本研究は、虎関師錬(1278-1346)の禅思想の具体的内実について、師錬の著作に基づいて解明、その構造を描出したうえで、可能なかぎり禅思想史ないし仏教思想史上に位置づけることを企図する。論文題目に冠する「総合的研究」とは、文献学的研究を基礎としつつ思想(史)的研究まで視野に入れた包括的な研究をおこなうということ、そして、多角的な論題設定によって能うかぎり師錬の思想の構造の全体像を描き出そうと試みることを意味する。
 虎関師錬は、円爾(1202-1280)を祖とする聖一派に属する禅僧である。生前に国師号をおくられるなど、当時の禅林で大きな影響力を持った人物であり、また、日本初の総合的仏教史書である『元亨釈書』の編者として今日においても広く知られる。
 師錬についてはこれまで、代表著書『元亨釈書』にかんする研究、あるいは五山文学の先駆けとしてその詩文を扱った研究が多く行われ、仏教学分野から思想を解明する研究は十分になされてこなかった。また、幾らか思想を論ずる研究はあるものの、扱われる文献の偏り、思想研究の土台となるべき著作の基礎的検討の不足などに起因し、具体的な禅思想の内実までは、明らかにされてこなかった 。
 上述の先行研究の問題を踏まえ、本研究は、思想研究に不可欠な師錬の著作について基礎的検討をおこなった上で、師錬の著作を網羅的に精査しながらその禅思想の内実を描出している。とくに、従来の研究において等閑に付されてきた『正修論』を活用することは、本研究の特色のひとつである。
 
 本研究は序論・本論・結論・附録より成る。このうち本論は、第一部「虎関師錬の著作」(第1章~第3章)、および第二部「虎関師錬の禅思想」(第4章~第9章)の二部構成である。
 
 序論では、先行研究が抱える問題と本研究の意図・方法について論じた。また、本論に入る前の予備的作業として、虎関師錬の生涯と本研究で扱う著作とを概観した。
 
 第一部「虎関師錬の著作」では、師錬の禅思想を検討するうえで基軸となる著作について、基礎的かつ批判的な検討を加えた。取り上げたのは、『正修論』『禅戒軌』『仏語心論』の三つの文献である。
 第1章「『正修論』の基礎的考察」では、『正修論』の基本的情報を整理するとともに、引用出典の特定をおこなった。『正修論』のなかで持論の主張の際に論拠として多く用いられるのは、『楞伽経』『大乗起信論』および『大慧書』『大慧宗門武庫』などの大慧宗杲(1089-1163)の教説であり、持論の具体例を示す仏祖の古則公案を引く際に多く用いられるのは、『景徳伝灯録』『聯灯会要』『禅林類聚』等である。
 
 第2章「『禅戒軌』と諸授戒儀軌」では、師錬の著した授戒儀軌『禅戒軌』の基礎的検討をおこなった。とくに大きな問題として取り上げたのは、当該書の内容を増補した『禅門授菩薩戒軌』なる文献の扱いである。本章では、当該書を江戸期成立、『禅戒軌』のみ師錬の真撰と見る先行研究に補説をおこない、『禅門授菩薩戒軌』後代成立の蓋然性が高いことを示した。
 
 第3章「『仏語心論』の諸問題」では、『四巻楞伽』に対する師錬の注釈書『仏語心論』の刊行史を整理するとともに、先行『楞伽経』注釈書との関係性を検討した。とくに『仏語心論』と内容の酷似する撰者不明『楞伽経疏』(大日本続蔵経所収)と『仏語心論』との関係について、少なくとも先行研究の見解が妥当ではないことを示し、再検討をおこなった。『楞伽経疏』は全体のごく一部のみが現存し全貌の確認は叶わないため、議論を十分に尽くすことはできないが、ひとつの仮説として、『楞伽経疏』が師錬撰述であり『仏語心論』の草稿であった可能性を提示した。
  
 第二部「虎関師錬の禅思想」では、具体的に師錬の禅思想を明らかにした。
 第4章「虎関師錬に至る禅宗史」では、章題のとおり、師錬に至るまでの禅思想史を概観するとともに、師錬特有の禅宗史観を明らかにした。
 師錬特有の禅宗史観のうち、とりわけその思想形成に大きな影響を与えたと考えられるのは、達磨日本渡来説への傾倒、そして禅の「三蔵」という特殊な聖典観、の二点である。とくに後者について、師錬は禅宗の「三蔵」を規定し、経蔵を『楞伽経』、律蔵を『梵網経』、論蔵を『大乗起信論』と位置づけている。師錬の思想は、これら禅の「三蔵」と密接に関わるかたちで展開されることとなる。なお、依用経論の特徴として一点留意すべきこととして、聖一派の祖たる円爾が『宗鏡録』を重用したのに比して、師錬は当該書を重んじていないという点を指摘しうる。
 
 第5章「虎関師錬の禅風論」では、師錬がいかなる禅を邪禅と判じていたかを明らかにすることで、師錬自身の禅の輪郭を浮き彫りにすることを試みた。具体的には『正修論』「質惑第七」「救偏第八」章における、平実禅・黙照禅・葛藤禅・頓教禅・機関偏重禅への師錬の批判を検討し、一連の師錬の禅風批判が、宋代禅の特徴である大悟徹底の経験の重視という思想によって貫かれていることを明らかにした。
 また本章では、葛藤禅と頓教禅を批判するにあたって展開された、「宗」の意にかんする議論、および禅門における言葉の使用の是非をめぐる議論に拠りながら、師錬における教・禅の関係づけについて理解の方向性を示した。すなわち、しばしば「教禅一致」の禅僧と言われる師錬ではあるが、法門における宗門(禅門)の独尊を説き、また仏語と仏意の一致を成り立たせる「一悟」の必要性を強調していたことが確認された。
 
 第6章「虎関師錬の修証論」では、師錬が「修」(修行)と「証」(悟り)の関係性をいかに理解していたかを検討した。
 師錬の修証観における「悟」の境界の理解は『大乗起信論』に大きく拠っており、「悟」とは心の雑濁が除去され純なる本心と契合する「契悟」であるとされる。「契悟」に至るための修位の「工夫」として、禅定の不断の継続を肝要としていることから窺えるように、師錬は勤勉かつ綿密な修行の必要性を強調していた。「工夫」の一部として大慧宗杲の大成した看話も導入しているが、師錬は「動静一如」を志向する大慧とは異なり、あくまで不断の静坐修行を重んじていたことを指摘しうる。
 また師錬は、禅門の修位における工夫を、『楞伽経』の「攀縁如禅」、および『起信論』の「心真如門」と同一のものと位置づけている。とくに、『楞伽経』の四種禅の第三番目にあたる攀縁如禅と、禅門の具体的実践たる公案提撕(看話)について、語義的に同一であると見て両者を理論的に結び付けているのは、他に類を見ない特徴的な議論と評価できる。
 
 第7章「虎関師錬の『楞伽経』理解」では、師錬が『楞伽経』という経典自体をいかに理解していたか検討し、師錬の禅思想の基盤の解明を試みた。
 師錬の理解において、『楞伽経』は法身の説法であり、機根の勝れた者向けの高い次元の経典として位置づけられる。さらに師錬は、『楞伽経』の「宗旨」を「真妄不二」ないし「妄即真」と見、「真」は決して「妄」を離れて存在するわけではないという観点から、『楞伽経』が八識説を採用し第九識・第十識を立てないということを強調している。
 また『仏語心論』では、しばしば『楞伽経』の教説と禅宗教理とが結び付けられ、解釈されている。このような議論を通して『仏語心論』は、かつて達磨が重んじたと伝承される『楞伽経』を、禅僧にとっての活きた教理と結び付けようとしたと考えられる。
 
 第8章「虎関師錬の経典観―他宗の教判への批判を中心に―」では、師錬が他の教学の教判における『楞伽経』の位置づけに対し、どのように論駁していたかを検討した。
 師錬は『仏語心論』で『楞伽経』本文を解釈するにあたって、同経典が天台の通教・別教、および華厳の頓教に組み込まれることのないよう、「性」と「相」の関係性に留意して論じていた。また『済北集』では、天台や華厳の教判に対し個別の論難を加えている。天台については特に、五時教判、湛然(711-782)著『止観輔行伝弘決』の『楞伽経』理解、日本の円珍(814-891)の経典観などを批判し、華厳の教判としては特に李通玄(635-730または646-740)の『楞伽経』理解に対して批判を加えている。これらの議論の齟齬や誤謬を指摘することで、師錬は自らの『楞伽経』理解の堅持につとめたのである。
 
 第9章「虎関師錬の禅戒観」では、師錬の戒律観を検討した。
 師錬における「禅戒」は、禅門における戒の意であり、修道上では「大覚」に至る資と位置づけられ、具体的には梵網十重四十八軽戒を内実とする。そして師錬においては、『梵網経』が禅門の「律蔵」に位置づけられ、諸宗とは別に禅宗内で『梵網経』が師資相承されてきたことが宣揚される。徹底した梵網主義とも言うべき傾向を見せる師錬は、梵網戒を三摩耶戒(密教の戒)より低く位置づけるような見解について、これを戒めていたと推定される。
 
 結論では、上述の議論を総括し、師錬の禅思想の基本的構造と思想史的意義をまとめた。
 端的に述べれば、師錬の禅は、外枠として宋代禅の論理(大悟徹底の重視)と実践(看話)とを受容しつつ、その根幹部分については『楞伽経』『梵網経』『大乗起信論』という禅の「三蔵」を基礎として形成されたものであったと言いうる。そして、これら「三蔵」を拠り所として挙揚される師錬の議論は、多様な禅理解がなされていた当時の中世禅林ないし中世仏教界においても、独自かつ特徴的なものであった。とくに、『宗鏡録』を重んじた円爾の遺風を継ぎ、ときにこれを曲解する者が現れた当時の聖一派の中にあって、師錬の禅風は、「宗鏡の義勢」の弊を是正する提起ともなっていたと考えられる。
 
 最後に附録として、虎関師錬著『正修論』正保三年刊本(駒澤大学図書館所蔵)の翻刻テキストを付し、西教寺正教蔵写本・寛文六年刊本との校異を示している。