従来の日中交流史研究では、主に中国から日本への書籍流通や思想的影響に焦点が当てられており、日本から中国へ輸入された漢籍や日本儒学が中国儒学に与えた影響はしばしば見落とされてきた。しかし、異なる文化が接触する際には、交流と影響は双方向に行われるはずである。十八世紀後半から十九世紀前半にかけて、唐船によって持ち帰られた漢籍が中国で様々な議論を引き起こし、清代の学術に影響を与えたことは、一つの好例である。
 清代中期において、徂徠学派漢籍を中心とする唐船持帰書は如何に読まれたのか。これらの書籍がもたらした影響は何か。また、清儒による徂徠学派漢籍の受容が異例の出来事であったとしても、何故それが発生したのか。本研究では、これらの問題意識を踏まえて、中国における徂徠学の受容を考察した。
 第一章の序論では、清代における徂徠学の受容という問題関心を闡明し、先行研究をまとめた上で、本研究が従来の清代思想史研究に新たな視点を提供すると同時に、徂徠学研究に、日本外部にある徂徠学についての新たな成果を提供することを説明してきた。
 第二章では、『考文』・『孔伝』および『皇疏』の作成・輸出の経緯及び清国での評価を整理し、これら三書が、徂徠学派によって自身の学識および日本の文明水準をアピールする意図を持って作成され、幕府の支援のもとで輸出されたことを明らかにした。そして、唐船持帰書に対する清儒の言説を分析し、彼らが考証学の立場から徂徠学派漢籍を高く評価していた一方で、華夷意識によって日本から輸入された漢籍を見下していたことがわかった。考証学上の価値判断と華夷意識の衝突を解決するために、清儒は天子の「徳治」の図式を用いて唐船持帰書の伝来を解釈し、中国と日本の過去の所縁(徐福・奝然の話)を再述することによって、正式な国交がない日本を、当時の華夷論述に再度取り入れることに成功した。こうして、「「文」がある」という新たな日本像が形成された。
 第三章から第五章までは、朱子学系の解釈(『論語集注』・『論語大全』)も合わせて検討した上で、徂徠の『論語徴』を受容した清儒の著作をそれぞれ考察した。
第三章では、地方知識人である呉英が著した『有竹石軒経句説』(以下、『経句説』と略する)がどのように『論語徴』を受容したのかを考察した。呉英は『四書章句集注』の善本(呉氏刊本)の刊行者でもあり、両書では、宋学を尊重しながらも、必要に感じて考証を始めた彼の姿勢が見て取れる。本章では、『経句説』が『論語徴』が出典であることを明示して引用した十一箇所のうち、二箇所を取り上げて検討した。まず、『論語』の「舜禹之有天下」章について、呉英は徂徠独自の「道」の定義を理解できなかったため、徂徠が述べた「禅譲をするかどうかの判断基準」を読み取ることができなかった。また、呉英は『論語徴』の当該箇所にある孟子批判に着目したが、徂徠の論理を把握することができなかった。次に、「子之武城」章について、呉英は『論語徴』における異色の聖人像を理解できなかったため、徂徠の「人情」への解釈を誤解し、非難した。それにもかかわらず、呉英の解釈は、徂徠が開いた新たな方向性に追随したのである。総じて言うと、呉英が徂徠の「聖人制作説」や「道は礼楽」説に関する箇所に注目したものの、残念なことに、徂徠の肝要な構想を読み取れていなかった。
 第四章では、『論語徴』がエリート学者であった劉宝楠の『論語正義』に、如何に影響を与えたかを本格的に検討した。まず、「子釣而不綱」章を解釈する箇所で、「仁人の心」や「天理/人欲」の図式を用いる朱子学者の解釈に代わり、劉宝楠は徂徠の「礼」からの観点に従って解釈を施した。次に、「子貢曰有美玉於斯」章についての箇所で、「賈」の字音は「古(コ)」であり、字義は「賈人」であるという新説を完成させるかなめとして、徂徠解釈が取り上げられた。この新しい解釈が、「子釣而不綱」章に対する解釈の方向を変え、現在まで強い影響力を持った説となった。さらに、「士而懷居」章に対する解釈で、劉宝楠は不本意ながら、『経句説』を経由して、『礼記』への総合的な理解から形成された徂徠の解釈を孫引きした。実際、劉宝楠だけでなく、『論語徴』に触れた清儒の多くは、徂徠の「礼」に関する議論に注目していた。その理由は、「礼」に関する徂徠の考え、特に「理」よりも「礼」が有効に機能するという認識が、清代中期に発展しつつあった「礼を重視する」潮流と合致していたためである。
 第五章では、『論語』の「君子之於天下」章を巡って、日本儒学者四人及び清朝考証学者六人の解釈を検討し、徂徠が開創した仏経音義書を用いる方法、及びその日本・中国への影響を究明した。彼らの「適」・「莫」に対する解釈は、鄭玄注、范甯注、仏経音義書を利用した徂徠注のいずれかに従うという三種類に分類できる。このうち、清儒は皆鄭玄注に従い、日本儒学者は皆徂徠注に従ったが、『論語徴』に触れた清儒は鄭玄注と徂徠注を共に採用した。なお、徂徠が『玄応音義』の価値を発見して、『華厳経』・『無量寿経』に保たれた古の字義を援用した五十年後に、篁墩が『慧琳音義』を活用したが、それとほぼ同じ時期に、中国では『玄応音義』と『華厳経音義』が注目を浴びており、日本と中国の儒学の展開において期せずして一致していた部分が見られる。
 第六章及び第七章は、春台の『詩書古伝』の中国受容、及びそこから見られてきた徂徠学と清朝考証学の接点を論じた。
 第六章では、阮元の『詩書古訓』は春台の『詩書古伝』を下敷きにして完成された書物であることを論証した。『詩書古伝』は、多くの古典籍から『詩』・『書』の文言の引用例を集め、『詩』・『書』の編目に従って収録する資料集である。それが中国に輸入された三十年後、体裁が非常に相似している『詩書古訓』が出版された。体裁のみならず、両書が収集の対象とした古典籍の大部分が重複しており、資料の扱い方も驚くほど一致している。本章では、「収録と未収録の篇」、「収録ミス」、「『漢書』地理志・『左氏伝』襄公二十九年の記述の収録方法」、「左氏伝杜預注の選択」という四つのアスペクトから分析して、両書で見られる収録内容の重複及び収録方法の一致は、偶然に起こったものはずがないという結論を得た。さらに、阮元の生涯・交友関係、及び彼の唐船持帰書への態度を分析した上で、唐船持帰書の入手ルートを持っていた阮元が、『詩書古伝』の存在を隠しながら利用した可能性が高いことを論じた。
 第七章では、徂徠・春台と阮元の儒学を探究し、徂徠学と清朝考証学が異なる学問体系であるものの、その出発点、学問的主張および方法が部分的に一致していたことを明らかにした。徂徠学は「名物合致」を追求することから、次第に「訓詁不要」を目指すようになっていた一方で、清朝考証学は「以経解経」・「通則」の見出しといった精密な訓詁の技術を求めていたため、両者が同様の学問であるはずがない。しかし、徂徠の初期著作では清学のような「原則を見出す」試みも見られる。また、清儒も徂徠らと同様に「古学」や「古言」を重視し、五経から四書を独立させた程朱の方法に対抗するため、孔門と関連する古典籍を強調した。阮元の場合には、徂徠のような「古への信仰」も見られる。上記の共通点により、阮元が春台と同様に『詩』・『書』の用例集を編纂する必要性を感じ、清儒が徂徠学派漢籍に真剣に向き合うという事態が生じたのである。
 結論として、本論文は多角的な視点で行った実証的研究をもとに、徂徠学が清代中国に受容された様相を明らかにした。それに基づいて、次の見解を提出した。第一、徂徠学と清朝考証学は「異中の同」が存在するため、清儒による徂徠学の受容が可能になった。第二、清儒の徂徠学受容は学問的方法とその成果に焦点を当てていた。考証学の「技術」による交流が当時のコモンセンスであることから見れば、考証学の方法を中心とした徂徠学と清学の交流は、決して無意味なものではない。第三、徂徠学派漢籍が清国で反響を生んだことは、十八世紀以降の日本儒学者たちに、自国の文明への自信をさらに深めさせた。