本研究は、カール・レーヴィットの『共同人間の役割としての個人[Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen]』(以下『個人』と略する)において展開される共同相互存在論を、その構成に従いながら体系的に整理し、その内在的な論点を剔抉するとともに、レーヴィットの『個人』における中心的課題である、一人称と二人称の二者関係をめぐる共同相互存在の構造分析が有する哲学的意義を明らかにすることを目的とするものである。
 人間を他者と「互いに共に在る存在」としてしるしづけ、その相互的な呼応の関係における人間の生のありかたを、具体的な事象にそくして分析したレーヴィットの共同相互存在論は、倫理学が観念論的な個人主義的道徳の立場から、フォイエルバッハ哲学以降の、他者との具体的な共同性を問題とする立場へと遷移するその過渡期にあって、重要な哲学的意義をもつものである。レーヴィットは『個人』において、人間を本質的に精神的で、他者に依存することのない自律的な存在として規定するデカルト以来の近代西洋哲学を批判したうえで、フォイエルバッハが打ちたてた、感性的身体を人間の本質とする他者中心主義的な人間解釈を発展的且つ具体的に推し進めた。レーヴィットは、他者と共に在るありかたを人間の非本来的な存在体制として消極的に価値づけたハイデガーの『存在と時間』における共同存在分析に対して、対話的なコミュニケーションを核とした、一人称と二人称の関係の積極的価値を提示したのだ。一方で、『個人』におけるレーヴィットの共同相互存在分析は、ハイデガーの現存在分析の手法を踏襲するものであり、このことはたんに方法論的な問題ではなく、レーヴィットの議論全体の内実に、「私」のパースペクティブにおいて世界を把捉する超越論主義的な傾向を一面的にはもたらしている。そしてこうした『個人』における議論の特色は、先行研究においては、レーヴィットの共同相互存在論が他者を主題としたものでありながら自己中心的な問いの枠組みを残していることの証左とみなされ、レーヴィットの議論の矛盾や不足として捉えられてきた。しかしながら、レーヴィットの共同相互存在論に内在する自己と他者、「個」と「関係」、あるいは人間の主体性と関係規定性をめぐる問いは、共同相互存在としての人間の本質的な両義性を的確にしるしづけるものであり、また、人間の両義的性格こそが、レーヴィットの共同相互存在論を根本において基礎づけているのである。以上のような視座に立ち、本論文は三部構成、全八章をつうじて、レーヴィットの共同相互存在論の独自性と哲学的意義を明らかにするための考察をおこなった。
 第一部「ペルソナ」では、レーヴィットの共同相互存在論の主題のひとつである、他者に対して「役割」を有する「個人」としての共同相互存在のありかたが中心的に検討された。
 第一章においては、人間を両義的な存在者として把捉するというレーヴィットの共同相互存在論の基本的な着想を、『個人』が執筆された当時の哲学史的状況を整理することをつうじて明らかにした。「思考する私」を客観的真理を探究する哲学にとっての唯一の出発点としたデカルトは、精神と身体を厳格に区別し、精神を身体の支配者として位置づける二元論的な人間解釈を導出した。これに対してレーヴィットは、フォイエルバッハ哲学を踏まえ、精神と身体(自然)の等根源的な両義性のもとで人間を把捉することで、既存の精神優位の二元論を乗り越えようとする。加えてまた、人間の精神的・自然的な両義性は、人間が他者と関係を取り結ぶことを可能にする共同的生の地盤として、人間の主体的・関係規定的な両義性を基礎づけるのだ。
 第二章では、ハイデガーの現存在分析とレーヴィットの共同相互存在分析とを比較検討することをつうじで、共同相互存在としての人間の基本的な構造、すなわち「ペルソナ」として在る自己のありかたが明らかにされた。「ひと」をめぐるハイデガーの議論において、現存在は一方向的に他者たちの平均的な日常性に従っている。これに対してペルソナ的自己は、他者に対する「役割」を負って存在することで、他者の要求に応答する呼応の関係において、相互に主体的で関係規定的な個人として存在する。この呼応の関係における一者と他者の相互性の見過ごしが、レーヴィットがハイデガー批判の眼目に据える事態であった。
 第三章では、第二章で明らかにしたペルソナ的自己の構造を踏まえて、レーヴィットが『個人』第二三節で展開する、ピランデッロの戯曲『(あなたがそう思うならば)そのとおり』の解釈の再考がこころみられた。レーヴィットはピランデッロ作品に描かれたペルソナどうしの関係が、ひたすら他者従属的な関係として存立しており、その内部で各人の主体性がペルソナ的自己の関係規定性のうちに埋没してしまっていることを指摘する。こうした相互に非自立的な関係を、レーヴィットは共同相互存在の頽落したありかたとしてしるしづけた。
 第二部「対話」では、『個人』第二四節から第三二節にわたる「互いに共に語りあうこと」としての共同相互存在の構造分析をめぐって議論が展開される。対話はレーヴィットの共同相互存在論にとって核心的な意義をもつ。なぜなら対話はまさに、一人称と二人称の関係が有する積極的な価値を基礎づけるからである。第四章ではこうした対話の根本構造として、他者の語りに「応じて語ること」と「応答の傾向を離れて聞くこと」という一見すると矛盾する二つの態度によって共同相互存在の「責任あるありかた」が成立していることを示す。他方で「応じて語ること」は、その本質的な「同調」の傾向において、対話を頽落させる態度でもありえる。それゆえここで明らかとなるのは、対話とはそれ自体、頽落の可能性を孕んでおり、またそのことによってのみ責任ある態度を実現しうるという事実である。
 第五章では、トイニッセンによるレーヴィットの共同相互存在をめぐる批判的解釈を手掛かりとして、「互いに共に語りあうこと」としての対話の本来的な意義が明らかとされた。トイニッセンはレーヴィットの対話分析が、究極的には「私自身」と「きみ自身」という「関係を離れた」二者のありかたを導出するものであるとして、その超越論主義的な帰結を批判した。しかしながら、レーヴィットにとって「私自身」「きみ自身」とは対話的な「関係」においてのみ発現する一人称と二人称の存在性格であり、あくまで関係内部的に構築されるものである。「私自身」と「きみ自身」は、対話が一者と他者の相互媒介的な自己変容をうながすものであることをしるしづけ、対話的「関係」の特権的意義を示す概念なのである。
 第六章では、レーヴィットが導出する「互いに共に語りあうこと」としての対話が、たんに理性的・随意的なコミュニケーションを意味するのではなく、感性的・非随意的なコミュニケーションにも基礎づけられていることを、第一章で示したレーヴィットの両義的な人間把捉に立ち返りながら明らかにした。レーヴィットはカントの実践哲学に共同相互存在の原理をみいだそうとするが、感性的コミュニケーションを重視するレーヴィットの対話論と両義的な人間把捉は、感性に対して理性を優位に置くカントの実践哲学および二元論的な自我観とは明確に異なるものである。
 第三部「相互承認と自立性」では、一人称と二人称の関係における相互的な自立性と相互承認の問題が取り上げられる。レーヴィットの共同相互存在論にとって自立性が問題となるのは、人間にとっては自立した孤立的個人であることが所与ではなく、反対に互いに共に在ること、相互に依存していることこそが所与だからである。そこで第七章では、共同相互存在の相互承認にもとづく自立的なありかたが、ディルタイの外界の実在性をめぐる議論、カントの友情論、ヘーゲルの相互承認論を補助線としながら多角的に問われた。その結果として明らかになるのは、レーヴィットが一人称と二人称の相互に自立的なありかたを、愛と尊敬の合一としてのカントの道徳的友情と重ねあわせていたこと、一方でカントの議論には相互承認の契機がみられないために、相互承認の内実とその動機を把捉するうえでは、相互に依存的な存在者であるという共同相互存在論の前提に立ち返る必要があるということだった。
 第八章では、『個人』の最終部にあたる「私」の唯一性をめぐる議論を主題として取り上げ、「私」の唯一性を問うことの意義を明らかにした。シュティルナーの『唯一者とその所有』における唯一者の議論は、それ自体としてはペルソナ的自己を導出するレーヴィットの共同相互存在論とは立場を異にするが、一方でレーヴィットは、「私」の唯一性の問題を「きみ」の唯一性の問題へと還元することで、唯一者としての他者了解を、相互承認の要件に組み込んだのだ。
 自律した孤立的個人としての人間像を捨て、相互に依存しあい承認しあう、一人称と二人称の関係を積極的に価値づけるレーヴィットの共同相互存在論は、現代においても重要な哲学的意義をもつ。相互に(すなわち非自立的に)自立的なありかたを実現する一人称と二人称の関係は、相互承認にもとづく対話が、関係規定的に構築された主体的自己を解体し、新たな主体的自己を再構築するにさいして不可欠なものであることを告げている。私たちの共同相互的な生はその現実として依存と支配、相互所有の関係へと頽落しうる危うさをつねに孕みながらも、そうした危うさにさらされることでのみ、相互承認の必要を経験的に自覚していくのだ。それは、不均衡な所与の現実から他者と共に抜け出し、共に対等な関係を構築するための唯一の道なのである。