本論文の目的は、フランス近代史における政教関係の特徴を解明することにある。フランスはしばしばライシテという厳格な政教分離を国是に掲げているとされる。しかし、フランス近代史上の政教関係には、厳格な「分離」という言葉だけでは十分に捉えきれない複数性がある。本論文の中心的な主張は、フランスのライシテには「排除」「管理」「選別」という三つの基本モチーフが存在するということにある。本論文では、19世紀末から20世紀初頭に実現された病院のライシテ化を主な事例にこれを論証する。19 世紀のフランスでは、医師や看護師と並んで司祭や修道女が公立の病院で働いていたが、19 世紀末に第三共和政が成立して世俗的な共和国の実現を目指す共和派が政権を握ると、病院のライシテ化を求める機運が高まる。本論文では、パリ、リヨン、ボルドーの事例を取り上げ、病院のライシテ化が目指された結果、各都市で異なるライシテのあり方が実現されたことを指摘する。
 本論文には大きく三つの特徴がある。第一の特徴は、病院の事例を扱うことである。従来の研究は、ライシテの歴史を描く際には主に、学校のライシテ化に注目してきた。これに対して、本論文では2000年代以降学術的関心を集めながらも、いまだ十分に論じられていない病院のライシテ化の事例を取り上げる。第二の特徴は、地域性を重視することである。従来の研究は、ライシテの歴史をナショナルな枠組みで描いてきた。これに対して、本論文ではパリ、リヨン、ボルドーを事例に取り上げ、各都市の地域的特殊性が病院のライシテ化の展開にいかなる影響を与えていたのかを解明する。第三の特徴は、承認の両義性に注目することである。近年の研究では、現代のフランスには宗教の公共的な役割を認める「承認」のライシテがみられるという指摘がなされることがある。これに対して、本論文では一見「承認」にみえるライシテの裏側に潜む「管理」や「選別」の力学を強調する。
 第一部の理論編では、ライシテ及びライシテ化という語について論じる。第一章では、ライシテ研究の世界的拠点である「社会・宗教・ライシテ研究グループ」(GSRL)によるライシテの定義を批判的に取り上げる。ジャン・ボベロが1995年に設立したGSRLは、ライシテを「自由」「平等」「中立」「分離」などの要素に分けて定義することを提案している。その定義では、ライシテはなにより自由と平等を「目的」とする原理であり、中立と分離はその「手段」にすぎないとされる。本章では、ライシテの解釈自体が争点化し、共和主義的理解と自由主義的理解が対立している現代のフランスにおいて、GSRL の定義は自由主義的な規範性を帯びていると指摘する。本論文では、ライシテを自由の理念とする立場に共感しながらも、その規範性から距離を取るために、ライシテの語を広く政教関係、より具体的には宗教(宗教者や宗教団体などの社会的アクター)に対する政治(国家や地方自治体などの社会的アクター)の関わり方という意味で用いることを提案する。
 第二章では、宗教社会学における世俗化論の形成過程を跡付けたあと、世俗化とライシテ化の概念上の区別について論じる。西洋の宗教社会学では1960 年代から70 年代にかけて世俗化論がパラダイムを築いた。これまでの学説史は、世俗化論が多様な批判に晒されてきたことを強調してきたが、そもそもなぜ世俗化論が興隆したのかについてはあまり語られてこなかった。そこで本章では、世俗化論がパラダイムを築いた背景には、理論的で脱宗派的な宗教社会学を志向する研究者の学問的な問題意識と、世俗社会に対するキリスト教の適応を志向する宗教者の宗教的な問題意識があったことを指摘する。そのうえで、世俗化論の精緻化を図るために、世俗化を社会文化面、ライシテ化を政治制度面での変化と区別する近年の議論を詳しく紹介する。そして本論文ではライシテ化の語を、制度や政策を通して宗教に対する政治の優位性が確立される過程という意味で用いることを提案する。
 第二部の事例編では、主に第三共和政前期のパリ、リヨン、ボルドーにおける病院のライシテ化について論じる。第三章では、首都パリの事例を取り上げる。パリでは、共和派の政治家で医師のデジレ=マグロワール・ブルヌヴィルによって、大部分の病院が1880年代にライシテ化された。本章では、パリの病院のライシテ化の特徴は、病院に勤めていた修道女を「追放」すると同時に、それを世俗看護婦で「代替」するところにあったことを明らかにする。ブルヌヴィルを筆頭とする急進共和派のパリ市議会は、パリの病院を管轄する公共厚生局に働きかけて修道女や司祭を病院から「追放」するとともに、世俗看護学校を設立して修道女を「代替」しうる世俗看護婦を育成したのである。この「排除型」のライシテは、当時から医療現場の反発を招いていたが、公共厚生局が財政面でも政治面でも市議会と緊密に連携していたという、パリの地域的特殊性がそれを実現可能にしていたといえる。
 第四章では、フランス第二の都市リヨンの事例を取り上げる。パリの前例を受けて、リヨンでも病院のライシテ化を求める機運が高まった。しかし、第三共和政前期のリヨンではパリとは異なり、病院から宗教者が追放されておらず、世俗看護婦による修道女の代替もなされていない。本章では、リヨンの病院のライシテ化の特徴は、病院で働く修道女に対する「監視」を強化すると同時に、彼女たちを資源として「利用」しようとするところにあったと指摘する。リヨンでは病院を管轄する運営総会のアルマン・サブランの説得により、修道女の排除ではなく「監視」を重視する声が優勢になるが、そこには修道女を低賃金で働く経済資源、病院に権威を与える象徴的資源として「利用」する思惑があった。この「管理型」のライシテは、リヨンの病院で働く修道女が特殊な伝統と特徴を持ち、また運営総会が市議会から財政面で自立していたという、リヨンの地域的特殊性により実現可能になっていた。
 第五章では、フランス南西部の都市ボルドーの事例を取り上げる。パリとリヨンに続いてボルドーでも1900年代になると病院のライシテ化が議論されるようになった。だが、ボルドーの病院でも第三共和政前期の間、宗教者の追放や代替はなされていない。本章では、ボルドーの病院のライシテ化の特徴は、カトリックの修道女を「敬遠」すると同時に、プロテスタントと「協働」しながら看護の近代化を押し進めたところにあると論じる。20 世紀初頭のボルドーでは、共和派の政治家ポール=ルイ・ランドが看護改革を進めたが、そこでは看護学校を世俗女性向けと修道女向けに分けてカトリックの修道女を「敬遠」する一方、プロテスタントの医師アナ・ハミルトンと「協働」してイギリス流の看護教育を取り入れる試みがなされた。この「選別型」のライシテには、歴史的にイギリスと関係が深く、プロテスタントが大きな存在感を持っていたという、ボルドーの地域的特殊性が反映されている。
 このように第二部では、第三共和政前期のパリ、リヨン、ボルドーにおける病院のライシテ化を事例に、「排除」「管理」「選別」というライシテの基本モチーフを析出する。各章の小結ではいくつか事例を紹介しながら、これらのモチーフがいずれもフランス近現代史を通して観察しうるものであることを示す。これらの議論を踏まえ、さらに第六章では、現代フランスにおけるエマニュエル・マクロン大統領の宗教政策を取り上げ、「管理」「選別」というモチーフは現代のライシテを理解するうえでも重要であることを改めて強調する。マクロン大統領は就任以来、カトリック教会との「対話」を重視してきた。これは一見「ポスト世俗(主義)」的な「承認」のライシテにみえるが、同時に過激派対策という名目で、イスラーム全般に対する「監視」の強化が進められてきた。
 本論文の議論からは、フランスの近代的な政教関係には、「排除」「管理」「選別」という三つの基本モチーフがあることが示される。第三共和政前期のパリ、リヨン、ボルドーにおける病院のライシテ化は、各都市の地域的特殊性を反映して異なる経緯を辿ったが、そこで実現されたライシテには、フランスの近現代史を通して観察可能な基本モチーフを見出すことができるのである。本論文が示すのは、政治が宗教に対する優位性を確立した近代フランスにおいて、政治が宗教を統制する様態の諸相である。結論部では、こうした近代的な政教関係の形成過程をさらにメタレベルの近代化論に接続し、近代における「宗教と社会」に関する従来の世俗化論を批判しながら、近代における「宗教と政治」に関する一般理論を構築すること、政治主導で実現された病院のライシテ化を一般の人びとがいかに経験したのかを解明すること、そして本論文から得られたフランスの政教関係に関する知見を、「批判的比較宗教学」の観点から国際比較に応用することが、今後の課題として提示される。