本論文は、10世紀のこととされてきた「イングランド人の王国」の成立を7世紀から10世紀前半という長期的な枠組みで再検討するものである。従来の研究では「イングランド人の王国」の成立とイングランド人の政治的統合を同一視する傾向があった。そして10世紀半ば以降の王国統治制度の発展に着目し、それがノルマン征服を超えて継続してゆく点が強調された。それに対して本論文は、イングランド人の政治的統合としての「イングランド人の王国」の成立に、その他の様々な面、具体的には教会、言語、経済(貨幣)におけるイングランド人の統合が先立ち、その土台の上に「イングランド人の王国」が形成されたことを明らかにする。特に8世紀末から10世紀前半は一般的に「第一次ヴァイキング時代」として認識され、イングランド史上の危機の時代あるいは混乱・停滞期とみなされたため、それ以前あるいはその途上に教会や言語や貨幣の面で見られた統合過程が見逃され、8世紀末以前と10世紀前半以降の断絶が過度に強調されている。この同じ時期を7世紀から続く「イングランド人の王国の形成期」と捉えなおすことで、ヴァイキングがもたらした混乱の中でも、あるいはその混乱を契機として、ヴァイキングをも巻き込みながら進展した、王国を構成する諸要素のより長期的な展開を明らかにすることを試みる。
 第1部では、イングランド人の政治的統合の帰結である「イングランド人の王国」が成立する以前の7世紀から9世紀末に、アングロ=サクソン人たちがイングランド人として形成されてゆく過程を、教会、言語、貨幣の3つの側面から考察した。
 第1章ではまず6世紀末以来のアングロ=サクソン諸王国へのキリスト教布教過程と、イングランド人の教会が世俗の政治的分断状態に先駆けて一体的な組織を形成したことを確認した。続いて教会会議と聖職者の書簡コミュニケーションに着目した。7世紀から9世紀までの教会会議およびアングロ=サクソン人聖職者が彼らの間、あるいはイングランド内外の世俗支配者や教皇との間で交わした書簡からは、「イングランド人の王国」成立前から、「イングランド人の教会の構成員がイングランド人である」という自己認識および他者認識が生まれつつあり、その一体性のために政治的分断を超えた活動がなされていたことが確認できた。さらに教会会議は、立法・司法制度あるいは文書による統治など、のちのイングランド人の王国の統治制度に影響を与えていた。また書簡の中では繰り返し「イングランド人の教会」の一体性が強調され、書簡コミュニケーションを通じて「イングランド人」意識あるいは「イングランド人の教会」の一体性に関する言説が共有され、強化されていった。
 第2章では文字文化とラテン語および古英語のリテラシーについて考察した。まず6世紀末のキリスト教受容以来、少なくとも社会の上層部に両言語の読み書き能力が浸透していったことが文書使用に基づく統治を可能にしたことを確認した。次いでアングロ=サクソン人は記録と記憶それぞれの利点や欠点を理解し、状況によって両者を使い分け、組み合わせて使用しており、文字文化が深く根差した社会に生きていたことを明らかにした。最後に王国統治において文書および古英語の使用が必要とされた理由を考察した。文書が必要とされたのは、国王宮廷の巡行地域が支配地域の一部に限られる一方で、貨幣制度や各地の軍事的・商業的拠点である囲壁都市(ブルフ)のネットワークは王国全土に広がっていたため、中央と地方の間で書簡と伝令による政治的コミュニケーションが不可欠であったからである。そして古英語が書き言葉として使用されたのは、聖職者ですら公の場で母国語である古英語を使用している状況では、全てをラテン語に翻訳するよりも古英語のまま記録する方が合理的であったからである。その結果として古英語の文書が蓄積され、そうした文書を作成し、使用する者の間でイングランド人アイデンティティが生まれ、他者からもそのような集団として認知されていった。
 第3章では8世紀以降の貨幣制度の展開を考察した。イングランド人の王国の成立に関わる最初の画期は8世紀後半の新ペニー貨の導入である。新ペニー貨の製造体制や、貨幣の意匠や形状の特徴はどの王国でもほぼ同じであり、アングロ=サクソン諸国では相互に理解可能な類似の貨幣制度を運用していたことが、政治的統合を容易にした。続く画期は840年以降のウェセックスとマーシアによる貨幣製造における協力および共通貨幣政策である。当初両王国が貨幣製造人や打ち型を融通しあっていた段階から、共通の意匠を持つ貨幣を製造する段階を経て、最後には一致して貨幣改革を行う段階まで両者の関係は深化した。このように9世紀は両王国の王が貨幣の型の統一すなわち貨幣制度の面でイングランドの経済的統合を実現することによって、政治的統合の基盤が築かれた時代として積極的に再評価できる。これに続くのがヴァイキングによる貨幣製造開始である。ヴァイキングは自らが占領したノーサンブリアのステュカ貨を維持するのではなくアルフレッドの貨幣を模倣することで、史上初めてイングランド全域で同じ様式の貨幣が製造されるようになり、結果的にイングランドに一つの貨幣制度が生まれる契機となった。
 第2部では9世紀末から10世紀前半の統治制度を考察した。従来の研究は10世紀半ば以降、イングランド人の王国全土に一律に適応される制度の登場をイングランド人の政治的統合と同一視した。これに対して本論文では、一見それ以前の制度とは一線を画し、全国で画一的に思える諸制度は、実は各地域の歴史的展開を反映した多様性を含んでおり、イングランド人の王国が成立する以前から継続的に発展していったものであることを示した。
 第4章では王国集会を考察した。従来イングランド全域から聖俗諸侯が参加するようになったノーサンブリア併合以降のエセルスタンの集会が画期とされた。対照的に、その直前の「アングル人とサクソン人の王国」の時期にはウェセックスとマーシアの2つの集会が並立していた。しかしそれは両王国が1つの政体へと統合される過渡期の例外的な状況であった。それ以前にはエセルスタンの集会と同様に王国ごとに1つの王国集会に王国中の聖俗貴顕が出席して統治を行っていた。またエセルスタン以後のイングランド人の王国は度々テムズ川を境として南北に分断され、その度に別々の集会が現れた。
 第5章では地方統治組織を考察した。従来10世紀半ば以降にシャイア・ハンドレッド制が全国一律の制度として導入されたと考えられた。しかしその実態はそれ以前の様々な地域区分に由来する、地域ごとに名称も規模も異なる統治組織の集合体であった。さらに地方ではシャイアやハンドレッドの名称が史料で確認される前から、ブルフを拠点として司教とエアルドルマンが集会を開催して統治を行っていた。
 第6章では文書による政治的コミュニケーションを考察した。従来10世紀末のエセルレッド2世治世に導入された令状が州集会とそこに集う聖俗諸侯を名宛人として送付されることで、王権から地方への意思伝達が円滑化したとされた。しかし令状の導入以前からラテン語ととりわけ古英語の文書が中央と地方の間で様々な経路で往復することによって王権と地方が協働して統治を実践していた。
 第7章では貨幣制度を考察した。従来エドガー治世末期の同じ意匠・品位・量目を持つ単一の型の貨幣の導入が統一的な貨幣制度の画期とされた。しかしアルフレッド治世末期からエセルスタン治世には、意匠の統一を除けば王の名と称号を刻み、比較的統一された品位と量目を持つ貨幣のみが王国中で製造され、流通していた点で「一つの貨幣制度」が存在していた。そしてそれは8世紀半ばの新ペニー貨導入以来の王権による貨幣製造権独占の長い歴史の一部であった。
 したがってイングランド人の王国を特徴づけるとされる諸制度はそれ以前から継続的に発展しており、それらは従来の想定以上に多様性を内包していた。それでもアングロ=サクソン人が1つの政体にまとまることができたのは、多様な人々を結び付ける共通の要素が存在していたからである。それが第1部で見たイングランド人の教会としての一体性であり、ラテン語と古英語の文書使用、および共通言語である古英語を通じたコミュニケーションであった。すなわちウェスト・サクソン人やマーシア人、さらに改宗したヴァイキングであろうと、同じイングランド人の教会に属するキリスト教徒として、常に宗教的な一体性は継続していた。また比較的広範な人々のラテン語と古英語の読み書き能力ゆえに、ある地域で作成された文書が別の地域でも通用し、地域間での文書によるコミュニケーションによってお互いの差異を理解し、その上でそうした多様性を内包する形の政治的統合が可能になった。貨幣もエドガー改革以前には意匠の多様性は存在していたが、1人の王の名と称号および肖像を刻んだ貨幣が王国全土を流通し、人々がそれを日常的に使用していたことも同様に理解できる。
 以上の分析から、7世紀以来の教会・言語・貨幣上の統合に基づき、ブリトン人やヴァイキングなどの他者がそうした共通の要素に基づくコミュニケーションに継続的に参画することで、彼らをも柔軟に受容して拡大してゆく開かれた人間集団としてのイングランド人が9世紀末までには成立しており、そうしたイングランド人意識に基づく統治上の諸制度は既に10世紀前半すなわちエセルスタン治世までには形成されていたことが明らかとなった。したがってエセルスタン治世における「イングランド人の王国」の成立はイングランド人の統合の起点ではなくむしろそれ以前の統合の帰結であった。