インド共和国での一連のヒンドゥー教徒家族法は,直接的には植民地期法制からもたらされたが,間接的には,また本源的には西暦前3世紀頃にまでさかのぼる在地法学(dharmaśāstra)の延長線上にこそある.本論文は,主にサンスクリット語で記述・議論されてきたこのような在地法学における「子ども」についての論題を追うことで,初期中世以降のヒンドゥー相続法の発展とその背景にある思想を論じる.
 最初期の在地法学テキストは祭事学テキストの一部を占めていたが,それは次第に独立した学問体系を築き,南アジアで長く命脈を保つこととなる.① Āpastambadharmasūtraなどはこの草創期に作成されており,7–8世紀頃までに作成された短散文・韻文テキスト群と併せて,古典期法典として高い地位を占める.②初期中世(11–12世紀頃以前)にはそれら古法典に対する注釈が,③さらに後期中世からは,ローマ法の「法大全」(Digesta)に比される法集成が執筆された.
 ヒンドゥー法において相続者として最優先されるのは「子ども」である.一般的に相続法論内には,“putra­prakaraṇa” などと呼ばれる小分野が含まれる.これは,字義的には,「息子(putra-)についての論議(-prakaraṇa)」を意味する.しかし,そこで実際に論じられているのは,厳密な意味での「息子」だけではない.不倫子,特別な条件下で「みなし息子」とされる娘,孫までもが含まれる.本論文では同分野にみられる歴史的な議論の変遷を追う.
 さて,ヒンドゥー教には循環的な世界観があり,時代はクリタ紀(黄金期)からトレーター・ドヴァーパラ紀を経て,カリ紀(kaliyuga,終末紀)へと凋落し,カリ紀末には再び秩序が回復され新たなクリタ紀が招来される—と信じられている.
 18世紀末のある報告によれば,当時のヒンドゥー知識人は満場一致して「クリタ・トレーター・ドヴァーパラ紀では有効だった『マヌ法典』の大部分が,今紀では失効している」と考えていた.ここでの今紀(“the present age”)とは,要するに,カリ紀・終末紀を指している.かつては有効(適法)とされた事柄が,今やもはや不法となった—このような見方は終末的禁忌論(kalivarjya)としてまとめ上げられてゆく.
 本論文は,相続法学史において子ども論と終末的禁忌論がどのように関連しあってきたかの解明を大枠の課題としつつ,それに関連する諸問題を本論パートの各章に割り当てるという形をとっている.序論・本論・結論の3パートから構成されており,それぞれは3章,4章,1章からなる.
 序論パートでは,先行研究について触れながら,本研究の課題を位置づけた.子ども論研究というより狭い領域では,文献学的な先行研究は20世紀後半から停滞気味で,取り立てて新規性のある研究成果は提出されていない.P. V. Kane(1962–1975)による研究水準を超えたのは,L. Rocher(2012)による嫡出子論研究のみといっても過言ではない.
 相続法学では,相続権をもつ子どもとして15種類ものタイプが示される.それに対して,一部の例外的地域はあるものの,嫡出子・ダッタ以外の13種類は近現代社会では廃れてしまっていたという事実も地誌などから知られている.先行研究レビューから示唆される課題は,「このような法実践と法理論との間にある明白なギャップをいかに説明するか」である.
 終末的禁忌論は,このような理論・実践のギャップを考察するのに役立つと予想される.しかし,子ども論研究に見られた「停滞」は終末的禁忌論研究にも当てはまる.終末的禁忌論についてもっとも専門的に分析しているB. Bhattacharya(1943)でさえも,子どもの定義について初歩的ともいえる間違いを犯していたことは,このことを象徴している.
 
 本論パートはじめの章である第4章では,法的子どものカテゴリが細分化したのは古法典家たちの分類偏好によるという主張(Kane 1962–1975 [3]: 649)を受けて,相続法上の実質的な意義がカテゴリの細分化をもたらしたという対立仮説を立て,テキスト調査を行った.子ども論の複雑さは,少なくとも,4種論ほどのシンプルさには回収できないことを示し,Kaneによる主張に一部反証した.
 第5章では,① “putrikāsuta,” ② “niyogaja,” ③ “yatrakvacanotpādita”—などと呼ばれる3タイプの子どもに注目して,14種論・15種論への発展を論じた. 4種論がシンプルすぎて法的な実効性を発揮できないとしても,12種論から14種論・15種論への複雑化はやはり分類偏好に由来するのではないかという反論がありえるからである.
 “putrikā-suta”(Yājñavalkyasmr̥ti [YSm] 2.128a)という表現は,「プトリカー」「息子」いう2語からなる複合語で,一般的には「プトリカーの息子」と解釈される.14種論を述べることは,法解釈上は,この“putrikā-suta” という複合語に,「プトリカーであるところの息子(=プトリカー自体)」という意味をも二重で読み込むことと同値である.本研究での文献調査から確認された事実は,注釈対象であるYSm の無謬性を保証したいMitākṣarāにとって,“putrikā-suta”にプトリカーの意味を読み込み,他の古法典との一致を図るという動機づけがあったことなどを示唆している.
 また,“yatrakvacanotpādita”というタイプを示すことで15種論へ至るか否かは,「私はこの命令を,同身分の息子たちについて説き明かした」(YSm 2.133ab)という一文を法的にどのように位置づけるかを分岐点としていることが実証された.
 第6章では,筆者が「代理的子ども禁忌論」と呼ぶ議論に視点を移した.代理的子ども禁忌論は終末的禁忌論の一項目で,「ダッタ・嫡出子以外を息子として受領することは〔カリ紀初めに禁止された〕」という法文によって示される.本章では,初期の4事例の検討からはじめ,他の終末的禁忌論との関係性を論じた.
 上に示した法文は,受取という字義的な意味を超え,法的には嫡出子・ダッタ以外の法的子どもによる相続・分割を禁止していることを指摘した.また,①ニヨーガ・再婚禁忌論などはそれらの行為だけを禁止しており,そのような不法行為から生まれた代理的子どもの権利を剥奪しないこと,②そのために,これらから生まれる子どもたちであるクシェートラジャ・パウナルババなどに発生してしまう相続権を排除する役割を担ったのが,代理的子ども禁忌論だったということ—を指摘した.
 第7章では,初期の事例とは打って変わり,代理的子ども禁忌論を示す全く同じ法文によりながらも「含意・提喩」をキーワードとして再び制限緩和へと向かってゆこうとするテキスト群を検討した.最終節ではこれまで注目されてこなかった20世紀半ばのダルマニバンダを紹介した.
 拡大解釈法によってプトリカーなどの代理的子どもを復活させようとする理路は,絶対的な古法典から演繹される解釈論議の所産ではなく,むしろプトリカーなどを容認するという結論ありきの議論という様相を呈していた.先取されていたそのような結論として,当時の社会的状況や1950年代を中心とするヒンドゥー家族法成文法化に向けた運動などについて触れた.
 
 子ども論が複雑化した11–13世紀は,代理的子ども禁忌論が明瞭に語りはじめられる時期でもある.代理的子ども禁忌論が語るように今紀において嫡出子・ダッタ以外が禁止されるならば,そもそも子ども論自体の必要性がなくなるはずではないだろうか.結論パートでは,これまでの議論を踏まえながら,この疑問に答える.
 本論で明らかとなるように,子ども論の複雑化は,嫡出子とそれに等置される “putrikāputra” が何であるかをめぐる議論の結果であり,また,ニヨーガに対する厳格化と関連している.代理的子ども禁忌論は嫡出子・ダッタ以外を禁止した.それと同時期に複雑化した法的子ども論には,終末的禁忌論の下で許容される嫡出子とは一体どのような子どもなのかをより厳密に確定するという意味合いがあり,また,未だ合法とされる余地のあったニヨーガについて,それがどのような範囲で許可されるか=どのようなクシェートラジャ・ビージャジャが許容されるか=を論じていた.
 したがって,子ども論の複雑化と代理的子ども禁忌論は相反する現象ではなく,「どのように定義される何が法的子どもとして許容されるのか」という共通テーマに向けて,同一の方向性をもった議論であると評価することができる.
 
 本論文では子ども論を通時的に論じることで,同一問題に対してどのような法解釈ルールが適応され,再解釈が行われ続けてきたかを例証している.本論文は法解釈ルールについての網羅的な研究ではない.しかし,法的子ども論に視点を据えて,その議論の変遷にかかわる形でいくつかの法解釈ルールが適用される実相を示すことができたのも重要な成果であると自負する.