本論文は、明治前期から昭和初期にかけての米穀生産力の向上と、それに伴う農村の社会経済的な変化を近代日本における農業革命と捉え、機械技術は農業革命にいかなる影響を与えたのか、という問題意識を根底に、近代日本の土地改良と農業用揚水機の関係を分析した。機械揚水技術の導入と展開を通して、近代日本の農業・農村はいかなる変化を経験したのか具体的に示し、その歴史的な意義を論じた。
 本論文は7章4部からなる。第1部の課題は、機械揚水技術の導入過程を明らかにすることであり、日本農業への揚水機導入の経緯と担い手を検討した(第1章)。第2部の課題は、概ね日露戦後から機械揚水技術が本格的に展開した背景を探ることであり、技術者養成のあり方(第2章)と、法制度の変化(第3章)を考察した。第3部では、機械揚水技術の展開は農業・農村にいかなる変化をもたらしたのか、時期ごとの特徴を踏まえて検討した(第4章・第5章)。第4部の課題は、機械揚水技術による地域編成の変化を明らかにすることであり、地域編成の論理が新技術によって変化したこと(第6章)や、技術の進展に応じて社会の機構化が促進される過程と、その担い手を検討した(第7章)。
 第1章では、明治20年代半ばから30年代前半にかけての農政と技術革新の関係を、機械排水技術の導入に対する農商務省の姿勢から検討した。農商務省は「西洋での成功事例」を根拠に機械排水事業を奨励しており、機械を西洋から輸入すること以上の技術指導を行う意思も能力も有さなかった。機械排水事業に用いられた機械の開発や製造を担ったのは民間の機械製造所で、その出資者は名望家を軸とした栃木県下都賀郡谷中村の地主らだった。農商務省は新技術導入のリスクとコストを直接負担するのは民間の地主=土地所有者とする方針をとった。そのため、コスト削減の観点から新技術の国産化が谷中村の地主らによって模索・推進されたものの、その過程で生じた多大な負担は、新技術を希求していた地主ら自身が背負ったと考察した。
 第2章では、農商務省が理論的かつ体系的に機械揚水の技術指導を行い得るようになった歴史的過程を、木下弥八郎の足跡をたどることで検討した。木下は、明治30年代前半に国内の高等教育機関において農学と工学の学理を修得した農業土木の専門家だった。木下は学理を平易な言葉で普及させることに長けた教育者でもあり、耕地整理講習における農業用揚水機に関する講義内容は、若手からベテランに至る幅広い層の技術者から支持された。明治後期以降の機械揚水事業は、木下の講義とその筆記録から多大な影響を受けて形成されたのであり、学理に依拠した技術教育の展開を前提に、農商務省は概ね日露戦後期から各府県の技術者を直接的な担い手として、機械揚水の技術指導を理論的・体系的に行い得るようになったと論じた。以上を踏まえ、講習によって技術を再生産する手法は、その後の都市計画にも継承されたと考察し、官僚制における技術の再生産構造の連続性を農業土木の視点から展望した。
 第3章では、戦前の日本資本主義の特質を示すものとして盛んに分析が行われてきた耕地整理法の性格を、技術的な側面から再検討した。具体的には、地主的な利害を反映したものとして通説的に把握されてきた耕地整理法の改正は、明治30年代以降における機械揚水技術の進歩と、それに伴う耕地整理事業の大規模化という、技術的な論理に即して行われたのではないか、という分析視角から農商務省による法改正の意図を探った。分析の結果、耕地整理法を近代日本における土地改良事業の基本法へと昇華させた明治42年の法改正は、農業土木の技術的な論理を優先した農商務省や技術者の法解釈と、国家財政を重視した大蔵省の姿勢との対立を背景に、耕地整理法と地租条例との矛盾解消を意図して行われたことが明らかとなった。また、従って法改正を根拠に農政の姿勢を地主的と評価することはできないと考察した。以上を踏まえ、技術的な観点から農政や土地制度のあり方を考察する分析視角は、近代日本における資本主義の特徴を再考するうえにおいて有効な視座となることを示した。
 第4章では、明治後期から大正前期の千葉県東葛飾郡を事例に、水害常襲地は排水機の利用によって湛水被害を受けない安定した湿田に改良されたことを明らかにした。そして、機械排水は水田稲作における土地生産性の飛躍的な向上をもたらしたことを論じ、乾田牛馬耕や三要項を主要な技術的構成要素とした明治農法による土地生産性の向上を相対化した。これを踏まえて、近代日本における工業化や資本主義化の進展は、近代技術によって近世以来の在来農法の安定化と生産力向上がもたらされたことによって導かれたと考察した。なお、機械排水が地域社会にもたらした効果は、土地生産性の向上のみではなかった点も指摘した。すなわち、機械排水は農業経営の効率性や安全性を向上させることによって、品種の改良・統一、堆肥の製造・施肥への意欲向上といった農事改良の進展や、様々な産業上の組合形成など、各種の産業振興の前提条件を形成した。このように、地域社会において機械排水は多岐にわたる効果を発揮したため、地域の人々にとって排水機の存在は重要な意味を有したことも論じた。
 第5章では、戦間期における工業化の進展は、農業や農村にいかなる影響を与えたのかを考察する手がかりとして、大井手普通水利組合を主体に佐賀平野で展開した電気灌漑事業と、同事業に電力を供給した電気事業者との電力需給関係を分析した。分析の結果、電気事業者は同事業を契機に農事電化の振興を本格化したことが明らかになった。また、電気事業者による農事電化の振興は、望み得る限り最も低廉な電力へ農民がアクセス可能になったことを意味し、その意味において電気事業者による農事電化の発見は、農業への電力利用を希望する農民にとって前進だったと考察した。以上を踏まえ、大井手普通水利組合による電気灌漑事業の歴史的な意義は、それが単に「佐賀段階」に象徴される農業生産上の画期をもたらしたにとどまらず、農業における電力利用の本格化を導いた点にも求められると指摘した。そして、佐賀平野で展開した電気灌漑事業は、農業用電動機普及の契機となり、戦間期における日本農業の機械化を促進したと論じ、戦間期の農業は工業化の成果を活用してその生産力を向上させたと考察した。
 第6章では、近代技術の共有関係という新しい地域編成の論理によって、水利組合のあり方はいかなる影響を受けたのかを大井手普通水利組合を事例に分析した。分析の結果、大井手普通水利組合の電気灌漑事業は、電力ネットワークの共有関係を契機に結びついた経済的機能集団を実質的な主体としたことが明らかとなった。大井手普通水利組合は、水系の共有関係を軸とした近世以来の地域編成と、技術の共有関係を軸とした新しい地域編成という相互に異なる区域を包含することとなり、二重構造化した。当初は明確だったこの二重構造性は次第に不明確なものとなり、組合の事業目的は主客転倒してポンプの維持・管理へと転換した。すなわち、電気灌漑を契機に、大井手普通水利組合は近世的な農業水利組織としての性格を後退させ、技術の経済的な利用を第一義とした経済的機能集団としての性格を強めたと論じた。以上を踏まえ、戦間期における農事電化の進展は、技術の共有関係を軸とする新しい地域編成の論理が農村へ普及・浸透したことを示唆していると考察した。
 第7章では、用排水幹線改良事業(用排水改良事業)の土地改良制度史上における意義を、東葛北部用排水改良事業の事例分析を通じて再考した。先行研究は、地主の水利土木事業に対する主体性の喪失を背景に用排水改良事業は開始され、それによって水利慣行は否定されるとともに、国家あるいは府県・市町村の主体性が前景化したことが事業の意義であると評価してきた。これに対して本章は、用排水改良事業の実施に際しては水利慣行が尊重されており、地主は積極的に事業に関与して主体性を発揮していたことを論じた。また、事業地区の農業水利体系は事業を契機に再編成されたことを明らかにして、それを技術的に可能としたのは戦間期における渦巻ポンプ製造の技術的進歩にあったと指摘した。以上を踏まえ、機能主義的な論理による地域社会の機構化という、戦間期以降に顕著な社会秩序の変化は、機械技術の進歩によって促進されたと考察した。
 以上、各章で論じたことを踏まえ、近代日本では機械揚水によって農政や土地制度に変化が生じ、明治農法に依拠せずとも在来農法の基盤上に農業生産力は向上したほか、地域社会の新たな編成論理も登場したとまとめた。そして、機械揚水という土地改良上の新技術の導入と展開に応じて、様々な社会経済的な変化が農業・農村にもたらされたと指摘し、近代日本の農業革命は機械揚水技術を抜きにしては語れないという結論を得た。