本論文の目的は、プロフェッショナル・オーケストラの財務マネジメントについて、文化経営学における位置づけと意義という観点をもって、その現状と課題を明らかにするものである。
 オーケストラの経営については多くの先行研究がある中で、共通する課題認識の一つとして、演奏収入だけでは公演費用を賄うことができない赤字体質というものがある。こうした認識がありながらも、日本のオーケストラに関する先行研究においては、様々な制約により財務諸表を用いた分析がこれまでほとんど見られなかった。
 本論文においては、文化芸術を成立させていくために必要な資金を、どのように本業からの収入あるいは助成金や寄付といった外部からの調達によって構築し、支出をコントロールして財産を運用管理していくかという財務面でのマネジメントにおける実態と課題を、具体的な財務データを用いて解き明かすことにより、文化と社会との接合においてその持続可能性を追求する文化経営学としての位置づけを試みた。
 「財務マネジメント」とは、主として営利企業の経営を対象として用いられてきた用語であるため、これをオーケストラに応用するに当たっては、文化芸術と利益を結び付けることの妥当性やその公共的役割等、留意すべき諸点が存在する。それらを踏まえて本論文においては、オーケストラの財務マネジメントを「活動を正味財産の維持拡大に結び付ける」「実態を数値で把握する」「経営の改善に役立てる」という3つの要素がサイクルとして機能するものとして定義し、そのいずれの要素とも関わりを持つ「財務情報開示」が果たす役割に着目した。オーケストラのステークホルダーが、自治体、企業、裕福な個人等の従来からの支援者層にとどまらず、多様化・小口化・不特定多数化しつつある現状を踏まえ、その支援を維持拡大するためにも情報開示の重要性が増してきていることが想定されるからである。
 こうした財務マネジメントの実態を明らかにするため、公益社団法人日本オーケストラ連盟(以下、「オーケストラ連盟」)に所属する正会員オーケストラ25団体を対象として検証を行った。
 具体的には、2010年度以降2021年度までの12年間を研究対象期間とし、オーケストラ連盟が毎年発刊している「日本のプロフェッショナル・オーケストラ年鑑」(以下、「オーケストラ年鑑」)に掲載されている収支データおよび各団公式サイト等において開示されている財務諸表上の情報から合計89項目を抽出して、楽団別、年度別、項目別に横断分析が可能なパネルデータベースを作成し、その分析をベースに、以下の通り本論文を構成した。
 
 まず第一部においては、日本のオーケストラの組織運営と財務を規定する枠組みを概観した。第1章では日本のオーケストラの組織運営について、研究対象オーケストラの歴史と沿革、組織形態の変遷と種別、法人格とその特性について明らかにした。特に非営利法人という形態が一般的になった背景についての考察、非営利法人の経営に関する先行研究や内閣府による寄付者の意識調査等を踏まえ、その財務情報開示の持つ意義について検討した。
 第2章においては、その多くがとる公益法人としての形態とオーケストラ運営との関係について、2008年の公益法人改革の法的枠組みと意義、それに対する各オーケストラの対応と課題認識、さらに2019年以降のガバナンスおよび新しい公益法人制度に関する議論も踏まえて考察を行った。公益法人制度改革によって、公が集めた税金を公益法人に配分する形から、国民が好ましい公益活動に直接寄付を行い、その寄付に税制上の優遇が適用されるという形に資金の流れが変革されたことに伴い、多くのオーケストラが優遇税制を活用した寄付の仕組みを整えただけでなく、内部体制の整備およびミッションや理念の明確化等の効果があったことが明らかになった。
 第3章では各オーケストラによる財務情報の開示状況について、対象期間、資料、項目、粒度等の比較を行い、そのばらつきが非常に大きいことを明らかにした。また、オーケストラの分類方法として、先行研究にて用いられている収入構造別分類、予算規模別分類に加え、財務情報の開示状況をスコアリング評価し、その結果に基づく分類方法を試案として提示した。
 第4章においてはオーケストラの財務分析において、財務安定性をどのように判断するか、非営利組織の財務について一般的に用いられる各種比率に基づいて検討するとともに、その資力を示す基本財産・特定財産と正味財産の状況およびその収入源の分散状況について検証を行った。その結果、拘束性資産およびハード・マネー比率に関する非営利組織に関する先行研究における通説が、必ずしも日本のオーケストラには当てはまるものではないことが明らかになった。また、非営利組織の収入源分散の効用に関する先行研究を踏まえ、オーケストラの収入集中度指標を用いた考察を行った。
 第5章においては、オーケストラの正味財産増減計算書上の各項目およびその構成と動向についての検討を行った。演奏収入、公的支援、民間支援という、先行研究においても様々に検証されてきた収入形態について、オーケストラ年鑑と財務諸表の数値とを併せて検証することによって、実態を明らかにすることを試みた。またそれぞれの収入についての歴史的経緯や近年の動向、性質による分類、社会における企業メセナからCSR、SDGsへの概念の変化、優遇税制の変遷、インタビュー資料等に表れる各オーケストラの意見も踏まえて、その性質と動向を分析した。
 また先行研究等においてあまり重視されてこなかった資産運用益についても、各オーケストラの保有する運用資産とその利回り、仕組債による運用事例をケーススタディとして検証を行い、そのリスク管理や情報開示に関する問題点を指摘した。
 さらにオーケストラ年鑑において「その他」としてまとめられている収入に何が含まれていて、どのような性質を持つものであるのかについて、財務諸表と対比しながら検証した。これらの検証過程において、資産運用や指定正味財産からの振替等に関する自治体による監査報告書とも照合することによって、オーケストラの財務運営における課題の一端を明らかにした。
 費用についても、事業費と管理費それぞれについて、公益法人会計基準の解釈を踏まえてオーケストラ年鑑および財務諸表の両面から精査した。さらに一部の費用の分担が、自治体や支援企業等のオーケストラの外部から行われている「見えざる支援」の存在についても明らかになった。
 
 これらの結果を踏まえて、第二部では財務分析が提示する情報を、そのマネジメントに活用しうる可能性を示すケーススタディとして、米国との比較およびコロナ禍の状況について考察した。
 第6章ではFlanaganの先行研究に基づいて、アメリカと日本のオーケストラの財務構造および特性について比較検証を行った。その結果、日本のオーケストラの特徴として、「公的支援を得にくいオーケストラにおける極端な人件費抑制」「資産運用益の不存在」といった課題、一方でコロナ禍において顕在化した「共感に基づく、見返りを期待しない寄付」という今後に活かしうる可能性を示した。
 第7章においてコロナ禍における日本のオーケストラへの影響を2020年度および2021年度の財務諸表を基に検証し、2020年度決算において多くのオーケストラが黒字化した要因を探るとともに、その翌年度の決算内容からそのレジリエンスに向けた課題について考察した。また適切な財務情報開示が、危機からの教訓を今後に生かすための、実務者、研究者、メディア等社会における議論の材料となりうることを論じた。
 第8章では新たな形態の個人寄付の可能性について、コロナ禍におけるケーススタディによって考察し、こうした取組について、正確な記録によって実態を把握し今後の経営に役立てる財務マネジメントのサイクルの中で活かされる必要性を指摘した。
 
 終章では、本研究によって明らかになった日本のオーケストラの財務マネジメントの実態およびその開示状況等を踏まえて、内部統制や人的資源の育成・確保も含めた今後の課題と展望を示した。
 結論として、オーケストラの活動に伴う正味財産の維持拡大、数値による実態把握、それを経営の改善に役立てる取り組みは、各団において様々な努力によって進められていることが確認された。財務諸表は、そうした努力や、その団の重点施策や方針、組織内のガバナンス、情報開示に対する考え方を示すものであり、現在および将来の支援者と利害関係者に貴重な情報を与えうるものであることが明らかになった。
 一方で、各団の開示する財務情報の範囲や粒度が区々であってわかりにくい状況においては、横断比較や社会における議論を困難にし、オーケストラがその経営を改善する機会や材料を十分に得られない懸念が禁じ得ない。この課題に対して、望ましい情報開示の在り方について具体的なモデルを提示して論じた。
 日本のオーケストラにおける財務マネジメントの実態と課題を明らかにした本研究は、オーケストラと同様に活動収入だけでは経費を賄いにくい他の舞台芸術団体や文化団体においても、それぞれの実情に合わせた応用が可能であると考えられ、文化経営学が目指すところの「文化芸術を持続可能にする」ことに貢献しうるものであると考える。