本論文では近世後期日本の貨幣制度が変革され,近代的な貨幣統一が進んだ過程(主に1859年~1881年)を検討した。近世後期の日本貨幣は,地金価値からかなり離れて信用を獲得しており,地金価値と額面価値が乖離するとともに,乖離幅に差がある多種多様な貨幣が流通していた。近世後期の幣制は,閉鎖経済体制を前提に,低インフレ率による貨幣価値の安定,貴金属量の制約を抑えた弾力的な貨幣供給の両者を可能とする高度な発達を遂げていた。しかし,開放経済体制下では,金属価値に比べ割安な貨幣が輸出され尽くしてしまうため,存続することは不可能で,段階的に経済政策による修正を受けていった。
本稿の構成及び主要な内容は以下の通りである。
序章
第1章 幕末の金貨流出と貨幣制度改革
第2章 幕末における広義の銭貨価格の変容~長崎の銭貨密貿易と銭貨供給策を中心に~
第3章 明治前期における銭貨流通と通貨圏
第4章 明治初期金本位制の意義と限界
第5章 明治初期の貨幣流出と貨幣不足問題~関税納入用銀貨問題を中心に~
第6章 明治維新期のインフレーションと「予想」
第7章 末期大隈財政における正貨予算編成と正貨流出抑制政策
第8章 明治14年の政変前夜における金融政策の構想と展開
終章
1.明治維新期の幣制の解釈
本稿では明治維新期の幣制を,多種多様な貨幣が流通していたことを踏まえ,近代的な統一が成立する途上の,貨幣が競争的あるいは補完的な関係を持つものとして捉えた。その上で,価格差を中心に,貨幣間の関係や役割の違いを重視して,多種多様な貨幣の歴史的展開を示し,それぞれが重要な役割を果たしてきたと論じた。
金貨については,天保小判・一分判の額面価格(貨幣が持つ名目的な購買力)を引き上げた万延の幣制改革では,額面と金含有量が対応していない金貨が残され,部分的な改革に留まった。価格調整の進まなかった天保二朱金などの金貨は流出に悩ませられ続け,通説の想定より大量の金貨が流出した。しかし,貨幣発行益を生む構造が温存され,万延二分金が大量に製造された。慶応期には金貨価格の再調整が進み,包括的な幣制改革が実施された。明治初期には金本位制が志向され,一時金貨が価値基準となったが,国際的な金高銀安によって価格が混乱した。
銀貨についても,法律上の額面価格と銀含有量がおおよそ一致していた安政一分銀と洋銀の間にすら相場が立ち,それぞれが固有の役割を果たした。安政一分銀は,明治維新期に実効関税率を抑えるため,特に関税納入で多用された。他方,対外決済に利用された洋銀は,過剰であった幕末期には幕府の貨幣発行益の源泉となり,不足した明治期には国内に浸透して通貨圏を混乱させ,物価に影響すると考えられた。
さらに,本稿では,庶民の日常的な現金決済に利用されていた銭貨に注目した。銭貨は幕末に大量に流出して,小額貨幣不足となり,国際水準に適応するために劇的な価格変化を遂げた。銭貨の価格変動は激しい最幕末のインフレの原因となりつつ,円・銭・厘による近代的十進法への移行を容易にしたと思われる。銭貨の中でも,寛永銅一文銭と天保銅百文銭に対する価格や市場の反応,政策,通貨圏などはそれぞれ異なっており,貨幣種別の差異が当時の幣制にとっては重要であった。
紙幣についても,政府紙幣である太政官札発行直後の明治元年には政府への信認を欠き価格が下落したものの,政策方針の修正や贋万延二分金問題によって価格は回復した。西南戦争以前には比較的紙幣価格が安定し金本位制を実現せしめたが,明治7・8年頃には金需要の増大によって,金兌換紙幣の価格が混乱した。西南戦争後には,紙幣発行高の急増によって価格が大きく崩れ,その乖離幅が物価上昇率と近似するようになり,紙幣償却政策が課題となっていった。
2.近代的貨幣統一の過程
本稿では近代的貨幣統一を①政策的統一,②地理的統一,③垂直的統一の3つの基準に整理した。明治維新期の幣制は短期的な混乱を経験しながらも,長期的に見れば近代的統一が進んだ。
まず①については,通貨の種類は多様であったものの,幕府が金銀貨の発行をほぼ独占し,藩札の発行高を制限し,緩やかな統合がなされていた近世後期から,通商開始以降混乱が見られた。例えば,諸藩による贋万延二分金の密造,明治元年頃の特定地域のみを目的とした金融政策,改正後に制御しきれなかった国立銀行紙幣増発が挙げられる。さらに,国際市場や外交から生じた「外圧」によって,経済政策や貨幣制度設計の裁量性は一貫して制約された。例えば明治初期の金本位制は,国際的な金高銀安に対応した制度変更を,国際収支上不利であった上,条約改正が必要であったため実施することができず,断念されていった。他方で,新貨条例によって,円・銭・厘による価値尺度が定められ,普及していった。加えて,造幣局が作られ,近代的貨幣が製造され,旧幕府貨幣や藩札は回収や輸出を進めることで,市場から退出させた。紙幣発行についても,明治14年政変前夜には集中的な発券業務を担う中央銀行の設立が準備された。
②については,価格変動に応じ,多種多様な貨幣が特に日中間で取引されていた。開港後に寛永銅一文銭は中国に密輸されたが,慶応期に大幅な価格調整を受けた結果,明治初期に日本に再輸入され,明治10年代には再び日本から輸出された。対英国でも,金銀比価の変動に伴って,日本に持ち込まれる貨幣や輸出される貨幣に選択が生じていた。そのため,海外から国内への貨幣的ショックが危惧され,例えば大隈重信大蔵卿は旧幕府銭貨を輸出あるいは鋳潰して,欧米風のデザインの新銅貨を充足させることで通貨圏を分断した。なお,国内では貨幣相場の地域差が最幕末に拡大し,地理的統一性は混乱したが,明治政府は銀行や資本市場を育成し,金融市場の国内統一を進め,効率性を高めていった。
③については,近世特有の幣制の維持を慶応期には断念していった幕府は,改税約書で額面価格と地金の含有量が一致する貨幣制度への修正に合意し,包括的な金貨・銭貨の額面価格改定を進めた。明治政府も額面価格改定をさらに進め,新たに旧貨幣の流通を認める一方,両匁相場を廃止し(以上慶応の幣制改革),両文相場をも統制した。さらに,新貨条例で価値尺度と本位貨幣を定め,貨幣間の価格を安定させようと努めた。最初期の金本位制による垂直的統一は上手くいくかに見えたが,国際的な金高銀安により断念されていった。西南戦争前には紙幣価格は安定していたが,金需要の増大が垂直的統一の弊害となった。紙幣が大幅に増発された西南戦争後には紙幣価格が金銀価格と乖離したため,その乖離を抑制するために大隈によって金融引締・緊縮財政政策がなされた。その結果,インフレ抑制と国際収支均衡には見通しが立ったが,金属貨幣と紙幣の価格差の消滅は課題として残された。
3.経済政策の特徴
日米修好通商条約では銭貨を除き日本貨幣の輸出が自由化されたが,貨幣の品位を問わず,重量のみを比べて価格を決定するという稚拙な内容であった。この規定は,当初から問題視されて,幕末から明治初期の外交において貨幣が主要な争点となった。また,明治維新期の代表的な経済危機は国際収支危機と貨幣の流出であった。こうした問題に主に対応したのが中央政府であると評価する本稿は,その経済政策を分析した。
金融政策に関しては,政策金利の調整を中心とするいわゆる「伝統的金融政策」とは異なる,多様な形態による金融政策が行われていた。例えば,紙幣償却に際し,大隈は市場とのコミュニケーションを重視し,「予想」インフレ率の抑制を図るとともに,明治14年政変直前期にはある種の公開市場操作を構想した。
物価の安定と政府の貨幣発行益にはトレードオフがあったため,金融と財政の一体性が高かった明治維新期には,貨幣発行益のために,貨幣供給量が急増した例が目立った。万延の幣制改革では勘定奉行小栗忠順らは貨幣発行益のために,国内貨幣制度改革を限定的な範囲に留め,万延二分金の大量製造による貨幣発行益を獲得した。慶応期の天保百文銭の大量供給も貨幣発行益を志向したものであった。戊辰戦争と西南戦争の戦費のために政府紙幣が新規発行あるいは増発され,貨幣制度や物価には混乱が生じた。
西南戦争以前にデフレ不況に直面した大隈は,歴史的推移や外国との比較などによって,日本が貨幣供給量不足であるという危機感を深めた。単純な不換紙幣増発には慎重な態度であったものの,税関収納貨幣の変更などが検討され,最終的には国立銀行紙幣の増発に踏み切った。加えて,当時の市場では貨幣の重量・品位,額面価格や貨幣相場によって,物価が上下すると「予想」されており,政府は貨幣間の関係を安定化させようと努めた。紙幣と金貨と銀貨,加えて旧幕府貨幣や公債との関係も明治期に政策上の争点となり,大隈は旧幕府貨幣の再流通を重視するとともに,金銀銅の輸出入や洋銀相場,債券市場に参入を試み,た。大隈は財政改革も行って,明治十四年政変前には,財政予算・決算は通貨種別に行なわれるようになり,金銀貨による歳出,あるいは対外歳出を特に抑えようとした。貨幣供給量の減少を抑えつつ,国際収支を改善しようとしていたと考えられる。このように通貨種別の固有の価格変化が大きくなりうる貨幣市場を前提とする明治維新期の経済政策では,貨幣の種類に対する政策が重要な意味を持っていたことが指摘できる。近代的な貨幣統一は貨幣供給量の過度の収縮につながる危険性をはらんでおり,短期的にはデフレ不況を抑えながら,統一的な金融政策が可能となる幣制が長期的には目指された。