本論文は、高麗時代(918~1392)の官僚制度に着目し、その実態と特質を明らかにしようとするものである。
 
 第1章「高麗前期の官人昇進コースの再検討」では、高麗前期、特に文宗代(1046~1083)から毅宗代(1146~1170)に至るまで、官人がどのようなコースにそって昇進し、どのような時期に外職に任用されたのか、また官人が辿ったそれぞれの昇進コースの特質がいかなるものであるかを再検討した。
 筆者は、初めて官人として登用された人物の最初の実職としての初任州県官(特に諸州府郡県の判官と県尉)には、睿宗代(1105~1122)以前には吏職の及第者が任じられ、睿宗代以降になると現役宰相の子以外の科挙出身者も叙用されることから、初任州県官はこの時期から定例の異動(例調)として慣例化された、ということを指摘した。先行研究では、初任州県官を経た後、次に外官に任じられるのは参外例調州県官であり、その関門を突破すれば常参官へ昇進することができると考えられてきた。それに対して本章では、参外例調州県官に転出せずに、参外官からそのまま常参官に昇進し、その後、5品になる前に、牧副使などの外職に任用される常参例調州県官のコースもあったことを明らかにした。常参例調州県官のコースの特質は、外官への転出による京職歴任コースからの一時的な脱落と、外官の任期満了後の任官待ちの期間がないので、常参官として順調に官途を進んでいくことができたことにある。あるいは、常参例調州県官とならずに、5品へ進む6品京職歴任コースもあった。
 
 第2章「高麗時代の外官―京職兼帯の意義と任命・俸給の実態をめぐって―」では、高麗時代の外官が任地に赴任するに際し肩書きとして帯びていた京職の意義と、外官の任命・俸給の実態を再検討した。
 明宗2年(1172)以前には、外官が赴任する際には基本的に京職を兼帯していた。そして、外官としての労働に支給される報酬は、文宗と仁宗のそれぞれの王代に文武班禄条として規定された、外官が肩書きとして帯びていた京職に準じていた。本章ではこうした京職を、実際の職務がなく、具体的な禄額を給与すべきことを示す寄禄官として理解した。   
 明宗2年(1172)に、外官禄条が作成され、外官には正規の禄条が付与されるようになった。またこの頃には、京職を兼帯せず、単独で任命される外官が主流となり、その俸給が外官禄条に従って支給されるようになった。また、明宗2年以降、外官に特別なかたちで経済的な恩恵を施すこととなった場合、何らかの京職を寄禄官として授ける政策が施行されたことを明らかにした。
 
 第3章「高麗前期の人事制度の再検討―都目政の改革及び官人の任期を中心に―」では、高麗前期に制定された人事制度に関する王命やその改革が官人の勤務評定のありかた及び官人の任期とどのように関連していたかについて論じた。
 まず、高麗前期の人事制度を初めて規定した法令である成宗8年(989)の王命を再検討した。王命では唐制に倣うかたちで、京官6品以下を対象に勤務評定を行い、与えられる散階に応じて官職を授けるシステムを作った。そして勤務評定の回数については4回(考)を限度として、最終的に官職の昇進か降格を決めたものと推定した。
 顕宗9年(1018)には、毎年正月から同年12月晦日までの、各官人の年間実質的勤務日を記した年終都歴が成立した。これにより、人事異動の業務を行う都目政は、ほぼ毎年正月に行われるようになったが、ポストの空きが生じた場合には、その都度都目政が行われ、諸々の候補者のなかから勤務日数の多い方が年終都歴によって選定されたものと理解できることを示した。顕宗9年の王命通りに運用されていた人事制度では、官人は1年未満から2年強以内に昇進することが一般的であった。
 しかし粛宗3年(1098)から、正月の都目政が12月に繰り下げられ、代わりに正月に兵馬使の人事があり、またその一環として2月と3月に京官の人事が行われる体制が整えられた。その後仁宗代(1122~1146)に入ってから、都目政はほぼ12月のみの実施となった。また、粛宗3年以降の参外官及び常参官の昇進にかかった期間についてのデータを整理・分析した結果、両者の任期が凡そ1年ないし2年であることを明らかにした。
 
 第4章「高麗時代の朝参と台諫の上疏」では、高麗時代に行なわれていた二つの類型の朝参と、朝参の際に行われる台諫の上疏のありかたについて検討した。
 まず、朝参に関しては、それが高麗前期の毅宗代以前には、ひと月に6回(月六朝参)行なわれ、文武百官が参加したことを確認した。また、月六朝参は、朔・3日・13日・望に確実に行われており、その他、具体的な実施日は不明ながら下旬にも2回行われていたものと推定した。しかし毅宗代には月六朝参がひと月に3回まで縮小し、「一月三朝儀」として制定された。また朝参の実在を確認しがたい武臣政権期及び事元期を経て、高麗末期の禑王代(1374~1388)になって朝参の規模はひと月に2回(2日と16日)まで縮小し、しかも儀礼の部分の廃止が繰り返され、国王の親政のみがかろうじてなされるにとどまった。
 次に、高麗前期には、月六朝参とは異なる類型として、常参官が参加した毎日朝参(常朝)があったことを実証した。
 最後に、月六朝参の際に台諫が国王に物事を訴える(上疏)儀式次第があったことを指摘し、その上疏(朝参の上疏)のありかたと、日常的に台諫が閤門に伏して差し出す疏(伏閤の上疏)との関係について検討した。
 第5章「高麗時代の奏と国政運営」では、官人がどのような時に口頭にて国王に上奏し、また官人と国王がどのような場面において対面し共同で国政運営を行ったのかについて検討した。
 まず、史料に基づいて確認できる、両者による国政運営の詳細で正確な最初の例が、靖宗8年(1042)に導入された奏対である。奏対は、国王が正殿で視朝をする日(月六朝参の日)に、百官各自が御前で直接物事を上奏し、それに関する国王の問いに適宜回答する政務を意味すると考えられる。奏対導入の意義は、これまでは基本的に文書である上奏文を通じてしか国王に申し出てその意思・裁可を請うことができなかったものが、定期的に政治的会話を直接できるようになった点にある。奏対に続き、同年より刑部の奏讞も導入された。刑部の奏讞は、刑部の官人などが重刑の刑事を国王に上奏し、国王は一人または宰臣・枢密と共にその裁判を「重刑奏対儀」の形で行った政務であった。奏讞の意義として、国王が、生死に関わる重大な案件について宰臣らと相談することで妥当な採決を下しやすくなった点が窺われる。
 次に、文宗即位年(1046)から、時政得失の奏が実施されるようになった。つまり、朝参の日に特別に報告の時間が設けられ、常参官らは当時様々な政治上の得失について報告し、国王と共にその得失について議論していた。時政得失の奏は、これまで封じて国王に奉られた書面(封事)にて伝わる意思伝達の方法を補い、国政運営のありかたをより充実させたものであった。
 
 第6章「高麗時代の美称功臣について」では、筆者が「美称功臣」と名づけた功臣の類型について概観し、またその運用実態について検討した。その内容は次の3点に整理できる。
 第一に、美称功臣の歴史的推移である。美称功臣は高麗の太祖代(918~943)に初めて創設され、顕宗代(1009~1031)に継続的に官人に与えられ始め、睿宗代になるとその被給者のほとんどを中書門下の宰相が占めることとなった。ところが明宗代(1170~1197)の末年に崔氏一族が美称功臣号の賜給を独占し、その状態が忠烈王(1274~1308)の初年まで続いていたが、後に宰相などの官人が再び受給対象となった。
 第二に、美称功臣の特徴である。美称功臣号に含まれる様々な美辞麗句は、ほとんどそれ以外の類型の功臣号(三韓功臣など)には入っていないことから、美称功臣は独立した功臣の類型であったと考えられる。またある美称功臣号は他の美称功臣号とはほとんど重複していないので、美称功臣号が各自の功績を顕彰するためのものであったと分かる。さらに官人以外の美称功臣号の被給者には国王、王族が見られるため、美称功臣は他の功臣の類型に比べて格式が最も高いものであったことが分かった。
 第三に、美称功臣の運用実態である。まず、筆者はできる限り網羅的に美称功臣号を整理した結果、それを複合型と単一型に分類することを提案した。複合型の美称功臣号は、実質的な行為を表す部分と、この部分の先に立ち、その行為を行う際の臣下の態度、姿勢、感情などを表す部分から成る。一方で、単一型の美称功臣号は、臣下の行為を表す部分、あるいは臣下の態度などを表す部分だけから成る。次に、美称功臣号の被給者の官職と与えられる称号に一定の対応関係があることを明らかにした。たとえば、「推誠」の称号は、六部の副長官など、「推忠」の称号は、現任の宰臣と枢密院の副長官に賜与されていたことから、職位の序列により、「推誠」が「推忠」よりランクが下であった。
 
 以上を通じて本論文では、高麗前期に存在した様々な官人昇進コースの実態と特質について明らかにし、また具体的に参外例調州県官コースなどにおける外官による京職兼帯の意義について新たな説を提示した。次に、官人の昇進が決まる高麗前期の人事制度のありかたについて検討した。また、官人と国王との対面の場である朝参の実態を解明し、官人と国王がどのように口頭にて国政運営を行ったのかについて論じた。そして最後に、功績で得られる報奨としての美称功臣の運用実態を明らかにした。