1.論文の目的
魯迅は『中国小説史略』において、志怪と唐伝奇は継承関係にありながら、唐伝奇は意識的な虚構性、そして修辞性といった志怪にない特徴を備えている点で、六朝志怪より優れた小説性を持つ文学ジャンルであると指摘した。この観点は長い間中国の研究者に受け入れられ、魯迅と同様に西洋文学における小説(novel)の概念を用いて中国の「小説」を価値づける研究が続けられていた。しかし、現在では、魯迅に指摘された唐伝奇における審美性や修辞性、即ち本論文に言う「文」の発展については見解の一致を見ているが、雑伝(志怪を含まない雑伝)こそ唐伝奇の源流の所在だという観点を支持する研究者が多くなり、関心の焦点は唐伝奇と漢魏六朝の雑伝との関係への検討に傾いている。ところが、従来の六朝志怪を唐伝奇にくらべて技術の未熟な段階だと見る研究においても、現在の雑伝と唐伝奇の関係を検討する研究においても、主に唐伝奇に関する考察が多く、志怪全体を単なる「史」と見ることが多い。また、両者の関係についても文学の視座から行われる研究が多数を占め、多元的な視点を欠く。そこで、本論文は志怪を主要な研究対象とし、初期伝奇も視野に入れて、文学だけでなく、文化や史学の視座を交えて、六朝志怪と唐伝奇の関係を見直すことを試みた。
2.論文の概要
第一部では、志怪というジャンルの確立に大きな役割を果たした『捜神記』、及び志怪というジャンルが成熟した時期に成書した『幽明録』に考察を加えた。
第一章では、『捜神記』の執筆は東晋の政権を実質上握っていた北方貴族・王導の幕僚である、南方の士人・干宝が、東晋内部の文化融合問題を解決すると同時に、彼をはじめとする南方士人に多い方士的儒生や彼らを孕んだ文化的環境の合理性を証明するための試みであったことを論じた。干宝は鬼神の道徳性を説き、かつ方士の力を制限することによって、両者の政治への危害を抑えた。また俗信をめぐる知識はくだらないものではなく、政治を助ける機能を持つのだと主張し、『捜神記』の世界を、常理を超えた、所謂怪異の知識を備えた聖人と博学の士を理想的な士人像として高く評価する空間に描いている。このようにして、「怪力乱神」を語る『捜神記』は「神道助教」という教化的な役割を持つ「史」的な書として編纂・受容される正当性を得たのである。
第二章では、劉宋宗室・劉義慶及び彼が主導する文学集団が編纂した『幽明録』について考察を加えた。『幽明録』と劉義慶の想定した理想的な貴族世界の姿である『世説新語』は、共に士人世界の「語」を採録しているが、劉義慶らは怪異の色彩の強い話を排除する、あるいは神異的な性格を弱めるといった手段を通じて、後者を無鬼論的な「公」の世界として描き、その一方で、そこに採録されなかった怪異の話を『幽明録』に編入したのである。ここから、「公」の世界を構成する秩序内に組み込まれることによって、「公」の世界で「怪」を「語る」ことも正当性を得られるであろうという干宝の構想とは異なり、劉義慶らはやはり「怪」を「公」の世界では「語れない」ものとして見なし、志怪をそのような話を容納する空間だと考えていたことが看取できる。但し、『幽明録』には淫祀や祈禱への否定的態度が根本にあり、『世説新語』と共通する所でもある。これは『捜神記』にあるような「神道助教」の性格を継承し、劉宋王朝が直面した、東晋の滅亡を招致した信仰問題を教化の面から解決しようとした『幽明録』の、志怪としての特徴でもある。
続いて、第二部では先学の指摘する、斉梁期の志怪において天下国家の命運と関わる怪異への関心が弱くなった現象について、「文」との関わりの方向から考察を行った。
第三章で取り上げた『続斉諧記』は史学者と文学者の二重身分を持つ呉均の作品である。従来の淡泊で、情に乏しい神仙恋歌を詠う神女と比べれば、『続斉諧記』に収録されている人神恋愛譚に登場する神女は恋情を告白する恋歌を詠うといった特徴を具えており、唐伝奇に見られる情熱的な神女との接近が見られる。かかる神女をめぐる人神恋愛譚は東晋末期以降の上流社会の宴で、文人の作った歌詩と共に享受されていたのであり、このような状況は斉梁期に大量に出現することになる、文人化された人神恋愛譚の誕生を促した。かかる文人の手になる人神恋愛譚が『続斉諧記』に収録された原因は、呉均の文人としての自覚、及び彼が蕭偉文学集団の一員として宴文化にも親しんでいた点にも求められるが、最大の原因は「文」を重んじる時代の気風が様々な面において志怪編纂者に影響を与え、そしてかかる「文」の影響もまた時代の「史」を記録する志怪に反映されたからだと考える。
第四章では、梁元帝・蕭繹の手になる子書『金楼子』の「志怪篇」を考察した。「志怪篇」は蕭繹がその個性を示す学を見せびらかす篇目でもあり、志怪書と同じ体裁を取っているとはいえ、その内容は序・論に「事」的な怪異、本文に「物」的な怪異が記載されており、怪異の書き分けがなされている。志怪の土台となった後漢の子書・『風俗通義』は教化のために怪異の話を集めたのに対して、「志怪篇」は興趣としての読書の成果である。後者は「観」るに足る怪異の事柄を展示する舞台となっているものの、興趣の「軽重」への考慮に基づいて、怪異は主軸である本文に「物」、副次的な序・論に「事」として分けられたのである。知識としての「怪」を楽しむことを可能にしたのは蕭繹の「個」を求める性格に基づくが、同時に仏教の文脈の強化に伴う審美的な「観」の流行、そして類書の勅撰による怪異の知識化と切り離せない関係を持つのである。「志怪篇」の序・論のもう一つの特徴は、大量な怪異の事柄が対句の形で列ねられ、ある程度の文学性が認められることである。このことは斉梁期の神秘文学の復興や、「怪」の娯情性と文学性との繋がりが「文」の文脈において認められたことと同時期に出現した現象である。時代や個人の共同作用によって士人世界の価値観がより多元的になったことも『金楼子』「志怪篇」がこの時代において生み出された原因であろう。
第三部では初期伝奇の『補江総白猿伝』と『遊仙窟』の創作環境や受容を考察した。
第五章ではまず『補江総白猿伝』の創作意図について検討した。この説話の前半は既有の伝承を改稿したものであるが、後半こそ新たに創りあげられた『補江総白猿伝』の個性が最も強烈に現れている部分だと考える。そしてこの部分において、白猿は神仙に近い存在に描かれながら、野蛮性が残されていることから、作者は説話において欧陽詢の実の父親である白猿を意図的に聖なるイメージに描いたというよりも、むしろ前半のネタとなる物語に残留している白猿の悪役としての性格が、その子となる欧陽詢への誹謗に繋がらないようにするための改変だと考えられる。そこで、本作品の創作意図を再考し、初唐から士人間で笑い種となって流れていた欧陽詢と長孫無忌の嘲が本作品のベースにあり、そしてこの嘲に呼応するかのように、欧陽詢の容貌が猿に似ている原因を白猿の伝説と結び付け、彼が白猿の子であるという結末で作品を結んでいることから、『補江総白猿伝』はその嘲の諧謔性の延長線上で為された作品であると推測した。完全に大道から離れた『補江総白猿伝』はなぜ士人世界に受け入れられ、そして後世に伝えられ得たのかということを考えるのに際して、小道だと思われていた笑話集の編纂が隋唐期に再興したことに注目した。隋代の秀才・侯白の作とされる『啓顔録』や、それと共通する精神が見られる張鷟の『朝野僉載』の流行は、当時の中・下層文人を繋ぐ諧謔文化を反映しているのである。『補江総白猿伝』は正に弱小であった中・下層文人が政治・文化の地位を獲得していくのに伴う諧謔文化の興起を示す作品である。但し、本作品が無名氏の作として伝えられていたことは、成立当初においてはかかる小道的な文章がいまだ「公」の世界に完全に受け入れられていなかったことを物語っている。
第六章では初盛唐の「公」の世界における新旧の価値観の衝突を示す好例である『遊仙窟』を考察した。作中の文成が下級官吏として辺境を転々とする経歴は張鷟の現実における体験に基づくものでる。そこで、張鷟が文成の口を通して嘆いた自身の不遇が具体的にどのようなものであったについて考察した結果、恐らく彼は仕官してから、自分が期待する通りに才能を認められて順調に昇進することが叶わなかったことと関係があることを明らかにした。その原因は張鷟の「士」に合わない作法と関わっているが、同時に当時の栄進手段の一つで、しかも張鷟自身が自負する彼の文章が上流社会の文化的価値観に合わなかったことにも求め得よう。しかし、上流社会に受け入れられなかった張鷟の文章は上流社会とは異なる文化的価値観を持つ人々からの好評を浴びた。張鷟が文成の精神を癒す神仙窟を従来の人神恋愛譚に見えるような「雅」の空間にするのではなく、逆にそれに世俗性を絡ませた原因もここにあるのであり、彼の文章の「雅」だけでなく、「俗」の価値をも十分に理解し、受け入れる世界にいてはじめて、張鷟は帰属感を感じることができたのだと考える。また、中唐以降に下級官吏が口頭文芸を聞き書きしてテクスト化する現象があるとされているが、『遊仙窟』においてもかかる文字テクストと似た口頭文芸の影響が見られる。恐らく初唐の時点で中・下層文人の間で口頭文芸を文字に残す習慣は既にあったが、歴史の闇に埋もれたこれらの人たちの文化を土壌に、『遊仙窟』は花を咲かせたのだと考えられよう。
終章では、各章の内容を要約したうえで、本論文の成果を論じた。