本博士論文では、明治8年から18年にかけて、日本海運業をけん引した「郵便汽船三菱会社」を対象として、主にその組織と人材に着目しつつ一次史料に基づいて検討を行った。全体は、序章・第1章~第8章、終章、という全10章構成となっている。
序章では、「郵便汽船三菱会社」をめぐる先行研究の状況とその課題を概略し、本博士論文で筆者が目指す郵便汽船三菱会社像を提起した。郵便汽船三菱会社研究は、経済史研究の中ではその後の「三菱財閥」につながる蓄積がなされた時期と位置付けられ、「三菱財閥前史」として分析されてきた。近代日本海運業史研究の観点からは、日本海運の対外自立に果たした役割の大きさと意義が実証的に明らかにされ、また近年は三菱史料館の開館による史料状況の劇的な改善によって急速に研究が進展しつつある。
それらの研究の知見を活かしたうえで、本博士論文では一次史料を幅広く丁寧に閲覧し、郵便汽船三菱会社の担い手とその現場の実態を明らかにすることをめざした。その際に特に重要視したのが、「学者」たちの企業としての郵便汽船三菱会社という視点である。郵便汽船三菱会社は、慶應義塾の出身者=「学者」を早い時期から登用したことでも知られている。福沢諭吉は、それを自身の教育・人材育成の成功事例と位置付けた。一方で、そのような人材が具体的にどのような仕事に従事したのか、といった点は、これまで実証研究として分析されたことはほとんどない。同時に、当時の郵便汽船三菱会社は、同時代の日本社会では例をみないほど「多様」な人々が集い協力することで業務を成立させていた。汽船の運用を担う船長など高級船員の担い手となる欧米人、船舶運用を下支えする清国人、さらには各地で荷主から貨物を集める業務に従事する取次人など、様々なバックボーンを持つ人材が郵便汽船三菱会社を支えていた。彼らの姿を、そして直面した現実を可能な限り追跡する。本論文では、「創業者であり革命児でもあった岩崎弥太郎の産物」でも「政府の支援によってのみ成立しうる国策企業」でもなく、そして「三菱財閥の前史」でも「福沢諭吉の教え子たちの舞台装置」でもない、郵便汽船三菱会社という1企業を、そしてその中で働いていた様々な人々の姿を、一次史料に基づいて丁寧に分析するものである。
第1章では、郵便汽船三菱会社が明治11年から14年までの時期に設けた「調役」という組織に着目し、郵便汽船三菱会社に入社した人材が担った職務を検討した。社内全体を役職として「調査」観察することを通して、監査と人材教育という側面を持っていた職務を分析し、この時期の郵便汽船三菱会社の運営と人材育成を検討した。
この職務には、前述した「学者」とも呼べる慶應義塾などの教育機関で学んだ経歴を持つ人材が多く登用されていた。彼らは入社してすぐにこの職務につき、会社全体の業務に触れた。この職種は、ある種の新人教育的な側面も持っていた。「調役」で経験を積んだ彼らは、その後支社支配人など郵便汽船三菱会社運営の中で重要な役割を担った。
第2章では、全国に展開した支社運営の中心である、支社支配人に着目した。その役職に登用された人材とその職務、在任期間などを通して、短期間に全国展開した企業運営の在り方を分析した。支社の支配人には、第1章で述べた「調役」に登用された慶應義塾出身者などが多く起用された。同時期の郵便汽船三菱会社は、日本全国に支社を拡大させる途上にあり、支社の運営の中心を担う支配人や副支配人への負担は高まっていた。そのような状況に対して、上述してきたような人材を起用することで対応していた。このような支配人は、同一支社への在任期間が長期化していく傾向にあった。支社運営における支配人への依存度の高まりを示す事例といえる。支配人たちは、郵便汽船三菱会社が共同運輸と合併し日本郵船となった後も、支社の支配人として業務を支え続けた。
第3章と第4章では、海運企業としての基本である、顧客・荷物を集めて船に乗せるという実務のありようについて論じた。第3章では、荷物集めの実務を担った、「取次人」に焦点をあてて分析を行った。郵便汽船三菱会社は、各地の港で荷主から貨物を集めて船に搭載する業務や乗客の乗船手続きなどを行う「取次人」と呼ばれる人々を組織化していた。本章では、東京都公文書館所蔵史料を活用し、取次人の姿を分析した。彼らの多くは、地域社会の中で中小の運送業や旅館業を営む人々で、副業として取次人を行っていた。それゆえ彼らは巨大企業・郵便汽船三菱会社に依存するわけではなく、自治的な組合を結成し活動していた。郵便汽船三菱会社の業務は、そのような社外に存在する人々の力にも支えられ成立していたのである。
続く第4章では、郵便汽船三菱会社が顧客から預かった荷物を運搬の途中で毀損するなどの事故処理への対応を検討した。海運業の中で最もありふれたトラブルの処理の様相を分析することで、当時の業務の実相に迫ろうとした。社内史料の分析から見えてくるのは、きわめて膨大な貨物の損失事故の発生とそれに対する荷主の発生である。それに対して、現場の社員のみならず、各支社の支配人などもその責任を問われている。なぜそのようなトラブルが頻発するのかを、貨物の取り扱いをめぐる本社の指示の取り扱い、具体的には「手銛」という道具の使用禁止から検討した。そこからうかがえるのは、本社の組織強化といわれる状況とは裏腹に、現場に指示を徹底させることに苦労する企業の姿である。その背景としては、貨物の積み込みといった業務について、人足集めなども含め「取次人」に依存している状況があった可能性を指摘した。
この第3・4章は、「学者」たちの海運業の現場での実情を示すものである。教育を受けた優秀な人材は決して現場で万能ではなく、取次人のような人々に時に依存し翻弄されつつ業務を進めていったのである。
郵便汽船三菱会社に勤務した多様な人々の姿を描き出すのが、第5章から第8章である。第5章では、郵便汽船三菱会社の大きな特徴でもある外国人職員について、東京都公文書館に所蔵されている史料に基づき再検討を行った。先行研究でその存在が指摘された外国人職員について、彼らが居住する東京府の側に残された史料を活用して分析する。企業の内部ではなく、外部の史料を通して、「外国人」の分析をより深めようとした。東京府は居住する外国人を管轄する責務を負っていた。そのため外国人の史料も企業の内部に残るものだけではわからない事実関係が明らかとなる。具体的には、外国人雇用について当時の日本の官庁や企業の通例とは異なり「無期」限での雇用を行っていたことや、きわめて多数の清国人が船舶職員として勤務していた点が明らかになった。
続く第6章では、第5章の発見を受けて、外国人職員の中でも多数を占めていた、清国人について検討を行った。明治初頭の日本では、清国人は「籍牌」制度の中で日本に在住し労働していた。清国人は「外国人」といっても欧米人とは異なる枠組みで法的にも、郵便汽船三菱会社の内部でも扱われており、その運用は時に支社などとも連携を取りつつ行う必要があった。
第5・6章では、郵便汽船三菱会社に集った多様な人々の中でも、外国人に光を当てた。それに対し第7,8章では、三菱が学校経営によって自ら育成した人材について検討した。第7章では、三菱商船学校に着目し、明治初頭における高級船員(船長・運転士・機関士)育成と郵便汽船三菱会社について分析した。
当時の日本社会では、高級船員は人材不足の状況で、外国人に依存していた。そのような状況を打開するため、国の支援もあり三菱商船学校を創設し船員育成に取り組んだ。その成果により、運転士レベルでは三菱商船学校の卒業生が多数を占めるようになった。一方で船長・機関士については、育成は順調に進まなかった。その理由としては、船長に必要な免状の獲得には一定期間の乗船経験が必須であったため郵便汽船三菱会社時代には育成が間に合わなかったこと、機関士の場合は三菱商船学校の機関科の設置が遅れたことなどが影響したと考えられる。三菱商船学校による船員教育は、課題はありつつも一定の成果をあげた。
第8章では、三菱商業学校を通して、この時期における企業による学校経営の試みと限界を分析した。三菱商業学校は、慶應義塾出身の人材に運営を任せ高度な商業教育を掲げてスタートしたが、その時々の担当者の方針によって教育方針などが頻繁に変化した。学校で学んだ人々も、郵便汽船三菱会社に採用されることは多かったが、定着することは少なかった。「学者」の事業の限界を示す事例ともいえよう。
終章では、第1章から第8章までを通して得られた知見をまとめなおすとともに、日本史研究の中で「郵便汽船三菱会社」を研究することの意義を検討した。「人」に丹念に注目することを通して、学識などに優れた人物たちが一方的に主導するのではなく、彼らが現場で様々な立場階層の人々と試行錯誤し相互作用的に影響を及ぼしながら近代化を進めていく過程の一端を描き出すことができた。そしてそれこそが、「郵便汽船三菱会社」という企業活動を日本史学において分析する意義であると考えている。
序章では、「郵便汽船三菱会社」をめぐる先行研究の状況とその課題を概略し、本博士論文で筆者が目指す郵便汽船三菱会社像を提起した。郵便汽船三菱会社研究は、経済史研究の中ではその後の「三菱財閥」につながる蓄積がなされた時期と位置付けられ、「三菱財閥前史」として分析されてきた。近代日本海運業史研究の観点からは、日本海運の対外自立に果たした役割の大きさと意義が実証的に明らかにされ、また近年は三菱史料館の開館による史料状況の劇的な改善によって急速に研究が進展しつつある。
それらの研究の知見を活かしたうえで、本博士論文では一次史料を幅広く丁寧に閲覧し、郵便汽船三菱会社の担い手とその現場の実態を明らかにすることをめざした。その際に特に重要視したのが、「学者」たちの企業としての郵便汽船三菱会社という視点である。郵便汽船三菱会社は、慶應義塾の出身者=「学者」を早い時期から登用したことでも知られている。福沢諭吉は、それを自身の教育・人材育成の成功事例と位置付けた。一方で、そのような人材が具体的にどのような仕事に従事したのか、といった点は、これまで実証研究として分析されたことはほとんどない。同時に、当時の郵便汽船三菱会社は、同時代の日本社会では例をみないほど「多様」な人々が集い協力することで業務を成立させていた。汽船の運用を担う船長など高級船員の担い手となる欧米人、船舶運用を下支えする清国人、さらには各地で荷主から貨物を集める業務に従事する取次人など、様々なバックボーンを持つ人材が郵便汽船三菱会社を支えていた。彼らの姿を、そして直面した現実を可能な限り追跡する。本論文では、「創業者であり革命児でもあった岩崎弥太郎の産物」でも「政府の支援によってのみ成立しうる国策企業」でもなく、そして「三菱財閥の前史」でも「福沢諭吉の教え子たちの舞台装置」でもない、郵便汽船三菱会社という1企業を、そしてその中で働いていた様々な人々の姿を、一次史料に基づいて丁寧に分析するものである。
第1章では、郵便汽船三菱会社が明治11年から14年までの時期に設けた「調役」という組織に着目し、郵便汽船三菱会社に入社した人材が担った職務を検討した。社内全体を役職として「調査」観察することを通して、監査と人材教育という側面を持っていた職務を分析し、この時期の郵便汽船三菱会社の運営と人材育成を検討した。
この職務には、前述した「学者」とも呼べる慶應義塾などの教育機関で学んだ経歴を持つ人材が多く登用されていた。彼らは入社してすぐにこの職務につき、会社全体の業務に触れた。この職種は、ある種の新人教育的な側面も持っていた。「調役」で経験を積んだ彼らは、その後支社支配人など郵便汽船三菱会社運営の中で重要な役割を担った。
第2章では、全国に展開した支社運営の中心である、支社支配人に着目した。その役職に登用された人材とその職務、在任期間などを通して、短期間に全国展開した企業運営の在り方を分析した。支社の支配人には、第1章で述べた「調役」に登用された慶應義塾出身者などが多く起用された。同時期の郵便汽船三菱会社は、日本全国に支社を拡大させる途上にあり、支社の運営の中心を担う支配人や副支配人への負担は高まっていた。そのような状況に対して、上述してきたような人材を起用することで対応していた。このような支配人は、同一支社への在任期間が長期化していく傾向にあった。支社運営における支配人への依存度の高まりを示す事例といえる。支配人たちは、郵便汽船三菱会社が共同運輸と合併し日本郵船となった後も、支社の支配人として業務を支え続けた。
第3章と第4章では、海運企業としての基本である、顧客・荷物を集めて船に乗せるという実務のありようについて論じた。第3章では、荷物集めの実務を担った、「取次人」に焦点をあてて分析を行った。郵便汽船三菱会社は、各地の港で荷主から貨物を集めて船に搭載する業務や乗客の乗船手続きなどを行う「取次人」と呼ばれる人々を組織化していた。本章では、東京都公文書館所蔵史料を活用し、取次人の姿を分析した。彼らの多くは、地域社会の中で中小の運送業や旅館業を営む人々で、副業として取次人を行っていた。それゆえ彼らは巨大企業・郵便汽船三菱会社に依存するわけではなく、自治的な組合を結成し活動していた。郵便汽船三菱会社の業務は、そのような社外に存在する人々の力にも支えられ成立していたのである。
続く第4章では、郵便汽船三菱会社が顧客から預かった荷物を運搬の途中で毀損するなどの事故処理への対応を検討した。海運業の中で最もありふれたトラブルの処理の様相を分析することで、当時の業務の実相に迫ろうとした。社内史料の分析から見えてくるのは、きわめて膨大な貨物の損失事故の発生とそれに対する荷主の発生である。それに対して、現場の社員のみならず、各支社の支配人などもその責任を問われている。なぜそのようなトラブルが頻発するのかを、貨物の取り扱いをめぐる本社の指示の取り扱い、具体的には「手銛」という道具の使用禁止から検討した。そこからうかがえるのは、本社の組織強化といわれる状況とは裏腹に、現場に指示を徹底させることに苦労する企業の姿である。その背景としては、貨物の積み込みといった業務について、人足集めなども含め「取次人」に依存している状況があった可能性を指摘した。
この第3・4章は、「学者」たちの海運業の現場での実情を示すものである。教育を受けた優秀な人材は決して現場で万能ではなく、取次人のような人々に時に依存し翻弄されつつ業務を進めていったのである。
郵便汽船三菱会社に勤務した多様な人々の姿を描き出すのが、第5章から第8章である。第5章では、郵便汽船三菱会社の大きな特徴でもある外国人職員について、東京都公文書館に所蔵されている史料に基づき再検討を行った。先行研究でその存在が指摘された外国人職員について、彼らが居住する東京府の側に残された史料を活用して分析する。企業の内部ではなく、外部の史料を通して、「外国人」の分析をより深めようとした。東京府は居住する外国人を管轄する責務を負っていた。そのため外国人の史料も企業の内部に残るものだけではわからない事実関係が明らかとなる。具体的には、外国人雇用について当時の日本の官庁や企業の通例とは異なり「無期」限での雇用を行っていたことや、きわめて多数の清国人が船舶職員として勤務していた点が明らかになった。
続く第6章では、第5章の発見を受けて、外国人職員の中でも多数を占めていた、清国人について検討を行った。明治初頭の日本では、清国人は「籍牌」制度の中で日本に在住し労働していた。清国人は「外国人」といっても欧米人とは異なる枠組みで法的にも、郵便汽船三菱会社の内部でも扱われており、その運用は時に支社などとも連携を取りつつ行う必要があった。
第5・6章では、郵便汽船三菱会社に集った多様な人々の中でも、外国人に光を当てた。それに対し第7,8章では、三菱が学校経営によって自ら育成した人材について検討した。第7章では、三菱商船学校に着目し、明治初頭における高級船員(船長・運転士・機関士)育成と郵便汽船三菱会社について分析した。
当時の日本社会では、高級船員は人材不足の状況で、外国人に依存していた。そのような状況を打開するため、国の支援もあり三菱商船学校を創設し船員育成に取り組んだ。その成果により、運転士レベルでは三菱商船学校の卒業生が多数を占めるようになった。一方で船長・機関士については、育成は順調に進まなかった。その理由としては、船長に必要な免状の獲得には一定期間の乗船経験が必須であったため郵便汽船三菱会社時代には育成が間に合わなかったこと、機関士の場合は三菱商船学校の機関科の設置が遅れたことなどが影響したと考えられる。三菱商船学校による船員教育は、課題はありつつも一定の成果をあげた。
第8章では、三菱商業学校を通して、この時期における企業による学校経営の試みと限界を分析した。三菱商業学校は、慶應義塾出身の人材に運営を任せ高度な商業教育を掲げてスタートしたが、その時々の担当者の方針によって教育方針などが頻繁に変化した。学校で学んだ人々も、郵便汽船三菱会社に採用されることは多かったが、定着することは少なかった。「学者」の事業の限界を示す事例ともいえよう。
終章では、第1章から第8章までを通して得られた知見をまとめなおすとともに、日本史研究の中で「郵便汽船三菱会社」を研究することの意義を検討した。「人」に丹念に注目することを通して、学識などに優れた人物たちが一方的に主導するのではなく、彼らが現場で様々な立場階層の人々と試行錯誤し相互作用的に影響を及ぼしながら近代化を進めていく過程の一端を描き出すことができた。そしてそれこそが、「郵便汽船三菱会社」という企業活動を日本史学において分析する意義であると考えている。