本研究は穀物法撤廃運動の分析を通じてイギリスの民衆政治文化を論じる。1846年の穀物法撤廃は重商主義と保護主義に基づく財政=軍事国家から自由貿易と健全財政を是とするレッセ・フェール国家への転換を決定付けた。中でも空前の規模で人的・物的資源を動員した反穀物法同盟は、政治社会における新興勢力である商工業者の圧力団体としてのみならず、自由貿易という新たな価値規範を議会外に喧伝した全国組織としても意義深い。ただし従来の研究は反穀物法同盟を率いた中流階級の役割を強調するあまり、民衆の経験を周縁化してきた。穀物法と食糧供給の問題は民衆の日常的関心事であるにも関わらず、穀物法撤廃運動における彼らの位置付けや彼ら自身のイニシアティヴについては議論が等閑にされてきたのである。
 これに対して本研究は、中流階級と民衆が自由貿易という価値規範を巡って交渉した場として穀物法撤廃運動を捉え直す。反穀物法同盟は自由貿易の理念をいかにして民衆に訴えかけ、それはどのような反響を呼んだのか。あるいは、自由貿易は民衆の価値観や慣習とどのように呼応し、これをどう再編しえたのか。これらの問いへの答えを模索し、ひいては「改革の時代」の終盤にあたる19世紀半ばにあって未だに参政権を持たなかった民衆が政治をどのように経験したのかを理解することが本研究の目的である。
 以上の課題に対して本研究は二つの視座から取り組む。その一つは、反穀物法同盟による民衆への働きかけに着目するアプローチである。具体的にはこの団体が雇った無名の巡歴講師 (itinerant lecturers) すなわち反穀物法講師と、彼らが開催した反穀物法講演会を扱う。連合王国の各地を旅しながら自由貿易を喧伝した彼らの活動は、リチャード・コブデンやジョン・ブライトなど指導部による遊説を前に過小評価されてきた。だが穀物法撤廃運動を社会の末端にまで押し広げたという点に着目するならば、彼らの働きは指導部よりも重要な意味を持つ。このことを実証すべく、第1章「反穀物法同盟と講演会活動」では反穀物法同盟の書簡集と機関紙、および電子化された新聞史料群に基づいて講演会活動の全体像を提示する。反穀物法同盟の指導部による遊説は、量と質どちらの観点から見ても講演会を代替しえなかった。誰に対しても開かれていた講演会こそ、穀物法撤廃運動と民衆との関わりを考察する最大の端緒となるのである。
 上記のマクロな観点からの分析に続く第2章「反穀物法講師」と第3章「反穀物法講演会」では、講演会活動をミクロな次元で解き明かす。前者では弁論術の普及により政治演説で生計を立てられるようになった当時の社会状況に即しながら、反穀物法講師たちの人物像と彼らの旅路を詳述する。彼らは旅を通じて地域社会内部における自由貿易派と保護貿易派の対立を活性化すると同時に、各地域を全国的な撤廃運動に糾合したのであった。後者では反穀物法講演会のプラットフォーム政治としての特徴と、そこで語られた言語を取り上げる。講演会は自由で公平な討論を追求した一方で、現実にはしばしば騒動にも陥った。その理由の一端は、講師たちが単に穀物法に関する知識を提供しただけでなく、観衆の興奮を引き出す様々な言説を用いて自由貿易の大義をアピールした点にある。民衆にとって自由貿易とは思想家の著作を読んで学習するものではなく、旅する講師を支援ないし妨害したり、講演会に立ち寄って熱狂を共有したりすることを通じて触れるものであった。この意味において、反穀物法講師と講演会は反穀物法同盟と民衆世界を媒介したのである。
 もう一つの視座とは、民衆の経験に即したアプローチである。自由貿易理念の伝達を論じた第1章から第3章に対し、第4章と第5章では民衆によるこの理念の受容を検討する。第4章「民衆の自由貿易」では自由貿易に対する民衆の態度と認識を反映した同時代のテクストや図像を扱う。穀物法撤廃運動への参加を通じて、民衆は自由貿易が彼らの過去、現在、未来とどう関わるのかを説明する物語を築き上げた。そこでは反穀物法同盟の指導部が描いた自由競争社会への前進ではなく、民衆の想像上に存在する理想化された過去への回帰が目指されたのである。第5章「言語なき自由貿易」では穀物法撤廃運動における民衆の儀礼的振る舞いを扱う。自由貿易を喧伝する公的儀礼 (public rituals) では、人形燃やしやパンの示威行進といった民衆抗議の伝統的な諸実践が動員された。たとえコブデンのような反穀物法同盟の指導部からしばしば警戒されていたとはいえ、こうした祝祭的エネルギーは民衆が自由貿易理念を身体化する一助となったのである。
 本研究の成果を19世紀半ばの民衆政治文化という文脈に位置付ける際、その底流をなすのは政治に対する民衆の関心と関与の増加である。カトリック解放から選挙法改正まで一連の国制改革を経たこの時期には、世論が改革を推進しうると広く認識されるようになった。他方で有権者は限られ政党組織も未熟であったために、それぞれの改革団体は自身の大義のもとに支持者を囲い込む必要があった。加えて当時のイギリスはオーラルな社会から識字社会への移行期にあたる。新聞や教育の普及は民衆の政治意識を確かに育んだが、新聞は主に音読されていたし、教育においても読むことの価値は重視され続けた。つまり改革の遂行において数の論理が重視され、かつ口頭による対面の意思疎通を基盤とする政治風土があったからこそ、自由貿易の講演会や民衆抗議が興隆しえたのである。
 本研究は三つの主な学術的意義を持つ。第一に、自由貿易を国民国家の支柱の一つとみなす諸研究(いわゆる自由貿易国民論)が中流階級の視点に偏っているのに対し、民衆の意識や行為主体性を強調した点である。先行研究は反穀物法同盟が自由貿易の教育機関として機能した点を重視してきた。このこと自体は間違っていないものの、彼らが民衆を意のままに「教化」できたとは限らない。民衆は穀物法問題と自由貿易を解釈する独自の価値体系を有していたのである。反穀物法同盟が重んじる品位や節制とは必ずしも相容れないこれらの価値は、反穀物法講師の演説を通じて表現されたり、儀礼の中で体現されたりした。自由貿易が国民意識の一部となる過程においては「上から」だけでなく「下から」の作用も重要な役割を果たしたのである。
 第二に、プラットフォーム政治研究における中流階級と民衆、ないし理性と感情の分断状況を克服した点である。巡歴講師による講演会活動を分析した本研究は、穀物法撤廃運動を民衆政治との差異性よりも類縁性において把握できることを示した。自由貿易を巡る議論を社会の隅々で活性化させた点において、反穀物法講演会を一種の公共圏と見なすことはできる。だが、講演会の実践に携わった人々を一様に「論議する公衆」と捉えるべきはない。講演会が政治的知識や討論の技法を伝達したことは確かにせよ、観衆が概して経験しようと欲していたのは講師が生み出す演劇的興奮とでもいうべきもので、必ずしも彼の論旨そのものではなかった。反穀物法講演会が広範かつ長期的に展開できたのは、これが民衆の知識欲を満たしたという点よりも、彼らに感情の捌け口を提供したという点に依るところが大きい。19世紀のプラットフォーム政治は熟議と扇動の緊張関係を孕みながら発達したのである。
 第三に、従来の民衆抗議史研究が穀物の自由貿易と民衆の伝統的諸観念との相反性を前提としてきたのに対し、むしろ両者の共振関係を指摘した点である。産業化と全国市場の形成が地域共同体に根差す民衆抗議を衰退させたという旧説に対し、近年の「新しい抗議史」は民衆抗議の語彙や規則が19世紀の政治社会に適応した側面を重視する。本研究はこの潮流をさらに発展させ、自由市場経済と国際商業を推進する自由貿易の論理が民衆の慣習と対立するという暗黙の了解にも再考を迫った。穀物法撤廃運動における公的儀礼では、伝統的な抗議様式に則りながら自由貿易を要求することに矛盾が生じていない。むしろこれらの儀礼は民を苦境から解放することを志向していた。ポリティカル・エコノミーの論者によって考案された自由貿易は、民衆に受け入れられていく過程で彼らの慣習やモラルに適合するように変容を遂げたのである。