本論文は、増上寺を題材に、近世社会における将軍家菩提寺の特質を解明し、それを通じて、①江戸時代における、本山レベルの一山寺院の組織構造と存立構造について、その近世的特質を把握すること、②幕府恩赦制度から近世の政教関係の一端を明らかにすること、この二点を課題として設定し、分析を行った。
 まず序章では、近世宗教・仏教研究史を把握し、戦後の近世仏教史研究において辻善之助氏の『日本仏教史』(1944-1955)に代表される近世仏教衰微史観の克服が目指され、その中で研究が進展したことを確認した。その後1990年代から2010年代までの間に、近世の宗教や仏教に関する研究は、朝幕関係史や都市史、地域社会論、身分論と接続しながら様々な成果を生み出したこと、政教関係についても、辻氏以来の宗教行政観のように幕府の宗教政策を予定調和的に理解することの危うさが浮き彫りにされ、実証性が深化したことを確認した。その中で、本山レベルの一山寺院の分析が不足していることを指摘し、課題①を設定し、増上寺山内の組織構造の解明、および増上寺の存立構造のうち、武家との寺檀関係、および貸付を中心とする経済基盤の解明を具体的課題とした。課題②については、増上寺や寛永寺が幕府に罪人の恩赦を願う仕組みについて、先行研究をふまえてこれを近世仏教の「制外性」あるいは「アジール性」と捉え、その変遷を把握することを課題とし、それが近世の政教関係を明らかにし、近世社会の世俗化について考える指標になると指摘した。
 第1部「増上寺の僧侶集団と寺院運営」では、課題①のうち組織構造について分析した。第一章「増上寺の組織構造と僧侶集団」では、増上寺の山内の僧侶集団が「所化方」「方丈方」「寺家方」に分けられることを確認した上で、各集団の山内における役割や編成のされ方、相続の形態などを明らかにした。第二章「増上寺僧侶と配下寺院の住職決定過程」では、そのうち方丈方と寺家方が関わる、増上寺配下の寺院住持職の決定方法を解明し、またこれを通じて起きた争論と幕府による裁定から、両集団の関係性を示した。結論として、①増上寺の僧侶集団は内部階層性が希薄であり、それぞれの集団ごと、さらには集団内の個人ごとに、異なる利害関係が存在し、またそれぞれが一山の中で役割を果たしていたこと、②しかし寺務に関する議決は、方丈方を含む一部の寺内官僚によって担われる組織構造だったため、争論が生じたとき所化方は方丈方に対し自立性を発揮しやすく、山内の秩序回復のためには方丈方が幕府権力を頼る必要があったと分析した。そして内部階層性が希薄な集団の形成、寺院運営体制を担う寺内官僚の形成と、幕府権力への依存とが連関して進展していくと結論づけた。補論「大念仏信仰の近世教団化と宗派間関係」では、大念仏宗を題材に、近世以前から教団形成が進んだとされる宗派教団とは異なる、近世初期の教団化の様相を明らかにし、またこのような周縁的な教団・寺院が、朝廷(公家)権威と結びついてゆく様相、そして江戸時代に必ずしも宗派の境界が明確でない状況があったことを明らかにした。
 第2部「増上寺の存立構造と武家」では、課題①のうち増上寺の存立構造について分析した。第三章「増上寺の子院と大名家」では、幕府に対する役を通じて武家が増上寺の子院や学寮と関係性を形成していく様子、また武家と増上寺山内子院・学寮の葬祭・祈禱寺檀関係を明らかにし、宿坊檀家となった大名家が、その寺院の住職選定に関与できたこと、その際自領出身の僧侶を住職に据えようとする動きがあったことを指摘した。
 第四章「増上寺貸付の様相と展開」では、増上寺の財政構造の一端として、貸付の内実と変遷を、武家貸を中心に分析し、まず貸付金の収入は組織運営上の必要経費を賄う共同経費であり、また増上寺の貸付が浄土宗教団内の共済機能を果たしたことを指摘した。そして文政期までは、山内の各組織がそれぞれに関連する資金の貸付を、教団内に加えて寺領百姓と武家に限定して行っていたこと、宿坊関係を背景として特に広範な武家貸しを行っており、寺社奉行にもその内実が把握されていなかったことを指摘した。武家にとっては江戸での一時的に必要な資金の借先として機能し需要があり、増上寺側は常に資金を流動させることで、寛政期頃まではある程度の利息収入を獲得できていたと分析した。しかし武家貸の難渋により、幕府の許可を得て文政期に商人資本による名目金貸付が開始され、一方でそれまでの武家貸も継続し、幕末になるにつれ武家貸の貸付総額は一山全体で増大したと結論づけた。
 第3部「幕府恩赦と将軍家菩提寺」では、増上寺や寛永寺が将軍家年忌法要の際に提出する赦帳を通じて行われた恩赦制度=「法事の過去の赦」の内実と展開を分析した。第五章「十七世紀における幕府の赦と寺院・僧侶」では、十七世紀における赦の内実や赦免対象者を分析し、さらに法要以外でも特に天海の嘆願を通じて多数の武士層の赦免が実現していたことを明らかにし、初期の両山による赦免嘆願は、武士層の勘気の宥免や大名預の解除が中心であったと指摘した。第六章「近世中後期における幕府の恩赦と寺院」では、赦帳による恩赦がすでに制度化した十八世紀以降の法要の過去の赦を分析し、広範な庶民層が嘆願を行うために両山との縁故を必要としたこと、また幕末に幕府内部で祝儀の赦と比較して赦帳の制度の不平等性が指摘され、一部不備が補われながらも、赦帳の仕組みが継続していったことを指摘した。そして第3部を通じて、法事の過去の赦は、主君の勘気を被った家臣の罪の赦免を、将軍と関わりの深い僧侶が願った事例が拡大し制度化していったものであり、本来的には僧侶や寺院に備わるアジール性によって成り立つものだったが、江戸時代を通じてそれが変質し、近世後期になるとその本来的な意味や性質が理解されなくなったと分析した。そしてこれを近世の世俗化の一端と捉え、この世俗化が幕府の統制によって進んだのではなく、寺檀関係の形成や法制度の整備、祝儀の赦の制度化、赦の一般化によって徐々に進展していったという点が、江戸時代の政教関係を考える上で重要だと指摘した。
 終章においては、本論文の成果を概観した上で、今後の課題として、①近世的な寺院運営体制と、江戸幕府寺院行政の基調である、学問重視政策との関係分析を深化させる必要があること、②師資関係(法流)にもとづく相続の論理と、仏教教団における学問重視の基調は相剋する側面があることから、浄土宗教団における法流の果たした役割を明らかにした上で、両者の関係や江戸時代を通じた変遷を明らかにする必要があること、③将軍家の菩提寺や祈祷寺の山内寺院と武家との関係について、幕藩関係から把握する必要があることを述べた。また、①や②について、近世の世俗化(=近世社会における政治・経済などの領域と、宗教的要素の分化)も論点としながら考えていくことで、新たな近世宗教社会像が描けるのではないかと展望を述べた。