本研究は、大乗仏教経典の一つである『楞伽経』を研究対象とする。
 インド大乗仏教には瑜伽行派と中観派の二つの学派があった。瑜伽行派は唯識派とも呼ばれ、あらゆる存在は心の現れにほかならない(一切唯識)と説いている。一方、中観派は、すべての存在はその固有の本質を持たず、空であると主張する。『楞伽経』では、これら一見すると異質的な二つの学派の教理が絡み合って説かれている。さらにこれに加えて、大乗仏教にはあらゆる衆生が仏性を本来的に備えているとする如来蔵思想がある。『楞伽経』は、如来蔵と、唯識思想が説く潜在的な認識(アーラヤ識)を同一視することによって、如来蔵思想と唯識思想の間に架橋した。このように、『楞伽経』は大乗仏教の教義の集大成となる経典と見なされているが、その位置づけを明確にすることは非常に困難であるとされている。
 上記の課題に対して、本研究は、次の二点に焦点を当てて考察している。
   第一部 『楞伽経』の唯識思想
   第二部 『楞伽経』の唯識思想と如来蔵思想の融合
 『楞伽経』の唯識思想について、先行研究では、同経は瑜伽行派と同様に八識説を提示しているものの、その唯識思想は従来の瑜伽行派文献の唯識思想とは異なるとされてきた。特に、『楞伽経』ではマナス(自我意識)についてほとんど触れず、意識がアーラヤ識やマナスのような機能を果たす、と説いていることが指摘されている。さらに、識の生住滅、転相・業相・生相、顕識と分別事識といった教説は、ほかの瑜伽行派文献にはほとんど見られない。そのため、瑜伽行派の唯識思想と異なる要素が存在するとされている。
 第一部では、まず、『楞伽経』の「分別する意識の滅が涅槃である」という一段(第48段)を取り上げて考察した。それにより、『楞伽経』は意識に深い関心を寄せながらも、マナスに焦点を当てていない理由がわかった。それは以下の通りである。
 まず、八識の構造を理解するには、分別(心)の発生のメカニズムを確認する必要がある。分別が発生する根本的な原因は、外部の対象ではない。外界の事物は実在せず、単なる名前のみの存在である。これを「唯心」という。この唯心に対する無理解、すなわち「無明」のために外界の対象があるかのように認識する。この場合、対象を判別し、知覚すると、その延長線上に、我執が生まれ、貪瞋痴などの煩悩が生じてくる。換言すれば、法執から我執が生じる。一方、法執は我執の根源であると言える。
 次に、このような対象分別と自我分別との関係や解脱の構造に基づいて八識説を説明する際に、我執をもつマナス(自我意識)が七転識(眼耳鼻舌身意の六識とアーラヤ識)から独立して論じられる必要性もなくなる。なぜなら、意識の機能は対象を判別するものであり、マナスの機能は我や我所を把握するものであるため、対象を分別する意識が生じるとき、同時に我執を有するマナスも生じる。そして、法に対する意識の分別が消滅すれば、我執を有するマナスも同時に消滅することになる。このように、マナスは必ず意識を伴う存在であるため、意識に焦点を当てることで、修行の核心を理解することが可能になる。
 対象分別、自我分別と八識の構造を明らかした上で、第三章と第四章では、『楞伽経』におけるアーラヤ識を中心とする二種類の識の縁起説を検討した。『楞伽経』では、アーラヤを原因として、七転識(眼耳鼻舌身意と自我としてのマナス)が生じ、一方で意識が対象を分別する際、アーラヤ識が習気(潜在印象)によって増大する、と説かれる。このように、識が相互を原因として生起するプロセスが明らかになった。この識の縁起に基づいて、識の二種類の生住滅、転相・業相・生相、顕識と分別事識に関する教説を確認した。
 第五章では、声聞の涅槃と大乗の涅槃を比較しながら、「分別する意識の滅が涅槃」という場合の涅槃について論じた。まず、声聞の涅槃について、声聞の涅槃は分別が生じない状態であると記述されているが、その場合、対象に対する分別が起こらないということは、感覚器官が対象を把捉しないという点に焦点を当てて説いているに過ぎない。つまり、単に諸々の識が消滅するだけであり、習気(潜在印象)の種子(潜在的な原因)が消滅するわけではない。したがって、声聞・独覚の涅槃はアーラヤ識の転依(質的な転換)に基づくものではないとされている。次に、大乗の涅槃について、習気の消滅との関係を説く箇所を考察した。「分別する意識の滅」は一見すると表面的な意識の滅であり、アーラヤ識の転依に基づくものではないように見えるが、「分別が滅すること」は、生起の反対の現象として「滅する」こと(実在の滅)を意味するのではない。それは、唯心を悟ることであり、能取・所取に対する執着が滅すると、迷乱(対象)は真如となり、そのまま涅槃である。したがって、「分別する意識の滅」が大乗の涅槃を指していることがわかる。
 第六章では、先行研究で議論されてきた『楞伽経』における九識説を再検討した。それにより、『楞伽経』は八識を説くものであり、第九の阿摩羅識を説いていないことが分かった。続いて、『楞伽経』におけるマナス(自我意識)に関する記述の分析により、マナスが常に意識やアーラヤ識に随伴するという特徴が判明した。最後に、『楞伽経』における、分別が生起する構造は、『瑜伽論』「菩薩地」における八分別が生起する構造と共通点があることを指摘した。これらの文献は、名言分別に基づいて、我・我所の分別が生じ、貪瞋痴が生じるという構造を示しており、両者が共通の思想的基盤を有することが示唆される。
 総括すると、『楞伽経』における唯識思想は、独特な用語が使用されており、マナスや意識の説明の仕方は瑜伽行派の文献と異なるように見えるが、『楞伽経』の分別の構造、八識のメカニズム、識の二種類の生住滅、転相・業相・生相、顕識と分別事識といった教説はいずれも、識の二種類の縁起説に基づいており、一貫性が維持されていることが判明した。異なる表現がされているものの、その唯識思想の本質は、他の瑜伽行派の文献と共通の基盤を有していることが明らかになった。
 第二部では、『楞伽経』における唯識思想と如来蔵思想との交渉に焦点を当てて論じた。『楞伽経』は、アーラヤ識と如来蔵を同一視し、唯識思想と如来蔵思想を融合させる経典として知られている。しかし、『楞伽経』が如来蔵思想をどのように用いて唯識思想と融合したかについて、これまでに十分な研究が行われていなかった。
 唯識思想では「煩悩障」「所知障」というものが、悟りの妨げとされているが、前者は声聞・独覚にも断じることができるのに対して、後者は彼らには断じることができず、仏・菩薩のみが断じることができるとされている。如来蔵思想でも、声聞・独覚にも断じられるものと、仏・菩薩にのみ断じられるものがある。それらは「四住地」「無明住地」とよばれている。従来の研究では、如来蔵思想の「四住地」と「無明住地」は、それぞれ「煩悩障」と「所知障」に相当するという解釈がなされてきた。
 そこで、第七章は「煩悩障」「所知障」、第八章は「四習地」「無明習地」について検討した。
 『楞伽経』は、唯識思想の「煩悩障」「所知障」という概念を取り入れているだけでなく、如来蔵思想の「四住地」「無明住地」によく似た概念である「四習地」「無明習地」という概念にも言及する。『楞伽経』は声聞と大乗の区別を「所知障」を断じたか否かとする点で、瑜伽行派の文献と共通している。ところで『楞伽経』では、煩悩障・所知障と八識(眼耳鼻舌身意とマナス、アーラヤ識)との関連が説かれているが、この点について先行研究では十分に考察されているとは言い難く、二障と八識の関係は未だ解明されるに至ってはいない。本研究の第七章では、『楞伽経』が説く「煩悩障」「所知障」はそれぞれ「意識の滅」と「アーラヤ識の習気の滅」と関連付けられていることを指摘した。声聞の場合、人無我を悟ることによって意識が滅すると、対象への把捉も滅し、煩悩障を断じることが可能となる。一方で、大乗の場合では、法無我を悟ることによってアーラヤ識の習気が滅すると、所知障が浄化される、という教理的な構造があることが明らかになった。
 また、従来の研究では、『楞伽経』に登場する「四習地」「無明習地」という用語が、『勝鬘経』の「四住地」「無明住地」の影響を受けているとされている。本研究はこの点について再検討した。『勝鬘経』の「四住地」「無明住地」は、それぞれ声聞・独覚によって断じられるか否かが、問題となっている。一方、『楞伽経』では、「四習地」「無明習地」は「煩悩障」「所知障」に一対一で相当するわけでない。また「四習地」が声聞・独覚によって断じられ、「無明習地」が仏によってのみ断じられるという記述は見られない。逆に、「四習地」は煩悩障・所知障と同様の位置にあり、これを通じて如来の卓越性が説明されている。したがって、『楞伽経』は『勝鬘経』の構造を直接的に引き続いでいるわけではなく、これらの概念を独自の文脈で組み立て、解釈していることが分かる。
 『楞伽経』の唯識思想では、声聞は対象認識を滅することができるとする一方で、習気(潜在印象)を断じることはできないとされている。しかし、如来蔵を論じる際には、声聞と大乗の区別は、習気を断じているか否かに焦点を当てている。これは『勝鬘経』が無明住地と四住地の概念を分け、声聞は一部の習気を断じ、一部を断じないとする立場とは異なる。
 以上の比較研究により、『楞伽経』では、唯識思想を説く際の声聞と大乗を区別する教理的構造が、如来蔵思想を説く際にも一貫していることが明らかになった。