本論文は、人間社会とアヘンとの関係が大きく変化し始めた近世期の新局面として、17世紀後半から18世紀末にかけてのオランダ東インド会社のアヘン貿易とその終局として19世紀初頭の本格的な植民地統治体制への移行期を検討した。その目的は、上記のアヘン貿易に関わる、海域アジアをまたぐ商品連鎖やバタヴィアを中心とする商業利権、ジャワ島における消費と規制の形成と展開について解明することである。
 これまで多くの研究は、アヘンが経済史上重要な役割を持つようになった画期として、イギリス東インド会社がインド亜大陸北東部のベンガル地方におけるアヘン専売制度を開始した1773年以降のことに注目してきた。そして、その延長に、19世紀以降の海域アジアにおけるアヘン貿易の拡大や東南アジアにおけるアヘンの徴税・専売請負制度の発展、世界市場向け商品の生産従事者によるアヘン消費、アジア域内貿易の発展、あるいは中国大陸におけるアヘン戦争(1840-1842年)の勃発といった事象が生じたという歴史像が描かれてきた。
 しかしながら、本論文の着想は、17世紀後半から18世紀末にかけてのオランダ東インド会社のアヘン貿易およびそれと同時並行的に顕在化していった社会経済的な変化が、多くの部分で19世紀以降になって顕著になった現象を先取りするものであったという点にある。そうした事例はいくつかの先行研究から示唆されるものの、いまだオランダ東インド会社のアヘン貿易に関する体系的な専論はなく、断片的な見取り図しか描けなかった。例えば、これまで会社のアヘン貿易に注目した研究の多くは、貿易の変遷や貿易量の推移、利益の多寡といった会社史や植民地史の視点を大きく越えるものではなく、特に流通や消費、植民地統治体制への移行期に関しては十分分析してこなかった。とはいえ、近年の会社史やアジア史の研究では、オランダ東インド会社による貿易活動の商品連鎖を支える多様なアクターやバタヴィア政庁の利害関係、植民都市における商人の活動、植民都市と後背地における社会や経済の発展について検討されてきており、会社のアヘン貿易の研究にもそうした分析視角が欠かせない。
 これらを踏まえて、本論文は、3つの分析課題として、(1)オランダ東インド会社のアジア域内貿易と独占、(2)貿易独占体制下の植民都市における商人と商業利権、(3)植民都市と後背地――社会におけるアヘンの消費と規制の進展、という論点を提示し、全8章を通じて検討した。
 まず、第1章と第2章は、本論文の枠組みを示す役割を持つ。第1章「オランダ東インド会社によるアヘン貿易独占体制の形成と商品連鎖――17世紀後半から18世紀半ばまでのアヘンの生産と貿易」は、オランダ東インド会社によるアヘン貿易の始まりから、アヘン貿易やその貿易独占体制が会社のアジア域内貿易のなかで果たした役割、インド亜大陸ビハール地方の生産地からバタヴィアの競売までの商品連鎖を示した。第2章「オランダ東インド会社貿易独占体制下のアヘン流通と「密貿易」――17世紀後半から18世紀半ばまでの担い手とネットワークに注目して」は、マレー・インドネシア諸島では会社のアヘン貿易独占体制下で、バタヴィアを起点とするアヘンの流通と「密貿易」の流通という2つのネットワークが発展し、規模は大きく異なったものの、多様な担い手が参画していたことを浮き上がらせた。
 続く第3章と第4章では、18世紀半ばから18世紀後半にかけての植民都市バタヴィアにおけるアヘン貿易をめぐる利害関係や商業利権の実態と動揺を描き出した。第3章「オランダ東インド会社とアヘン貿易協会――18世紀中葉のバタヴィア政庁によるアヘン特権の創出」で分析したのは、1745年に会社のアヘン専売を代行する特権を持つ特許会社として設立されたアヘン貿易協会の設立背景や初期の経営実態、出資者となったバタヴィアの有力ヨーロッパ系自由市民や縁故で結びついたバタヴィア政庁幹部の利害関係である。第4章「アヘン貿易をめぐるバタヴィアの商業とエリートの利害――18世紀後半のアヘン貿易競争とバタヴィア政庁の施策に注⽬して」では、アヘン貿易協会を中核とするバタヴィアのアヘン貿易をめぐる商業利権が、1760年代以降、イギリス東インド会社やイギリス人私貿易商人、東南アジア各地の港市の台頭により、アヘン貿易競争に晒されるなかで、18世紀末までいかに存続し、どう再編されたのかを検討した。
 話題を転じ、第5章から第7章までは、17世紀後半以降のアヘン貿易拡大と並行して進んだジャワ島、特にバタヴィアにおけるアヘンの消費や規制の問題を扱った。第5章「マレー・インドネシア諸島におけるアヘン消費の浸透――消費⽂化と社会的葛藤」は、17世紀後半以降、タバコ喫煙の延長でアヘンを添加して吸うマダットという混合物の消費が東南アジア島嶼部で普及し、特にジャワ島では多様な消費文化が見られた一方、宮廷がアヘン吸飲を道徳的に戒めるなど社会的葛藤も表出したことを明らかにした。
 第6章と第7章では、17世紀後半から18世紀末にかけての植民都市バタヴィアと周辺部を検討対象とし、バタヴィア政庁の施策の変遷に注目することで、アヘン消費と結びついた社会経済構造や社会変容を浮き上がらせた。第6章「バタヴィアにおけるアヘン消費――17世紀半ばから18世紀半ばのバタヴィア政庁によるマダット規制の展開をめぐって」では、多民族・多元的社会のバタヴィアにおける治安悪化や奴隷・労働者の「労働忌避」などを問題視した政庁が、1671年以来、マダットの製造、販売、使用を禁止していた一方、1740年代には、バタヴィア周辺部の開発とアヘン販売を奨励する潮流のなかで、労働者にアヘンを販売する砂糖プランテーションの利害も絡み、バタヴィア周辺部では規制を緩和せざるを得なくなったことを示した。第7章「バタヴィアの周辺部における「アヘン窟」管理の制度化――18世紀後半のバタヴィア政庁の治安対策と植民地社会」は、「アヘン窟」やそこを根城にする「ならず者」が発生した植民地社会の「歪な」社会経済構造を分析するとともに、18世紀末に、政庁が治安対策の一環として「アヘン窟」管理の請負制度を導入したことを示した。
 最終章となる第8章「植⺠地体制移⾏期のジャワ島におけるアヘン貿易政策と専売請負制度――政庁による政策模索と専売請負人の台頭(1790-1820年代)」は、第1章から第7章までに扱った諸問題が、1800年以降の本格的な植民地統治体制への移行期に、いかにジャワ島のアヘン専売請負制度へ結びつき、どのような影響をもたらしたのかを検討した。本章では、まず、オランダ東インド会社の政庁幹部から転じてオランダ領東インド政庁の役人となった人々のアヘンをめぐる政策論議を分析し、それらが以降のアヘン政策の基礎となったことを論じた。次に、1808年のダーンデルス東インド総督が導入し、1811年以降のイギリス占領統治期に洗練されたアヘン専売請負制度の概要を明らかにした。最後に、専売請負制度の下で台頭した有力なアヘン専売請負人たちの活動を、ジャワ島中部の事例から分析した。
 以上の検討結果から、本論文が、前述した3つの分析課題に沿って導き出した結論は以下の通りである。第1に、17世紀後半以来拡大していったオランダ東インド会社のアヘン貿易は、バタヴィア政庁にとって欠かせない収入源となっただけでなく、会社のアジア域内貿易全体の貿易独占体制を機能させる上でも重要であった。これを背景に、政庁は、多様な担い手に頼りながらビハール地方のケシ畑からバタヴィアの競売までを結ぶアヘンの買い付けから輸送、販売までを、季節性に沿って組織的に統括した。また、18世紀半ば以降には、政庁が、1745年にアジア域内貿易改革の一環でアヘン貿易協会を設立した結果、アヘン貿易はますます政庁の利害と結びついただけでなく、バタヴィアでは財政的にも商業的にも不可欠なものになった。
 第2に、オランダ東インド会社のアヘン貿易独占体制は、その唯一の専売地であった植民都市バタヴィアをアヘン流通の中核的な拠点とした。その結果、バタヴィアに拠点を持つ有力華人の卸売商人たちを頂点に、ジャワ島をはじめとするマレー・インドネシア諸島各地への垂直的かつ重層的なアヘン流通ネットワークが形成された。さらに、1745年のアヘン貿易協会設立後は、協会の出資者であったバタヴィア政庁幹部や有力なヨーロッパ系自由市民も利害関係者となり、華人に加えて、会社従業員や政庁幹部、自由市民たちもアヘン卸売業に参入することになった。その結果、バタヴィアを中心とするアヘンの商業利権はより複雑かつ複層的となった。
 第3に、上記の過程と並行して進展したアヘンの消費は、経済的な利益をもたらす一方、社会的な弊害も露わにしていったため、バタヴィア政庁やジャワ島の宮廷といった政治権力は何らかの規制をせざるを得なくなっていった。特に、バタヴィアにおいては、都市および後背地で発展した多民族・多元的社会のなかで、植民地運営を支えた人口規模の大きいバタヴィア外出身の奴隷や華人・ジャワ人の単身男性労働者のアヘン吸飲が、「労働放棄」や風紀・治安悪化との関連から社会問題化していった。19世紀初頭には、植民地政庁は、より「人道的な」統治を目指すなか、消費を抑制するという名目で、アヘンの吸飲店や小売店の管理や専売を請け負わせる制度を構築していったのである。
 以上の結論で示したように、本論文は、オランダ東インド会社のアヘン貿易をめぐる商品連鎖と商業利権、消費と規制をめぐる歴史的動向について、近世期の世界の展開と関連づけ、グローバルかつローカルな歴史的事象として描き出すことができた。また、そうした17世紀後半から19世紀初頭の動向は、近代への萌芽を内包する先駆性を秘めていたと評価することができるのである。