本論文は、明治前期に編纂された「府県史」と「皇国地誌」という二つの「地方史誌」を対象に、明治政府による編纂事業の構想と展開を考察するものである。
 江戸幕府に代わって全国統治を担い始めた明治政府は、文書行政を確立するなかで、様々な記録の編纂を進めた。その一環に「府県史」と「皇国地誌」という二つの「地方史誌」がある。「府県史」は明治七年から明治一八年にかけて、太政官の修史部局の管理のもと行われた修史事業である。「皇国地誌」は明治五年に計画が表明され、明治八年から明治一八年にかけて、太政官・内務省の管理のもと行われた地誌編纂事業である。
 「府県史」と「皇国地誌」はいずれも日本全国を対象に、編纂時から直近の過去を記録する編纂事業であった。その編纂経緯は明治政府の文書行政や記録認識を示すものとして、歴史学やアーカイブズ学の分析対象とされてきている。本論文は歴史学やアーカイブズ学の方法論を基礎に、近年公開された東京大学史料編纂所所蔵「修史局・修史館史料」等の公文書を利用し、別々に扱われてきた二つの編纂事業を「地方史誌」として併せて対象とすることで、両編纂事業の関係や政府が「地方史誌」に求めたものを考察する。
 
 本論文は五章構成を取り、これに加えて先行研究や課題を整理した序章、考察内容を総括した終章を設けている。各章の論旨は以下の通りである。
 第一章は、太政官正院歴史課が「府県史」編纂事業を開始した経緯を、正院地誌課が進める「皇国地誌」編纂事業との関係に注目することで検討した。先行研究は「府県史」編纂構想の起源を、明治六年一一月の「歴史課事務章程」の制定や明治七年一一月の太政官達第一四七号「歴史編輯例則」の公布に求めていた。これに対して本章は、早稲田大学図書館所蔵「大隈文書」に含まれる歴史課・地誌課の上申文書や、東京大学史料編纂所が所蔵する歴史課の史料を、稟議制による太政官の文書処理方法に即して読み解いた。その結果、「府県史」編纂構想が明治六年六月と八月の二度、地誌課の「皇国地誌」や歴史課の「藩史」編纂の上申と併せて表明されていたことを解明した。
 だがこれらの上申は、太政官制潤飾後の正院財務課の「財政の論理」や、それを受けた参議兼大蔵省事務総裁大隈重信の文書処理過程における異例の介入によって決裁が阻止された。「府県史」編纂計画は翌年一一月、先に認められていた「皇国地誌」編纂予算と経費を共用とすることで認められた。「府県史」と「皇国地誌」の編纂計画が相互に影響を与えながら具体化していく、両「地方史誌」編纂事業の初発の経緯を明らかにできた。
 第二章は、明治政府の各省で構想されていた地誌編纂が「皇国地誌」に集約され、その編纂が具体化していく経緯を、官員の意見書類を用いて考察した。第一に、民部省地理司の杉浦譲の「地理図誌」編纂構想は、「地理図誌」が行政上の実用性を有する旨を中国や欧米各国の事例をもとに述べたが、省内の反対から実現しなかった。第二に陸軍省参謀局の徳岡緝凞は、中国の「一統志」と近世日本の「日本型地誌」を比較して大規模な資料収集・実地調査を伴う編纂を主張し、これは明治五年四月に陸軍省の「全国地理図誌」編纂として実現した。第三の構想は正院地誌課の塚本明毅によるもので、明治五年九月、陸軍省の「全国地理図誌」を正院が「皇国地誌」として編纂を引き継ぐ旨が布告された。第四に、陸軍省参謀局・正院地誌課に属した阪谷素は、府県の編纂負担を考慮しつつ実用的な地誌・地図の完成を期す意見書を記したが、その構想は実現しなかった。
 明治六年五月の皇城火災による太政官の記録の焼失と、それに伴う政府内の記録保存認識の高まりは、「地方史誌」編纂構想の具体化をもたらした。行政上の実用性と記録保存の緊急性という二つの意義が認識されたことで、歴史課において新たに「府県史」の編纂が提起され、未確定だった「皇国地誌」の編纂経費も明治七年四月に決定された。ところが地誌課は、同年八月の内務省地理寮への合併、明治八年九月の正院修史局への合併という二度の移管に直面する。第二章後半では地理寮への移管を推進した杉浦譲の記録認識を、杉浦が見聞した江戸幕府の外国奉行の外交書類編纂や、立案した正院記録局の制度を踏まえて検討し、杉浦が明治七~八年の内務省による「記録文書保存」政策に関与した可能性を指摘した。地誌課の二度の移管は、全国の官民の記録を内務省に集約しようとする杉浦の意図と、「記録文書保存」政策の形骸化によるその挫折から説明できると論じた。
 「府県史」と「皇国地誌」はいずれも、府県に編纂を委ね、それを政府の担当部局が管理する方針を取っていた。第三章は太政官の歴史課・修史局・修史館といった修史部局による「府県史」編纂管理業務を、「修史局・修史館史料」に残る府県と修史部局との伺・指令から検討したものである。この業務は文書の作成や史料・図書の収集保存といった記録管理を専任とする官員が担当した。彼らが作成した「府県史」に関する文書往復の目次や、府県別に文書を綴った往復書、典型的な伺・指令の抄録集からは、伺・指令の傾向が数量的に検討できる。修史部局は、府県が明治七年一一月の「歴史編輯例則」に沿いつつ、例則を主体的に解釈して「府県史」を編纂することを期待し、その過程で出た疑問に関する伺に適宜指令して、編纂基準を洗練させようと試みていた。翌明治八年に二度通達された「分類細目」は、各県との間で個別に交わされた伺・指令の内容を整理し、全府県の体裁の統一を図るものだったが、府県による条目の追加を認めるなど府県別の事情を汲み取る姿勢は放棄されていなかった。
 しかし、こうした伺・指令や督促には限界があり、府県における編纂は停滞した。経費・人員・期間の不足や、根拠となる記録の不備散逸を理由とする提出猶予が相次ぐなど、行政上の実用性や記録保存の緊急性といった当初の「府県史」編纂の目的に反する事態が広まっていた。これを受けて同じ状況にあった内務省の「皇国地誌」と同様に、「府県史」は明治一八年度より修史部局が直接編纂することになった。史筆に長じた官員を雇い、各省の記録を収集して不足分を補う作業が開始されたが、太政官制から内閣制への移行に伴う明治一九年一月の修史館の廃止によって、「府県史」編纂も未完のまま中止された。
 第四章は「府県史」の編纂にとどまらない、修史部局全体の記録管理制度を取り上げた章である。まず、明治五年一〇月の正院歴史課の成立に先立ち、「全国地理図誌」と「政記歴史」を編纂する史誌撰修課の設立が構想されていた点など、太政官の記録管理部局から修史部局が派生する経緯を再考した。ついで修史部局の記録管理制度と、それに従い作成されて「修史局・修史館史料」に残存する簿冊類を明らかにし、表に整理した。これらは第一章~第三章の考察の前提であるとともに、今後の修史事業史やアーカイブズ学の研究を進める上で基礎となる研究と言える。
 第五章では、「地方史誌」の編纂と対をなす地方行政文書管理政策として研究史上論じられてきた、明治政府の府県文書引継制度について考察した。近世の幕藩領主の文書引継を確認した上で、目録や演説書の作成といった文書引継方法が新政府成立後の支配の交代時に踏襲されたことを述べた。明治四年の廃藩置県後もこうした旧慣による文書引継が続いたが、その限界から明治六年の地方官会同に際して大蔵省は府県文書引継制度の制度化を図った。府県に限らない引継事務一般を定めた「引継事務取扱規則」(明治六年二月二四日決裁)と、府県の統廃合・長官転免時の事務受渡を定めた「府県事務受渡規則」(明治六年七月一七日、太政官布告第二五一号)という二本立ての制度が成立した。
 明治九年の第二次府県統合における両規則の参照状況を各県庁文書から分析したところ、府県には「引継事務取扱規則」が達された一方、太政官布告である「府県事務受渡規則」は通達されなかったが、文書引継は「府県事務受渡規則」に沿って進められたことを指摘した。その後、地方三新法の制定等によって、両規則と現行の地方制度に乖離が生じた。そこで明治一六年の府県分合に際して、内務省は「分合府県授受規則」を伺い、府県分合時の地方税の処理方法を定めるとともに、「引継事務取扱規則」を更新しようと試みた。結果として参事院の修正により、「分合府県授受規則」ではなく条文を一五条から七条に短縮した「事務受渡手続」が制定された。「事務受渡手続」は府県分合時に個別に達されたが、明治二一年の香川県設置時には一一条に修正した「事務受渡手続」が通達された。
 終章では以上の考察を通じて、明治前期の地方史誌編纂について次のように論じた。各省の地誌編纂構想は、地誌・地図に表される地理的情報に行政上の実用性を見出すとともに、中国や欧米への意識から国家にとって不可欠の記録として地誌を位置付け、明治維新にあたって地誌編纂の大成を期すものであった。明治六年五月の皇城火災は、さらに記録保存の緊急性を政府に認識させ、歴史課の「府県史」も含めた地方史誌編纂の実現を後押しした。だが、そうした意義は編纂が停滞するなかで薄れていき、地方史誌の編纂は内閣制の施行に前後して、同時期に行われていた各省の編纂事業と同様に中止された。この経緯は、より実用的な事務受渡という側面から府県文書引継制度が強化されていくのと対照的である。明治前期の地方史誌は、近世の地方史誌を意識しつつ、行政上の実用性と記録保存の緊急性といった新たな要素をもって始められ、しかし近代の学問としての歴史学や地理学には継承されない過渡期の編纂物であったと位置づけられる。