本論文は、20世紀初頭における社会の大衆化状況が既存の政治体制にいかにして馴致されたのかを、戦間期の合法社会主義政党である無産政党の政治史的・思想史的分析を通じて明らかにするものである。
 
 明治末期から大正期にかけては、公的領域を対象とする議論の前提となる中心単位が、国家から社会へというかたちで劇的に移行していくという、思想上の構造的転換が見られた(いわゆる「社会の発見」)。これに伴い、それまで非国家的価値を奉じてきた在野の諸勢力も、発見された社会という概念を織り込んで変態を遂げつつあった国家的価値を、従来のナショナリズムとは質的に異なる文脈で承認し、国家を土俵とする政治的対抗を志すようになる。本論文では、「社会の発見」の反転可能性を顕在化させるかたちで生じたかかる思想的傾向を「国家の再発見」と定義し、戦間期における日本の政治体制の再編を、このモティーフに基づいて検討することを試みた。
 
 上記の問題意識に基づいて本論文が具体的に検討対象としたのは、無産政党という政治主体である。無産政党は、社会主義という前衛的なイデオロギーを標榜することにより、国家的領域の外側に新しく発見された社会的領域を最も高倍率で代表し、それを政党化というかたちで体制内化しようとした点で、国家と社会を制度的につなぐという代替不可能な役割を担っていた。本論文では、20世紀前半に社会的領域が国家的領域に包摂されていく過程を、無産政党が体制内化していく過程とパラレルに捉え、後者の具体相を象徴的な指標として、所期の課題に対して帰納的に接近することを目指した。
 
 その際、たんなる個別事例研究と明確に差別化されうるよう、立論にあたっては、以下の二点に留意している。
 第一に、「社会の発見」/「国家の再発見」という思想的現象が実際の政治過程にいかなるインパクトをもたらしたのかという分析視角との応答性を高めるため、政治史的アプローチと思想史的アプローチを意識的に折衷した。具体的には、各章の課題に照らして焦点となる思想を表す同時代用語を見出し、その概念をめぐる諸政治主体の相互関係に注目して当該期の政治過程を描く、という研究手法を採用している。
 第二に、実際的な生活の場としての社会という新概念が、同時代的には、国家と個人の中間に位置する生活共同体としての地方という既成概念と多分に重なりあって成立していたことに鑑み、中央-地方関係に着目して政治構造を立体的に描き出すことを目指した。具体的には、これまで事例研究が比較的手薄であった長野県・新潟県など農村地帯における無産政党支部の動向を中心に、実際に大衆生活に接する次元における政治的・思想的相剋を取り上げ、それを国政レベルでの政治過程と関連づけながら論じている。
 
 ここまでの内容を踏まえて、以下、各章の概要を示す。
 
 第1章「「議会主義」の弾力的再解釈」では、いまだ無産政党運動の方針が流動的であった1920年代における社会民衆党(右派無産政党)の動向を、その党是たる「議会主義」を軸として検討している。無産政党は当初ほとんどまとまった議席数を得られなかったが、1928年の総選挙では政友会・民政党が勢力が伯仲していたため、キャスティング・ヴォートを握る第三党の政治的影響力は比較的高い状態にあった。そこで社会民衆党は、少数党の立場から未完の「議会主義」を育てる立場をとっていたが、1930年の総選挙で民政党が大勝したことで拮抗がくずれ、上記のような無産政党に有利な条件が失われると、やがて方針の見直しを余儀なくされる。そうしたなかで、1931年、一部の党幹部たちは陸軍桜会によるクーデタ計画である三月事件に関与し、新興の議会勢力であるというステータスを搦め手で利用する方向に活路を見出した。事件そのものは未発に終わるが、同事件への関与をきっかけとして「議会主義」の解釈をめぐる党内の思想的対立が表面化し、1932年の無産政党再編に至る。
 
 第2章「「大衆インフレ」論と「広義国防」論の交錯」では、陸軍が掲げる改革論(「広義国防」論)が社会大衆党の経済政策(「大衆インフレ」論)と親和性を持っていたことに注目し、1930年代前半における両者の交錯の過程を検討している。当該期は、昭和恐慌が名望家秩序の大衆化に拍車をかけたことを背景に、各政治主体が恐慌への応答性を意識してセルフプロデュースを図った時代であった。社会大衆党は、社会運動を通じて労働者・農民の経済的不満を集約し、それを「大衆インフレ」論としてパッケージ化することで、軍・官僚に対して政策決定の指標を提供することを試みる。こうした動きに対して、総力戦遂行の基盤として国民生活の安定を重視する陸軍統制派の将・佐官クラスも機敏に感応し、社会大衆党の経済政策と親和性を持つ方策として「広義国防」論を打ち出す。その結果、社会大衆党と陸軍の距離は縮まっていき、両者の蜜月は1934年の陸軍パンフレット事件のときに極大化された。しかし、その紐帯の役割を担う中心的存在であった永田鉄山が1935年8月に殺害されると、陸軍はしだいに軍拡本位の強硬論に回帰し、「大衆インフレ」論と「広義国防」論のあいだの潜在的な矛盾が表面化していく。
 
 第3章「「陛下の無産党」への昇華」では、1935~37年の地方・国政選挙における社会大衆党の躍進と、これらの選挙において推進された選挙粛正運動を扱っている。当時の軍・官僚の多くは、急進的な革新運動に対する緩衝材としての役割と、そのような運動を支える大衆的利益を適度に汲み上げるための受容器としての役割を社会大衆党に求め、これを「陛下の無産党」(≒His Majesty's Opposition)として迎え入れようとしていた。そのような期待感を背景として望外の得票数増加を果たし、第三極を形成することに成功した同党は、階級政党としての「議会主義」を国民政党としての「議会主義」へと発展的に位置づけ直しつつ、責任政党化を進めることによって党の根本的性格を更新し始める。そのようにして体制内野党としての地位を確立した結果、1937年以降、社会大衆党は、実際の議席数とは不釣り合いなほど異様な存在感を放つようになっていく。
 
 第4章「「国民の党」構想の重層的展開」では、1938~40年に展開された、近衛文麿を擁立して一国一党を目指す新党運動と、それと連動する大政翼賛会の成立過程、およびその1941年以降の展開を、社会大衆党の「国民の党」構想に即して検討している。日中戦争の勃発により国際情勢が急迫し挙国一致体制の建設が急がれるなかで、社会大衆党幹部の亀井貫一郎は、ドイツ流の一国一党論の影響を受けて「国民の党」構想を案出した。それは初めこそ亀井ら一部の党幹部による近衛新党運動の策動(1938年)と紐づく机上論にすぎなかったが、次第に下部組織の側がイニシアティヴを持ち始め、地方に伏在する現状変更へのリアルな要求を土台として、党幹部の本来の意図を超えて先鋭的に具象化されていく。社会大衆党は近衛新体制に一国一党の夢を託してみずから党を解散したが、翼賛会は憲法上の兼ね合いから政党という形式を避けたため、「国民の党」構想の受け皿としては成立しなかった。旧社会大衆党幹部は翼賛会人事で優遇され、一時的には与党的地位を獲得するが、1941年4月の改組により実権を失う。その後、東亜連盟協会への合流や独自の衆議院院内会派の結成などを通じて挽回を図ったが、そのような試みは概して奏功せず、かれらの基本方針は競争的な政党政治路線へと回帰していく。
 
 第5章「「救国民主連盟」への収斂」では、1945~47年における日本社会党の結成、および片山哲内閣の成立過程を扱っている。この時期、社会主義勢力は戦前と比べて飛躍的に実勢を伸長させたが、その背景には、戦後民主主義の奔流のなかで圧倒的な盛り上がりを見せた民主戦線運動の存在があった。こうした状況に直面して、右派が主導権を握っていた当時の社会党は、大衆運動を「議会主義」的に統御しようとする「救国民主連盟」構想を打ち出し、巷間にあふれる諸種の民主戦線論を自前のそれへと一元化させていく。その結果、必ずしも平和的運動の範疇に収まるとは限らない所与の大衆運動は、立憲的に制動され、社会党首班による保守政党との連立政権を樹立させるための原動力に転化された。院内での妥協的調整を前提とする片山哲内閣という選択肢が、院外大衆運動を重視する党内/党外左派を糾合しえたのは、上記のような民主戦線論をめぐる理念的裏づけによるものであったといえよう。
 
 結論では、明治憲法体制下にあって無産政党が置かれた歴史的位置を、俯瞰的な視座から総括した。無産政党の体制内化は、国家的領域と社会的領域とが溶け合っていく当該期の大きな時代潮流に棹さして進行したのであり、裏を返せば、そのような明治憲法体制のメタモルフォーゼを逆照射する政治現象でもあったといえる。最後に、本論文を通じて検討してきた無産政党の事例を足掛かりとしながら、「社会の発見」/「国家の再発見」という鍵概念の体制論的な敷衍可能性について、若干の展望を示した。