キーワード: 回儒 王岱輿 劉智 宇宙論 比較研究
本論文は「回儒」と呼ばれる中国人ムスリム儒学者の思想を研究したものである。7世紀にイスラーム帝国と唐朝政府の外交関係が確立されると、イスラーム使節が中国を訪問するようになった。これは、現代に至るまで約1400年の歴史を持つ中国イスラームの端緒となった。そのような中国イスラームの歴史において最も特筆すべき点は、16・17世紀に現れた「回儒」と称される一群の中国人ムスリム儒学者が漢文によってイスラーム思想を著す著述活動を行ったことである。「回儒」という名称は東洋学者・桑田六郎によるもので、日中西洋の研究者の間で定着した用語として広く使われている。そのような学者は約100年の間に13人が登場し、合わせて25の書物が著された。その中で最初の回儒とされているのは、王岱輿(1573年から1619年の間に生まれ、1657年か1658年に没した)である。一般的に王岱輿の著作は「漢・キターブ」(漢文イスラーム経典)の黎明とされる。また、王岱輿に続く回儒たちの中でも、傑出した人物として劉智(1662年から1669年の間に生まれ、1730年から1735年の間に没した)が挙げられる。彼は回儒思想の集大成たる人物とされている。回儒思想の研究における両者の重要性は言うまでもない。
本論文は、回儒らは中国思想とイスラーム思想という異質的な両思想の狭間に生き、その両方の思想を意識して書物を著したという見通しに立ち、それぞれの回儒思想家が、いかにしてイスラーム思想と中国思想の緊張関係を調停・対応しながら、漢文でイスラーム思想を著したのかを大きな問題意識としている。この問題意識の下、本論文は、王岱輿と劉智という二人の回儒を取り上げ、彼らの代表的著作である『正教真詮』(1642年)と『天方性理』(1710年)に展開されている宇宙論をそれぞれに分析し、比較検討することによって、回儒思想に新たな光を当てようとするものである。宇宙論に注目したのは、儒学者と同様、回儒も自らの思想を宇宙論から展開し、次にその宇宙論における人間の在り方を確定し、最後に人間の本質を論じて人間と宇宙の関係性や価値観、社会秩序の成立などを説くというパターンをとるためである。それゆえ、回儒思想を究明するためには、先ず彼らの宇宙論を明らかにしなければならない。
本論文は序章・第一部・第二部・結論によって構成されている。
序章では、中国イスラームの発展史を概観したうえで、回儒たちが生きていた時代背景や、回儒の著作運動が興った歴史的要因をまとめた。次に、西洋・日本・中国における回儒研究の沿革を整理しつつ、本論文の問い、研究方法を示した。続いて、本研究の基礎資料であり考察の焦点となる王岱輿の『正教真詮』と劉智の『天方性理』の概要を押さえ、本論文の基本的前提を確認した。
第一部では、王岱輿の宇宙論について論じた。
第一章では、王岱輿が宇宙の始原と位置付けるアッラーについて、『正教真詮』ではイスラーム哲学上の絶対的存在としてのアッラーである「真一」と、神学上の人格的な造物主としてのアッラーである「真主」の両方が提示されていることを指摘した。
第二章では、王岱輿の宇宙論における神秘主義的なムハンマド、および「ムハンマド的な実在」による被造物である天地、万物、人間の生成について論じた。王岱輿は、天地の生成については自然学的な理論によって、万物と人間の生成については神学的な創造論によって説明していることが窺える。また、彼の時空論は「先天(前世)と後天(現世・来世)」を説く点で神学的性格を有するとともに、「始まりから終末まで」を論じている点で直線的性格を有している。
第三章では、王岱輿の思想における天仙(天使)、「神(ジン)」、鬼(悪魔・悪鬼)という形而上的・神学的な存在について論じた。彼は、天体の運行や万物の生成消滅などについて、天仙が管理していると論じている。天仙という神学的な存在が、王岱輿の宇宙論を支えている。次に、王岱輿の宇宙論における「神(ジン)」と鬼の存在意義および人間論的な機能を明らかにした。すなわち、前者は人間を惑わし、後者は人間に悪を唆すとされている。
第四章では、「人極」の概念について検討し、王岱輿の思想における「人極」とは神秘主義的な人祖アダムであり、ムハンマドでもあることを論じた。
以上のように、王岱輿の思想では、イスラーム哲学と神学が厳密に区別されず、両者を併せ用いていると指摘できる。したがって彼の宇宙論は、流出論と創造論の両方の側面を併せ持つ宇宙論であると結論付けることができる。
第二部では、劉智の宇宙論について論じた。
第一章では、劉智の思想において宇宙の始原と位置付けられる「無称(名称がない)」に注目した。劉智の思想はイスラーム思想に基づいているため、彼がいう「無称」とはイスラーム思想のアッラーにほかならない。しかし、劉智は「無称」について論じる際、神学的な人格神としてのアッラーには言及せず、「無称」を哲学的な絶対存在として論じている。劉智の宇宙論では、このような宇宙原理の「無称」が自己分節して流出し、宇宙を形成するとされ、その流出過程もまた自然論の形で論じられる。劉智の宇宙論における流出については、大まかに「理世」(実在的な世界の流出)と「象世」(現象的な世界の流出)に分けることができる。以下、第二章では「理世」、第三章から第六章では「象世」について論じている。
第二章では、劉智が中国思想の宇宙論の核をなす概念や用語――「自然」・「真宰」・「主宰」・「命」・「道」・「無極」――をいかに自らの宇宙論に取り入れてたかを論じた。彼は「自然」を宇宙原理の「無称」の自己分節の初期段階に置くことで、自らの自然学的な宇宙論の基調を示した。そして、中国思想では明確に区別されない「真宰」と「主宰」の概念を厳密に区別し、「真宰」は「全體大用(宇宙真體とそれに伴う大なる用)」の別称であり、「主宰」は「為(予定)」の別称であるとした。さらに、中国思想における命運論と関わる概念である「命」を「主宰(イスラームの予定)」の下位に位置し、また中国思想において宇宙の始原とされる「道」、そして「無極」と同一視している。
第三章では、中国思想の重要な概念の一つである「元気」について論じた。劉智は、「元気」を中国思想の「太極」と同一視し、それを「命(道(無極))」の下位に置いている。さらに、「元気(太極)」は「理世」のすべてを受けて、「象世」に流れ渡るとし、「元気」が「理世」と「象世」を接合する機能を持つことを説いている。
第四章では、劉智が元気、陰陽、四象という「気的な物質」の流出プロセスを論じる際、中国思想における重要な概念である「理」、「気」、「性」を用いていることを指摘した。劉智は中国思想の「気」論(天地・万物・人間の形体を構成する最小の単位・元素)をそのまま継承したが、中国思想において「物事の本質」を指す「理」については「単行的な気によって形成された現象・物質」の在り方と限定的に定義し、さらに、一般的に「人間の在り方」を指す「性」を「複合的な気によって形成された経験的な物質・物体」の在り方と新たに定義している。
第五章では、劉智の「天地」論・空間論・渾天論などについて論じた。劉智の思想における「天」とは九層天と天体、「地」とは七洲や地形地貌、土壌、水流である。彼は天地を卵のような球体として捉える渾天論を主張し、さらに、天地は十四層の空間による同心球体の構造であるとしている。
第六章では、劉智が万物の生成や原人の誕生について、自然の作用による結果であると説いたことを指摘した。劉智によれば、物質的な土が「順流行(宇宙原理の自己分節の順番的な流れ)」の「逆返り」し、水と合して金気が生じ、金気が土および水と合して金石が生じる。次に、金石が日光を受けて自らに火を蓄え、金気と上に向かって燃える性質を有する火が合して木気が生じ、木気が地毛地貌と合して草木(植物)が生じる。最後に、木気が空中を自由に移動できる性質を有する「四行」の「気」と合して「活気」が生じ、「活気」が地形地貌と合して活類(動物)が生じる。万物が生じたのち、原人が生じる。「活気」はさらに逆返りによって上昇し、「象世」と「理世」を接合する「アルシュ天」に至る。そこで「理世」のすべてを受けている、「理世」の渣である「溟滓(元気)」と合して原人が生じる。このように、劉智の宇宙論では、万物の間や万物と人間の間が「気」によって接合するとされる。ここに、万物相関思想、人間と自然の共存思想、天人相関思想を見出すことができる。さらに、原人アダムは宇宙の流出の最後・末として、宇宙原理の「無称」という最初・端と接合することが説かれる。その接合によって、宇宙は閉合した円環的な宇宙となり、原人アダムは宇宙の循環の始まりとして、すべての宇宙流出の過程を絶え間なく循環させるのである。
これらの分析により、劉智の宇宙論は閉合・円環・循環を説く流出・自然学的な理論であると結論付けられる。
結論では、以上の分析を踏まえ、本論文の成果、回儒研究史上の意義と今後の課題をまとめた。本論文は、王岱輿と劉智の宇宙論に通底する思想的パターンを明らかにする一方で、それぞれの回儒のあいだには顕著な思想的相違が存在するということを提示することができた。従来の研究においては一括りに論じられがちだった回儒思想家たちの多様性という問題に光を当てたことは、本論文の大きな成果である。他方、王岱輿と劉智の思想的な相違が何に起因するのかという問題など、今後の研究において掘り下げるべき課題も示した。