中国の魏晋南北朝時代に関する重要な問いの一つに、そこから中央集権的な政治体制をもち、かつ多民族を包容した隋唐世界帝国がいかにして生まれたのか、ということがある。これまで隋唐の形成をめぐっては、大きく分けて二つの立場から議論が積み重ねられてきた。一つは、貴族制の観点から中国の内在的な発展に注目したものであり、もう一つは、周辺諸族が中国に与えた影響力を重視したものである。とりわけ後者の立場については、近年にかけての石刻資料の発見をうけて、北朝の鮮卑兵制などの遊牧制度やソグド人が隋唐形成に与えた重要性などが指摘されている。
 本論文ではこうした先行研究の成果を踏まえつつ、隋唐に繋がる北朝独特の権力構造を反映したものとして、北朝の恩倖に注目した。中国の正史には佞幸伝や恩倖伝など、皇帝の寵臣に関する列伝がしばしば立てられる。かかる列伝において、基本的に恩倖は皇帝の寵愛をうけ、政治を混乱させたネガティブな存在として描かれる。ただしその一方で、六朝の貴族社会にあっては皇帝が貴族勢力と対抗するために寒門寒人出身の恩倖を頼り、権力を高めたという見方がなされることもある。本論文では特に墓誌などの石刻資料を用いつつ、遊牧社会からの影響をうけて北朝の恩倖が変化し、隋唐へと繋がる重大な権力構造の変化が起きたことを論じた。
 第一章では、魏晋南北朝時代で最後に編まれた恩倖伝である『魏書』の恩倖伝をとりあげ、その叙述上の特徴を検討した。北斉で編纂された『魏書』の特徴の一つとして、魏収が家譜を整理しようとしたことがあるが、恩倖伝にみられる家柄の自称などの記事から、そうした『魏書』の性格は恩倖伝にまで及んでいたと判断される。また魏収は、沈約の『宋書』恩倖伝のように寒門寒人を恩倖とみる南朝的な恩倖観を受け継いでいた。すなわち魏収は、孝文帝の姓族分定以後に現れた門閥貴族に対置される存在を恩倖として想定していたのである。しかし注意すべきこととして、魏収が描こうとした恩倖はほとんど孝文帝以前に及ばなかった。北魏前期には恩倖的ではあるものの、忠節の臣として評価された人々が多く存在していた。また『魏書』以前の魏史にも恩倖伝はあったが、そうした恩倖は魏収の描く恩倖とは異なるものであり、李沖のように恩倖であっても政治的な活躍が認められていた。以上のことは、北魏内朝官のような遊牧的な制度の影響をうけつつ、被征服部族や地域からの人材登用を積極的に行ってきた北朝の政治文化に由来している。つまり、魏収の恩倖観と北魏の政治的現実のはざまで、『魏書』の恩倖の概念は揺らぎ始めていたのである。
 第二章では、唐初に勅撰された南北朝後期の正史のなかで、恩倖伝が消失した背景を論じた。唐初に編纂された五代史と呼ばれる『梁書』『陳書』『北斉書』『周書』『隋書』と、そこに『晋書』を加えた六書のなかで、恩倖伝が立てられたのは『北斉書』のみである。このことは漢代から南北朝期にかけて佞幸伝や恩倖伝に相当する列伝が立てられ続けたことに照らせば特異なことであったが、こうした現象が起きた背景に、門閥貴族社会における恩倖伝の形成と解体の過程があった。すなわち、南北朝時代では『宋書』恩倖伝を一つの画期として、恩倖の出現を九品官人法の成立とそれに伴う門地主義の人材登用に帰す観念が生まれた。そうした恩倖=寒門寒人とみる恩倖伝の理念は、基本的に南北朝期において維持されようとした。その一方で、五代史のうち唯一の恩倖伝である『北斉書』の恩倖伝は、北斉で勢威を有した勲貴や西域胡人等をはじめとする多様な出自の人々を混成させて成ったものであった。つまり唐初に至ると、恩倖伝は北周・隋を正統とする政治的立場を示すことを意図して作られるようになったと考えられる。そこで門閥貴族社会における恩倖伝はすでに解体していたのである。
 第三章では、『北斉書』恩倖伝のなかに隋代以後の中央集権に繋がる動きが反映されているという見通しから、北斉「恩倖」がどのように皇帝や権力者と結びついたのかを検討した。「和安碑」「和士開墓誌」にみられる嘗食典御・主衣都統の職責は、それぞれ皇帝の御膳・御服を掌ることであったが、その就官者は北朝時期の政変や監察、執政の補佐に深く関与した。これらは遊牧的な制度の影響を受けたのと同時に、北魏末から東西魏の二重権力状態を背景に出現してきた北朝独特の官職群であり、「君主家政官」とよぶべきものであった。君主家政官は当時の官制系統のなかで柔軟に運用され、胡漢の諸階層へと浸透・拡大していき、出自を問わない有為の人材が皇帝や権力者の周辺に集められることになった。君主家政官が漢人門閥にまで広がっていったことの背景には、北斉における門閥体制そのものの変化・動揺があった。そのなかで、貴族勢力の地方僚属に対する辟召権が失われていき、隋の開皇年間における郷官廃止及び科挙制定の伏流となったと考えられる。すなわち北斉「恩倖」の背後には、旧来の門閥体制の動揺や社会階層の流動という潮流があり、そのことが隋代以後の中央集権へと繋がっていくのである。
 第四章では、第三章で論じた君主家政官に関連して、堯氏一族の墓誌を用いて東魏北斉の堯氏の地位上昇を論じた。東魏北斉の高氏の陵墓の近傍には堯氏の家族墓が営まれており、そのことは彼らの地位の高さを視覚的に物語る。しかし堯氏は漢人寒門の出身であったと考えられ、彼らは北魏末期から戦乱に身を投じるなかで地位の向上を目指した。その過程で、堯峻は母である趙胡仁を介して、西南辺境にいた南陽出身の僑民との繋がりをもちつつ辺境での軍事に従事した。高歓はそうした堯氏や母の功績を称えて、堯峻の二人の兄の死後に彼らを「標賞」した。その結果、南陽郡君や君主家政官である主衣都統が授けられ、堯氏一族の家門の維持が図られるとともに、堯氏は東魏北斉の勲貴集団に参入を果たし得たのである。すなわち君主家政官からみた北斉「恩倖」の動きは、北斉漢人寒門の家族の地位にまで波及したと考えられる。堯氏の家族墓は、そうした東魏北斉における社会の流動性を象徴するものであった。
 第五章では、北魏内朝官の系譜を継ぐと考えられる「庫真」を検討した。庫真は北朝後期から唐初にかけてみられる鮮卑語の官称号とされ、これまでも北朝における北アジアないし中央ユーラシア由来の遊牧文化の保持という観点から研究者の関心を集めてきた。そうした先行研究の成果を踏まえつつ、とりわけ本章では、庫真が門地によらずに授受されたことに注目した。庫真は東魏北斉にあっては、北族系統の人物を君主の私的な護衛にあたらせる一種の慣行であり、就任した者は寵臣や家奴とみなされることもあった。その後、庫真が隋唐にかけて就任の範囲をソグド人や漢人にまで広げていき、また様々な職掌を担うようになると、これを将来の出世につながる栄典とする見方が強まった。その結果、唐代の石刻資料では庫真を起家官とみなす事例や、唐太宗の庫真出身であることを誇示する事例が急増する。さらに『新唐書』忠義伝に載せる唐建国の功臣にも、庫真出身者の名がみられるようになる。このように遊牧文化に端を発した庫真は、隋唐帝国形成期における中国王朝の人事にまで強い影響を及ぼしていったのである。
 第六章では、北周における「恩倖」を論じた。近年の議論のなかで、北周の官制のなかに遊牧的な要素が入り込んでいることは確実視されている。ただし北周では『周礼』にもとづく六官制が施行されたことで、その実態を論じるには困難がつきまとう。そこで本章では、周隋革命の際に重要な役割を演じたとされる佞臣、すなわち鄭訳や劉昉を中心的にとりあげ、その経歴や政治史上の位置づけを再考した。彼らはこれまで漢人門閥の出身とされてきたが、しかし『周書』『隋書』で北周の「恩倖」とされた人々には、西魏草創を支えた元勲の家系に連なる者も含まれた。すなわち、彼らは門地のみに拠ったのではなく、文武の能力をもって西魏北周政権に参入していったのである。また北周「恩倖」の官歴として重要なものの一つに、北周宣帝の皇太子時代における太子宮尹・宮正があった。このポストは『周書』において「忠臣」と位置づけられた人々の任官経路とも共通するものであった。つまり、北周の政治史的展開における「恩倖」と「忠臣」の境界は曖昧であり、両者はいずれも北周の皇位継承の安定のために皇太子のもとに集められた才能ある人材であった。
 以上の各章の検討によって、本論文が明らかにしたことは以下の二点にまとめられる。第一に、遊牧的な制度や政治文化の影響をうけた北朝の政治的現実のなかで、門閥貴族社会における恩倖伝が動揺・解体していった。第二に、北朝の政治的現実のなかで、社会の流動化が推し進められるとともに、才能ある胡漢の諸階層が皇帝権力を支えていくことになった。
 すなわち、本論文が論じた北朝の政治的現実とは、北朝恩倖政治という政治形態とみることができる。それはこれまでの研究で考えられてきたような、寒門寒人に限定される現象ではなく、遊牧的な制度の影響をうけつつ、胡漢・文武の諸官僚層を皇帝のもとに一大結集した北朝独特の政治形態であった。そうした政治形態こそが、中華世界と遊牧世界に君臨する隋唐世界帝国の政治権力の濫觴となったのである。