本稿は、ユダヤ系ポーランド人の社会学者、ジグムント・バウマン(1925-2017)の批判的社会理論の意義を、道徳性と時間、ユートピアの接合を通して解明した。
 第1章では,流動化する近代という枠組みに即して、バウマンの現代社会論およびその読まれ方について検討し、バウマン現代社会論の際立った特徴を見いだした。バウマンは近代のプロジェクトがその初期段階において掲げていた価値や制度が失敗に直面している状況をリキッド近代と呼び、初期近代を指すソリッド近代と対比させている。このようなリキッド化を背景に、バウマンの現代社会論においては、アイデンティティや死についてのリキッド近代的な戦略が焦点化されている。これらの分析においては,社会による死やアイデンティティへの戦略を可視化するために、道徳性を中心として内在的に首尾一貫した理論的装置が用いられている。しかし、バウマンが提示する理論的装置はほとんど理解されず、そのために彼の批判的社会理論は、すべての社会的なものを底なしに悲観するペシミスティックな理論として読まれてきた。そこで本稿は、バウマンが実存的不安、不確実性(Unsicherheit)、リスクといった現代社会論の主要なキーワードをめぐる共有された前提に立つことなく、自己同一化や死、不確定性、道徳性に関する独自の視点に立っていることに着目し、彼の現代社会論を支える理論的装置の意義を解明することを目的として設定した。
 第2章では,このバウマン理解における盲点の所在を、道徳性概念についての既刊の議論を中心に、先行研究において明確にした。具体的には、道徳性を「ユダヤ教的」なものとして解釈し、「ユダヤ教的」なものとして価値あるかどうかを評価する視点、民主主義的政治へ開くものとして解釈し、現実社会や社会的なものとの接続可能性において評価する視点、この二つに大別し、それぞれについて検討した。二つの立場は、道徳性を厳しく批判するか擁護するかという観点からは真反対のように映るが、両者は共に、道徳性を政治的・社会的な他の価値や枠組みに置き換えない限り、それを論じる社会理論的な意義はないと見なしている。そこで本稿では,時間論的パースペクティブの下で、不確定性に基礎づけられた道徳性の地位に照らすことで、上の対立する二つの見方が成立するうえで共通して必要となっている隠された前提条件を明確化した。それは、道徳性に対してバウマンが付与している時間論的な基礎づけやユートピア論との連関は社会学の領域外の問題として閑却するべきであるという前提である。対して本研究は、時間論的パースペクティブに基づく上の前提条件の問い直しの必要性を主張した。
 第3章では,中期の『近代とホロコースト』から後期に至るまでの道徳性論の理論内在的な変遷を辿り、後期において明確化する時間的外部性に起源をもつ道徳性の考え方の意義を提示した。また、道徳性の外部化の意味をより明確に示すために、社会学的道徳論の系譜および批判的社会理論におけるその位置づけについて論じた。従来の社会学的道徳論においては、道徳現象は社会統合機能、コミュニケーションメディア、生活世界における生活者の生への態度に求められてきた。対して、バウマンは道徳性の歴史的・社会的なもの、言語体系や理解可能性に対する外部性を主張し、道徳性が社会、個人、言語、身体のどちらに従属するものではないことを明確にすると同時に、道徳性と非道徳性の領域を区別する明確な基準として時間の二元的秩序を導入している。また、道徳性の外部化は、観察と批判を一元化してきた従来の批判的社会理論に対して、批判の準拠先を観察可能性の領域から切り離す理論的な回路を提供している。
 第4章では,バウマンが道徳性の徹底的な外部化の向く先として措定する時間のある秩序が何を意味しているかを明確化し、道徳性と時間の連関を探求した。具体的には、後期バウマンにおける不確定性や両義性を基盤とした道徳性という概念化の仕方が、それを支える哲学的な土台としてレヴィナスの時間論を要請している点に注目し、道徳性と時間のあいだの連関をレヴィナスの議論に即して論述した。レヴィナスは、「連続性の断絶と、断絶を通じた連続化」を時間性の第一原理とし、この時間の肯定的な運動において、いかなる存在にも先行する外部性の領域を見いだしている。レヴィナスの倫理の構想は、このように、毎瞬間の存在の根源が不確定的であることを時間現象の第一原理として認めるところに始まる。「私」の自己同一化は、時間の働きに照らした際、自己同一的であると同時に他性へひらかれなければならないという不合理あるいは両義性であり、道徳的であることは、上のような「私」であるには「私」を飛び出さなければならないという両義性ゆえに都度他者への応答責任をうけとることを意味する。
 バウマンは、このような時間の働きおよび自己同一化についてのレヴィナスの見方に依拠し、アイデンティティの真実を自己の根源的な両義性に求め、不確定性と道徳性、死を同じ領域に属すものとして社会から分離させようとし、他者への責任を負う道徳的自己が諸瞬間における無からの創造であるとした。
 第5章では,バウマンが上で検討したレヴィナスの時間および倫理観に準拠することで、どのような社会批判の様式を獲得したかを検討した。
 バウマンは、道徳的無関心を表すadiaphorizationを通して、対面していても両義性を免れるというパラドクスのうちに社会を見いだし、そのような事態の社会的な生成を問題にする社会批判の様式を確立した。そのためにまずバウマンは、道徳的自己の生成を「道徳性と道徳的自己の継続的な再誕生」と表現し、以下のような論理で、その可否を社会理論の射程に入れる。まず、道徳性を時間的外部性の領域に定位することによって、他者とともにいれば、あるいは、他者に囲まれていれば自動的に倫理が担保されるという存在論的な決定論を回避し、道徳的自己の決定において倫理の具現化が左右されることを射程に入れられる。さらに、そうすることで、道徳的自己の「再誕生」に影響を及ぼす社会的諸要因が考慮できるようになる。そこでバウマンは、共同性のあり方が、道徳的自己の「継続的再誕生」にどのように介入しているかを観測し、評価する作業を自身の社会学の仕事として導き出している。このようにして、バウマンは、道徳性を中心に時間論と自己疎外の問題を一つの一貫した理論的装置として統合し、道徳的疎外のリアリティに対して、社会的なものがどのようにかかわっているのか、それに対処する社会批判はどのようにして生まれるのか、についての一定の構想を確立することに成功している。
 第6章では、道徳性から社会へ焦点を移し、バウマンが社会過程をどのようにとらえ、理論のなかに組み入れているかについて論じた。
 バウマンは、ウェーバーの理解社会学やミルズらの解釈学的社会学に共感しながらも、自身の立場を「社会学的解釈学」といった顚倒の下に置く。なぜなら、解釈学的社会学においては、社会を自然視したうえで観察に臨んでいるからである。しかし、社会を道徳性との対比においてとらえるバウマンにとって、社会はむしろ、つねに疎外されたものとして立ち現れるべきである。このように社会をとらえるゆえに、「社会学的解釈学」は、社会が立ち現れることを所与の事実として扱うのではなく、そのようにして社会を出現させなければならなかった構造や戦略上の理由を伴った出来事として扱う。
 このような精神に基づき、バウマンは理性と美学の両過程で構成される社会空間(化)論を展開している。バウマンは社会空間(化)を理性と美の二つの契機がそれぞれの方式で道徳性を中和化する過程として理解している。そうすることで、バウマンは社会における理性の働き、社会における美学の働きを分析し批判するのではなく、理性的/美学的動機づけや理性的/美的価値が、それ自体、社会の出現であることを理論化している。その限りにおいて社会空間(化)は、デュルケームやブルデューがそう見なしたような、客観的で動かしがたい地政学的事実としての社会空間ではなく、あくまでも想像の産物として変革へ開かれる。
 つづいて第7章では、道徳性のユートピアのアイデアを解明することで、最晩年のバウマンが描き出すノスタルジアのディストピア、「レトロトピア」批判のアクチュアリティを明らかにした。後期バウマンは、彼自身が70年代に推し進めていた社会主義的ユートピアの構想を含むユートピア思想の系譜のうちにある多種多様なユートピア表象が、空間性にとらわれている点において共通して批判されるべきとする。バウマンは、このような空間性の制約が存在論的な議論の正当化を促してきたことに自覚的であったために、ユートピアの従来的な考え方ではなく、道徳的自己の超越のうちにユートピアを見いだすようになる。道徳的自己がその二元性に立脚して志向する時間的外部性は、いかなる空間性の制約をも逃れた,純粋に時間的な契機である。このような意味において道徳性のユートピアは、ユートピア的表象の紋切り型となっていた理想郷の空間的表象をふりはらい、純粋に時間的なものとしてユートピアを構想するという理論的目標に合致している。
 バウマンの道徳性に基づく批判的社会理論の意義は,時間的外部性として形而上学的な領域を射程に入れることで、現実社会を解放に向かわせる不変的な批判の準拠点を確立したことにある。