像が顕著に認められる。但し一方で小林の主体性が相対化されるシーンも主に恋愛という形で登場するため、その点において『橋』下篇は新文学的な小説をずらす形で成立した「詩的」なテクストであると言える。
第3部は2章構成である。第8章では、施蟄存の新詩論「又関於本刊中的詩」を扱い、同論がときに難解でもある『現代』の新詩を如何なる論理を以て肯定したのか、そしてその際の胆となる「肌理」という概念の内実について分析を行った。同論は新詩が「現代」的であることを言祝いだ文章として知られているが、その「現代」的という評価の根底には、それが作者主体の「現代」的な「情緒」に基づくものだという条件が存在する。また『現代』の詩が詩である根拠として提示される「肌理」という概念にも、作者主体の特権性を前提とする発想が潜んでおり、これらの点において施蟄存の新詩論もまた新文学的な新詩論の発展的継承の産物であると言える。
第9章では、第8章でその内実を明らかにした施蟄存の「肌理」概念を手がかりに、穆時英の小説「暇潰しに使われた男」における男性主人公の主体性とその小説言語の「詩的」な側面との関連について分析を行った。まず穆時英小説の特徴はその断片的で鮮烈な文体のみならず、恋愛における男女の人物形象の差異がストーリーの根幹になっていることにもあるという見解を提示したうえで、「暇潰しに使われた男」が男性主人公の主体形成を描く小説であることを明らかにした。またそのような主体性に強く支配されたテクストにおける断片的で鮮烈なイメージとは、施蟄存の「肌理」概念と照らし合わせるのであれば、「詩的」な小説言語の一例であると見做し得る。
終章では、本論の内容を詩的言語の流通と「主体」の展開の諸相としてまとめたうえで、本論文によって得られた3つの新たな知見、すなわち歴史的な文脈に基づいた中国近代文学における詩的言語の一端の解明、「主体」の問題としての詩的言語という観点、それにより浮かび上がる新たな文学史的視野の3点を示し、また残された今後の課題についても説明を加えた。
以上のように、中国近代文学における詩的言語とは、詩と小説という近代文学的なジャンルやその風格の相違に囚われることなく、「主体」の展開と表裏一体となって流通していた。そして詩的言語は近代的な「主体」を宣言する役割を期待され、「詩的」ではないテクスト以上に「主体」概念と強く結びつく一方で、その過程で必然的に「主体」概念の綻びをも提示することになったのである。