本研究は、従来その異端性が評価され、特定のジャンルや国家、時代に留まらず、時に「小説の魔術師」や「コスモポリタニスト」などとも評された久生十蘭の、戦前・戦中・戦後にわたる創作活動を、敢えて、十蘭が小説の執筆を開始した探偵小説ジャンルや時代状況の中に限定して捉えることで、十蘭作品、また探偵小説ジャンルが帯びる時代性を浮き彫りにし、その同時代の社会に対して持つ批評性を明らかにすることを目指したものある。特に昭和十年前後以降の探偵小説ジャンルにおいて確固として存在する「本格探偵小説」という物語の枠組みからの偏差を測定し、十蘭作品の持つズレが時代状況の中で担う役割を分析した。大衆小説内の一ジャンルが時代や社会と切り結ぶ様を明らかにすることを通して、狭義の文壇が取りこぼしていたとも言える、日本近代文学の別の側面を浮かび上がらせることを企図した。
 本研究は全三部から成る。第一部においては、戦前の十蘭作品を取り上げ、他の探偵小説との比較から、その特異性を明らかにすると共に、改稿・改作の過程も検討し、戦前の探偵小説ジャンルにおける作品が、戦後文壇において批評的な価値を持つという展開の見通しを示した。
 第一章「演劇人から探偵小説家へ――『黒い手帳』論――」では、十蘭が作家的主題を見出したと考えられる初期作品『黒い手帳』(昭12)を取り上げ、当初演劇界で活動を開始した久生十蘭が探偵小説家へ転じる様を跡付け、その創作活動の始発を明らかにした。十蘭が影響を受けたことを公言するイタリアの劇作家ピランデッロから、物語の因果的な統一を拒絶する手法を学び、それが時の探偵小説界において、明確に理念化されていた「本格探偵小説」という枠組みに適応されていることを指摘し、そこに人間の生死にまつわる因果が不明瞭な、ニヒルな世界が出現することを論じた。それは「変格探偵小説」が議論から排斥され、「本格」ばかりが祭り上げられる、時の探偵小説界において、エロ・グロ・ナンセンスの題材によってではなく、「本格」という、作品の論理構造からの逸脱によって実現された、新たな形態の「変格」として評価できることを論じた。
 第二章「故郷喪失者の感性――『湖畔』論――」では、『黒い手帳』に次いで発表された『湖畔』(昭12)を、探偵小説ジャンルが描いてきた都会の放浪者・散歩者の孤独感を背景に持つ、共同体意識を問題化する作品として定位した。典拠であるキアレッリ『仮面と顔』との比較から作品の生成過程を明らかにすることを補助線としつつ、個人の存在理由という意味を組み立てる「本格」の枠組みを利用して、血縁的な紐帯の持つ拘束力を具現化した上で、殺人事件が不履行に終わることによって、己を緊縛する帰属意識から解放され、幻想世界が姿を現すことを論じた。また、戦後における改稿・再発表の意義の分析を通して、時代状況に照らし合わせて、作品が国家という共同体概念の絶対性を相対化する批評性を獲得していることを明らかにし、更には戦前の「故郷喪失」の感性が、戦後の「祖国喪失」の感性に接続されているという、戦争を跨いだ十蘭作品の展開の展望を提示した。
 第三章「演劇と探偵小説的登場人物――『刺客』『ハムレツト』論――」では、『刺客』(昭13)、『ハムレツト』(昭21)を通して、十蘭作品における演劇と探偵小説との関係を、登場人物の性格描写という観点から再度考察した。「本格」においては、登場人物の性格描写から固有性を棄却することで、却って、固有性を伴った死の因果を構築できるが、十蘭作品においてはそれを逆手に取り、あたかも性格劇の役者のように、特定の役割を演じる、記号のような登場人物を描いた上で、獲得できるはずであった必然的な死さえも崩壊させ、徹底して虚無的な人間存在を現出させることを明らかにした。また戦後の改作『ハムレツト』においても、ニヒリズムは踏襲され、虚無的な人間像は、戦後文壇の鍵語である「主体性」の反措定として、戦後日本の無根拠性を突く、戦後批判としての意味を持つことを論じた。
 第二部においては、戦中の十蘭作品を取り上げ、時代的・国家的な価値観へ順応すると同時に逸脱する様相を追った。
 第四章「魔境冒険小説からの逸脱――『地底獣国』論――」では、地底世界を描く『地底獣国』(昭14)を通して、この時期に多くの探偵小説家たちが時代的な要請から着手した「冒険小説」の批評的な可能性について考察した。未開世界の土地・資源・財宝の奪取をめぐる国際的な闘争を描くことをジャンル的コードとする「冒険小説」を中途まで演じながらも、最終的にはその期待される結末が不成立に終わる様を通して、不条理な空間を出現させる本作の機構を指摘した。またそのようにして描かれる不定形態の地底世界が、ノモンハン事件にて日本とソ連とが武力衝突を引き起こしていた作品発表の当時において、また日本がサンフランシスコ講和条約を締結し、単独講和の結果として、ソ連による侵略行動を再度危惧する、作品が再発表された戦後において、近代国民国家の自明性に対して亀裂を入れる批評性を獲得していることを論じた。
 第五章「滅亡の感性──『新残酷物語』『美国横断鉄路』論──」では、十蘭作品が戦中に時代と共鳴してしまった様相、およびその戦後への展開を分析した。『新残酷物語』(昭19)では、アメリカ人の手によって、日本人・中国人が一人残らず殺される過程が描かれ、その滅亡を媒体として、戦中の運命共同体的な感性が表れている。しかし、その滅亡は、戦前の探偵小説ジャンルが得意としたグロテスクな描写を伴うために、一見、同時代の「玉砕」の賛美と文脈を共有しながらも、それを突き抜け、戦時共同体を内側から問い直す契機にもなっていることを明らかにした。また戦後に改稿・改題を経て再発表された『美国横断鉄路』(昭27)においても、時代錯誤にも、戦時の運命共同体的な感性が表れ、それが同時代の日本再建をめぐる議論に対して、国家という共同体概念そのものが孕む暴力性・非絶対性を剔抉する批評性を有していることを論じた。
 第六章「南方徴用体験――『内地へよろしく』を通して――」では、久生十蘭の南方徴用体験を検討した。『内地へよろしく』(昭19)を、十蘭の徴用体験と、「絶対国防圏」が破られるという、太平洋戦争末期の重大な戦局の変化が交差する地点に位置づけ、前線と銃後とを包含する、共に滅亡へと向かう共同性が表れていることを明らかにした。また、この運命共同体的な感性を端的に表す「秋になれば葉が落ちる」という表現が、戦後の十蘭作品にも、没落貴族のモチーフとして変奏された上で、反復的に現れていることを指摘し、滅亡の感性を以て戦中と戦後を連続的に捉える十蘭の姿勢が、主体性・個人主義を重視する戦後文壇において、戦争の当事者として、国家という共同体の枠組みそのものが孕む危険性を炙り出す批評性を発揮することを論じ、本章を以て、戦中から連続性を有する戦後の十蘭作品の時代に対する基本戦略を示した。
 第三部においては、戦後の時代状況との相互作用の中で作品が成立する様相を明らかにした。
 第七章「GHQの検閲と占領への自己言及――『だいこん』論――」では、『だいこん』(昭22‐23)が、GHQの検閲による処分や、作品が〈あの方〉として取り上げる天皇をめぐる議論との相互作用の中で成立する様を段階的に追跡した。占領に対する屈辱感と同時に、戦争への生理的な嫌悪感(終戦の解放感)を覚えるという、日本人の屈折する思いを対象化しようと試みながらも、検閲によって占領への自己言及が封殺されたために、占領が国家間の関係の問題から、日本人の心構えの問題へ転じ、敗戦を運命論的な滅亡として把握することを余儀なくされたという、本作に見られる方針転換を指摘した。また、単行本版(昭24)においては、当初退位が確定的であったために作中で滅亡のモチーフとして機能していた天皇が、一転して留位を表明したという現実の情勢の変化によって、一貫性を見せる本作が、恣意的な転換を見せるアメリカの占領政策に潜む欺瞞を浮かび上がらせる批評性を獲得していることを明らかにした。
 第八章「占領期文学の方法――『予言』論――」では、『だいこん』連載中に発表された『予言』(昭22)を、検閲をかいくぐるために、「没落貴族」「コキュ」のモチーフを用いて婉曲的に戦後日本を対象化する寓意小説として評価した。人間の死の必然性・固有性を確定させる「本格」の結構に重ねて、外国人に妻を寝取られる没落貴族を、戦後においてアメリカの占領下に置かれた日本を表象するメタファーとして描く手法を確認した上で、その殺人、および寓意が崩壊する様を通して、条理を欠いた日本の敗亡を描き、戦後空間が紛れもなく持つ多義性を対象化していることを論じた。同じく検閲が存在する占領下で発表された『だいこん』とはまた異なる、寓意という、検閲の処分を免れるための手法、また戦後日本を描く上での、探偵小説の持つ有効性を本章において明らかにした。
 第九章「戦後の終焉――『肌色の月』を中心に――」では、遺作『肌色の月』(昭32)を取り上げ、十蘭の創作活動が戦後約10年を閲した時期に終焉を迎えた、作品表現に内在した必然性を分析した。「もはや「戦後」ではない」というフレーズも用いられる時代において、戦時、また戦後混乱期の非日常を暗示する自殺が挫折し、時に倦怠感すら覚えるような生活を送ることを強いられる様を通して、日常への回帰が表現されていることを論じた。ここに、死(滅亡)を通して、その殉じる共同体を探り当てていくという、終戦前後から十蘭作品に一貫して見られたテーマの失効を読み取り、相対的安定期を迎えた日本の時代状況の中に位置づけることで、本研究の締めくくりとした。