本論文では、はじめに狩野派の研究史を概観し、江戸狩野派研究における問題と課題を整理する。そのなかで、橋本雅邦による江戸狩野派批判と岡倉天心の狩野派絵画観が現在に至る研究に大きな影響を与えていること、その検証を具体的に行うことが不十分であった点を指摘し、本論文における問題意識の所在を明示した。さらに、江戸中後期の江戸狩野派作品には、大量生産品としての特徴が際立つ点に注目し、絵画制作の手法や様式そのものに対する分析を行う必要があることを指摘する。そのうえで、彼らの作品とその様式分析、彼らが規範と見なした作品や古典学習に基づく大量制作を行う手法についての分析を主とする本論文の射程と構想を提示する。
 序論では、狩野山楽の古典学習に焦点を当て、江戸狩野派のそれとの比較分析を行う。考察では、山楽の和漢の代表作である「車争図屏風」(東京国立博物館)、「帝鑑図押絵貼屏風」(東京国立博物館)を取り上げ、その典拠を具体的に分析し、狩野派が江戸時代以前に古典図様をいかにして用いていたのか確認する。
 それを踏まえ、第一部では、江戸時代前期から幕末に至る様式展開について論じる。第一章では、江戸時代前期の狩野探幽とその弟の狩野尚信、狩野安信の様式を分析し、とりわけ安信、尚信の作品分析に重点を置く。その際、三兄弟の父・狩野孝信と師・狩野興以との関係に注目する。次に、江戸狩野派の概要について述べ、江戸時代前期の奥絵師各家の当主の画業と基準作について具体的に触れ、各家の様式展開を論じる。現在ほぼ不詳の同時代に活躍した表絵師各家の当主についても言及し、当時、奥絵師・表絵師各家がさまざまな様式を展開させたことを明らかにする。そのうえで、探幽没後に活躍したポスト探幽世代の画家たちの様式について、狩野安信ほか「名画集」(静岡県立美術館)の分析を通じて考察し、彼らが探幽没後の流派様式を形成したことを指摘した。
 第二章では、江戸時代中後期の様式を考察する。まず、十八~十九世紀の江戸画壇を概観し、新様式を確立した狩野栄信が現れる前後の状況を確認する。考察では、江戸狩野派とともに浮世絵、南蘋派、洋風画家、南画家の活躍する混沌とした状況を把握したうえで、谷文晁周辺における様式展開と江戸狩野派のそれの関係に注目し、栄信を中心とする様式の展開を江戸画壇のなかで捉えた。次に、江戸後期の奥絵師と表絵師を概観し、栄信の登場によって流派様式が大きく変化したことを述べる。そのうえで、栄信による新様式の特徴については作品に基づき考察し、栄信から養信へ、いかにしてその様式が継承、発展されたのか明らかにする。それによって、江戸時代後期、栄信が新様式を確立したことで江戸狩野派が一新されたことを指摘する。第一部の最後には、栄信の和漢の代表作の分析を通じ、栄信による法眼時代の新様式の特徴を、古典学習の問題に焦点を当て、具体的に考察する。栄信の新様式は、古典様式を自在に組み合わせる点に特徴があり、狩野派が元来目指した宋元画の図様、表現を復興させることを試みるもので、狩野派らしい表現を特徴とする様式であったことを指摘した。
 第二部においては、江戸狩野派の模本と倣古図研究を通じ、江戸狩野派の古典学習の問題を考察する。第一章では、まず、中国絵画を対象とした模本・倣古図を中心に、それぞれの基礎的な考察を行う。そのうえで、古典名画の模本と倣古図との関係に注目し、同派による倣古図様式の確立と展開について考察する。次に、直模作品に注目し、古典名画を模して作品に仕立てた画には、古典名画の図様、表現を忠実に模した直模作品と、その表現を江戸狩野派風にアレンジした直模的作品があることを指摘し、それらの作品が直模的な倣古図の展開に大きな影響を与えていることを述べる。それによって、古典名画の直模作品と倣古図制作の展開を結び付けた栄信が、倣古図の新様式を確立したことが明らかとなった。
 第二章では、模本と倣古図のなかで、それぞれ画期となった重要作を取り挙げ、模本と倣古図制作の展開を考察する。まず、探幽の模本の代表作である「臨画帖」(個人蔵)を分析し、探幽の模本制作が原本の深い理解に基づくもので、模本制作による探幽の古典学習の方法が江戸狩野派によって部分的に継承されたことを指摘する。次に、狩野安信「和漢画摸」(大和文華館)を分析し、安信の模本の特徴を述べる。そして、安信によって模本制作の手法が定型化されたこと、安信の模本の特徴が彼の倣古図制作に影響を与えたことを明らかにする。そのうえで、狩野常信・栄信・養信ほか「唐絵手鑑」(東京国立博物館)に注目し、常信以降の木挽町家の画家による模本の特徴を分析する。考察では、常信が、探幽による古典名画の模本の特徴を受け継いだこと、栄信が模本制作の手法を刷新し、倣古図制作にその成果を活かしたこと、養信がそれを発展させたことを指摘する。さらには、栄信以降の幕末狩野派による模本の代表的な作例として、狩野探信守道・探淵守真ほか「摹宋元画冊頁」(ボストン美術館)を紹介し、鍛冶橋家の模本の特徴について具体的に考察する。また、栄信の模本との比較を行い、その影響が認められることを指摘したうえで、鍛冶橋家独自の展開に注目する。
 次に、倣古図について考察する。まず、狩野探幽「学古図帖」(個人蔵)の分析を通じて、探幽が宋元の名画を規範的な様式と見なし、それを探幽風にアレンジして自らの倣古図様式を確立したことを述べる。そのうえで、探幽の倣古図を類型化した安信の倣古図と、探幽の倣古図様式を継承し、それを規範化した常信の倣古図に注目し、探幽の倣古図様式がいかにして江戸狩野派に広まったのか、具体的に考察する。それを踏まえ、栄信、養信による倣古図の新様式の成立と展開について論じる。まず、栄信・養信が合作した「唐画流書手鑑」(静岡県立美術館)と「和漢流書手鑑」(ボストン美術館)の考察を行い、栄信が探幽とは異なる図様を規範視し、古典名画の模本を制作した成果を直接活かした倣古図様式を確立したことを指摘する。そして、ポスト栄信・養信世代の倣古図の展開について分析し、栄信・養信による倣古図様式が幕末狩野派に浸透したことを述べる。さらには、栄信・養信の楼閣山水図における新様式の特徴を分析し、栄信、養信による倣古図様式成立の意義を多角的に考察した。
 第三章では、第一・二章の考察を踏まえ、江戸狩野派における規範的図様の変容と古典様式再生の問題について考察する。まず、雪舟学習の問題に着目し、探幽は、雪舟という狩野派にとって異質な要素を取り入れたこと、安信は、探幽による雪舟学習の成果の継承に苦心したこと、常信は、雪舟画を真摯に研究したが、それを倣古図に活かさなかったことを指摘する。それを踏まえ、江戸時代中・後期の雪舟学習の展開を分析し、狩野古信が雪舟「山水長巻」(毛利博物館)の直模作品を制作したことで江戸狩野派の雪舟学習に転機が訪れ、その成果を典信・惟信が受け継ぎ、そうした流れを栄信・養信が包括的に学習・整理して雪舟の規範図様を選定し、倣古図制作に活かしたことを述べる。次に、狩野探幽「雪舟山水図巻」(個人蔵)、古信による雪舟「山水長巻」の直模作品に焦点を当て、雪舟理解の変遷を、模本、直模作品などの分析から論じる。「雪舟山水図巻」の図様が流派内で普及し、その雪舟理解に大きな影響を与えたこと、栄信周辺で古信の「山水長巻」の直模作品がさかんに制作されたことで、雪舟「山水長巻」が規範化されたことを指摘した。
 最後に、元信学習をめぐる諸問題を論じる。まず、探幽が元信よりも雪舟を重視したこと、元信の「四季真山水図」が探幽によって江戸狩野派風にアレンジされたこと、それがポスト探幽世代の画家たちに幅広く普及し、同派の山水画様式の一つのパターンとなったことを指摘する。そのうえで、栄信が元信様式と宋元の規範的な山水画の図様、表現を自らの様式のうちで融合させたことに言及し、それによって、栄信は、同派の流派様式を、元信様式にみる狩野派本来の力強い筆致、華麗な彩色表現に重点を置いた様式へと転換させたことを明らかにする。さらに、栄信周辺の画家がその成果を継承、発展させたことを述べ、栄信がアイデンティティーの拠所として元信様式を用いたことが、同派の絵画様式変革の核心となったことを指摘した。
 以上の考察を通じて、江戸狩野派の流派様式の成立と展開を具体的に分析し、同派による古典名画の学習、図様の引用手法の検討によって、栄信による新様式や、同派による模本・倣古図の意義を明らかにした。大量生産を本質的特徴とする彼らの絵画制作において、古典学習はそれに直結する問題であった。彼らの大量制作の手法は、多くの人々が古典名画に対する価値観を共有し、それに基づく作品を膨大に供給するシステムの構築を可能にするとともに、江戸時代の社会構造全体の拡張という状況に応えたといえる。
 本論文が明らかにした江戸狩野派の絵画制作手法や彼らによる古典学習の意義は、従来の日本美術史における同派の位置付けの再考を促す。彼らは、中世と近代の過渡期において、絵画制作の手法に大きな変化をもたらす役割を果たしたのである。