1939年から1945 年にかけて、ソ連は第二次世界大戦を経験した。とりわけ1941 年から1945 年までの独ソ戦は、ソ連・ロシアで「大祖国戦争」と呼ばれる。この戦争の経験は、ソ連における人々の生活、ならびに政治に対する市民の見方に深い影響を与えた。戦時の甚大な破壊を経て、戦後、人々はどのような生活を送ったのか。また、日々の暮らしや社会のあり方、過去の経験や歴史的事象について、人々はどのように考えていたのか。本稿の目的は、これらの問いに対して、実証的に答えることにある。
 戦後スターリン期の社会史研究は、ペレストロイカ期に、歴史家ミハイル・ゲフテルが提起した「自然発生的な脱スターリン化」論が端緒となり、文書の新たな公開も背景にして、本格的に取り組まれるようになった。社会史研究の進展と関連して、「大祖国戦争」の記憶研究をはじめ、政治文化への着目が進み、文化史、文化人類学の研究成果の蓄積も取り入れられた。これらの研究では、戦後スターリン期を出発点として冷戦史をとらえなおすこと、スターリン体制と人々の間の関係を再考することという、2 つの論点が中心となった。
 従来の議論は、公的な言説に多くの関心が向けられ、かつ、首都モスクワが中心であった。地域史を対象とした研究も存在するが、市当局の動向と経済・社会政策の公的な側面が主に検討され、地域ごとの戦時・戦後の経験に十分に光があてられてこなかった。私的な側面に注目された場合でも、社会的に活躍した政治指導者、歴史家、文化人などの記録が主な史料となった。そのため、より多様な人々のもつ経験について、考察を深める必要がある。
 研究史における以上の問題点を踏まえて、本稿では、人々と政策の接点として、ジェンダーと身体の視座を採用することで、あらゆる人々の日常史を包括的に検討することを目指す。特定の性別や職業、年齢に限定せず、労働者、年金生活者、歴史家、博物館の職員などを対象に、ジェンダー横断的な分析を行う。
 くわえて、本稿では、分析の対象として、都市の式典を取り上げる。これにより、国家と市当局の間の政治的な緊張関係を明らかにしつつ、社会における人々のローカルな経験に光を当てる。そのうえで、祝賀を分析の場に設定することで、公的・私的言説がどう交差したかを検討する。式典において、人々は単に動員されていたわけではなく、自身の事情にもとづき参加していたのである。
 戦後期の祭典に関する研究は、祭典をめぐる政治決定と人々に対するイデオロギー、文化規範の浸透を明らかにしてきたが、社会史研究と同時期に進展したため、社会史の成果を十分には摂取できておらず、戦後の社会状況への言及は限定的である。「雪どけ」期の祝賀に関する研究は、「スターリン批判」がもたらした政治・社会への衝撃を評価したものの、人々の日常よりも国の政治的動向に重点を置いた。祭典における地域主義や国際主義の拡大が指摘されたにもかかわらず、その分析は、既存の国家間の外交史と冷戦史研究の範疇にとどまっている。地域史と外交史は、依然として統合的に行われておらず、さらなる検討の余地が残されている。
 そのため、都市の式典における社会的参加について、「大祖国戦争」で深い傷を被ったことが戦後の祭典挙行にどのような影響を及ぼしたのかということを明らかにする必要がある。さらに、冷戦期の社会史、文化史の研究成果をふまえて、「雪どけ」期の政治文化をとらえる試みも欠かせない。したがって、戦後期の祭典は、第二次世界大戦後と「雪どけ」期のソ連について、全般的な理解を深めるという点で、さらなる検討を必要としている。
 以上の研究動向から、人々の戦争体験、ならびに戦後社会でのあり方を明らかにするために、戦後期の祭典の中で、都市で行われたものを検討することで、政治、社会、市民生活といった複数の領域について、詳細な実態を考察することができる。
 本稿では、レニングラードを最も重要な地理的対象として、祭典の分析を行う。レニングラードには、政治抑圧への対応とジェンダーという二つの点で、都市独自の歴史的蓄積と、戦後のソ連社会全体につうじる政治文化的な特徴が強くあらわれていたからである。レニングラードは、1703 年にピョートル大帝によって創建され、帝政ロシアの首都であった。ソ連期には、首都モスクワに次ぐ第二の都市であった。独ソ戦期には、包囲戦で多数の死者を出した。戦後のレニングラードは、包囲の記念と戦後の再建をめぐって、国家と一都市の政治的な対立関係という大きな文脈の中で、独自の経過をたどった。
 こうして、身体・ジェンダー、都市の祝賀という具体的な切り口を通して、「大祖国戦争」および戦後における人々の経験を明らかにする。そのうえで、戦争が戦後のソ連社会にもたらした影響を考察する。
 本稿は、スターリンが死亡する1953 年を区切りとして、大きく前半(第一章、第二章、第三章)と後半(第四章、第五章、第六章)に分けられる。前半では、戦後スターリン期の祭典として、1944 年から1949 年のレニングラード包囲解放記念祭、1947 年のモスクワ創建800 周年記念祭を取りあげる。後半では、1955 年の1905 年革命50 周年記念祭、1957 年のレニングラード創建250 周年記念祭を扱う。
 各章の概要は、以下の通りである。
 第一章では、女性労働者の身体から、包囲下のレニングラードの戦禍の大きさと、戦後の「後遺症」について明らかにした。第二章では、レニングラード防衛博物館の職員を中心に、「レニングラード事件」前後の記念事業の取り組みを分析し、「大祖国戦争」のローカルな記念のあり方について考察した。
 第三章では、首都モスクワの事例を参照し、国家と地方の間での権力の対立だけでなく、モスクワ創建800 周年記念祭の祝賀において、整備事業や文化イベントへの参加など、市民の参加の諸相を解明した。第四章では、1955 年に開催された1905 年革命50 周年記念祭を取りあげ、年金生活者となった革命の経験者を分析の主な対象として、彼ら・彼女らのレーニンとの出会いの回想を分析し、スターリン死後の革命理念の強化について明らかにした。
 第五章では、1957 年に開催されたレニングラード創建250 周年記念祭について、国外の都市とのかかわりを検討した。そして、在外ロシア人や捕虜からの祝電から、レニングラード当局が公的に示したものとは異なる、都市のあらたなイメージを発見した。第六章では、レニングラードの創建祭におけるスターリニズムの要素について、中国とのかかわりから検討した。ここでは、レニングラードで生産された工業製品についてその社会的なイメージを明らかにし、男性労働者同士の関係におけるマスキュリニティの要素もみいだした。
 本稿の独自性は、まず、レニングラードやモスクワという都市単位の祝賀を分析の対象とすることで、ソ連市民の戦時・戦後の体験について、政治面よりも、日常生活に即して、その実態に踏みこんだことである。ついで、身体とジェンダーという、従来の都市祭典研究では十分には論じられていない切り口を用いたことによって、市民の経験をより包括的かつ多面的にとらえたことである。くわえて、都市外交という観点を打ち出すことで、社会史と外交史の接点を探り、冷戦期ソ連がもった国際的な権勢、ならびにその下での個人の暮らしを明らかにしたことである。
 祭典は、レニングラードにとって、そこに暮らす住民からも、かつて前線であった近隣の都市からも、ソ連邦内の諸都市、諸外国の各都市、すなわち外部からも、まなざしを向けられる機会となった。都市では、戦時には違う場所にいた人々が、戦後、同じ空間を共有するようにもなっていた。
 政治的な抑圧とその後の変化の中で、人々は党・政府の政策に対して、様々な方法で応答した。戦争による多大な破壊を経て、人々は戦争の記念や祝賀に参加することをつうじて、暮らしの場、あるいは過去に居住したことのある都市について、様々な感情をもつようになり、各自でイメージを形成した。人々が戦時・戦後の困難な日々をどう生きたかは、記録され、公に表明された言葉だけではなく、行動や、とくに身体をめぐる状況からも浮き彫りになった。この時期に人々の暮らし、ひいては内面に起こった変化は、政治や外交の動向と交わりつつも、ソ連社会を変容させていったのである。
 さらに、本稿では、史料論に関連して、社会史における個人の名前について、新たな論点を提示した。分析をつうじて、記名の差異は、史料上の性質に由来した。しかしそれだけでなく、史料に個人の名前が登場するかどうかは、様々な要因に左右されていた。権力勾配を考慮して史料を選択し、読むことの重要性があらためて認識される。くわえて、人々にとって、職務の遂行は、他者のみならず、自己の名前も残すということであり、みずからの尊厳に関わっていたことも明らかになった。自分の名前を残さなかった人、残した人、また、他者の名前を残した人はすべて、社会の一員として、ソ連・ロシアの歴史の中に位置づけられるのである。