本論は, 歴史的に関連している二つの学説, ともにたしかに認識論的ないし認識批判的であり, ともにたしかにまた方法論的でもある二つの論理学の体系, すなわち, 一方のヘルマン・コーエンの論理学説と他方のエルンスト・カッシーラーのそれとについて, そのあいだの実質的な連続性と, とはいえやはりとくに不連続性とを浮き彫りにすることで, 論理学の一つの小さな「歴史」を, それも真正の発展史として, 提示せんとするものである.
 この仕事に取り掛かられるに先立って, ただ, 本論にあってはなお別の一つの学説史がそれなりの分量において叙述されることとなる. ことがらの実質においては, やはりたしかに「歴史」が叙述されるなかでそこに展開されているのは, 本論をしてかような主課題へと向かわせるにいたった一箇の哲学的な根本的問題意識である. 実践的なものが理論的なものにともかくなんらかの点で「先立つ」だとか「優位する」だとかいった語りが, 哲学では, わけてもこの領域においてなされる根本的には倫理学的に方向づけられた論議においては, なされることがしばしばあるが, たったいま言われた「問題意識」とは, もっともおおまかな輪郭においては, まさにこの命題の妥当性に関連するものであり, なお具体的には, とくに学としての数学の「価値」の基礎づけというこの問題系におけるその妥当性をめぐっての一箇の疑念こそ, 本論の全体を根底的に導いている問いであり, その導入部分の主題をなすものにほかならない. 数学について, 数学の理論について, これのひたすら現実存在にかんしてともかくそれが述べ立てられているにすぎない場合には, くだんの命題がなおそのうえにくだんの問題系にあって自身の占めるべき位置を要求することがもしあったとして, この要求それ自体は別になんら不当なものであるわけではない. このようなごときものに対しては, みずからの求めている権利や権限がほとんど無にもひとしいものだということについてのあらかじめの理解に立ってそうするようにと, 前もって声をかけておけばこと足りる. 数学的成果がすべて, その現実存在の点で, なにかともかく実践的な契機により「先立たれて」いるというのはなるほど否定しがたい確かな事実ではあるけれども, とはいえこの「事実」がまた, まさにそれに種的なこの普遍妥当性により, われわれの問題系においてほとんどなんらの積極的に構成的なはたらきもすることができないというのもまた, 劣らず確かなことである. というのも, この問題系にあって主としてそれへと向けて問われているところのものが, 一箇の真正の「価値」であるからだ. 他方, 一般に, およそ人間の創作物にあてがわれうる名であって「存在」というそれほどに空虚なものもない. 数学的宇宙にあって, 確実であり, さらに有意義であることができるのは, さしあたり仕上げられてしまっている成果だけである. 極端な言いかたをすれば, 書きかけの証明にとっては書き手の行為がすべてだが, 書き上げられた証明にとっては, この行為はもはやほとんど「無に近しい」のだ. それの発生の過程をどれほど子細にたどりきってみせたところで, 各々の数学的成果の個体的価値そのものの「妥当性」という普遍的な権利問題にはほとんど指一本ふれたことにはならない. たんなる事実を述べ立てる, なにかそれ以上のものであろうとする越権にいまくだんの要求がもし及ぼうとしているとして, だから, ちょうど, 「自分はとくにテニスをうまくプレイすることができるようになりたいとは思わない」という別段親しくもない知人の発言には, 「ご勝手に」というぐらいのものしかかけることばを見つけることができないように, そもそも, これに対してわれわれのほうでなにか言うべきことは, ほんとうはなにもないのである.
 他方, 〈事実問題〉と〈権利問題〉との区別が, だから, 「存在」と「価値」との区別が堅持されたうえで, われわれの問題系にあってなお, 実践的なものが理論的なものにともかく「優位」するしだいが説かれる場合には, ことはもはやこれほど簡単に片づけることのできるものではなくなってしまっている. いまや問われているのは, 「真理」の価値性なのである. 本論はこの問いにそして, 否定でもってこたえんとするもの, つまり, ここまで存在について言われてきたのとほとんど同じことが真理についてもまた言われうると, こう主張せんとするものである. この立場からして, はたして, 本論にあっては, 数学の哲学に属する古典的な哲学的学説たちのなかから, 数学的認識に対する批判としてのカッシーラーの「論理学」が最高度に模範的なものとして際立たせられることとなる. ライプニッツ的な「結合法」ないし「普遍数学」の理念が, この論理学にあっては実に, むろん特有のしかたで内化されたうえで, そこからして数学史の全体が一つの論理的本性において通覧される根本的観点となっている. この一つの光源から照射される透徹した批判の光の下で, 数学的諸成果の歴史的総体のうちにいくつもの範例が浮き彫りにされ, それらはみな, 突き詰めてみればいずれも同じ一つの結合し関係づける思考の作用ないし「手続き」の所産であるしだいを打ち明けることを, はたして強いられるはこびとなる. カッシーラーの論理学的な歴史哲学からしてみれば, 数学史とはつまるところ, もっとも単純な概念
と理論が形成されるに際してもうすでに規定的にその根底のところではたらいていたのと同一の理論的に方向づけられた「創造的エネルギー」が, たえずよりいっそう包括的で複雑な関係的秩序へとおのれをかたちづくってゆく自律的な自己形態化の過程以上のものでも以下のものでもない. この意味で, カッシーラーの論理学にあって数学は, なるほどその全体において「理想的な」ものとなっているというのは間違いないにせよ, とはいえ, 一方では, たとえばハンス・ファイヒンガーのごときひとにあってはまさにそうであったわけであるけれども, なにかともかく実践的な目的に奉仕することにおいてみずからの価値をひたすら有用な道具として示すばかりのたんなる「虚構」より, 他方ではまた, たしかに形式論理的には無矛盾であるけれども, しかしそれだけの合規則的ゲームより, やはり端的に以上のものでありえている. なによりそして, カッシーラーの認識批判的な数学の基礎づけは, 徹底して一箇の哲学的方法にしたがいつつ理論的領域から一歩も踏み出すことなく遂行されてはいるけれど, しかし, この語でもってなにかともかくあらかじめ絶対的なしかたで自存している一箇の実体のことが解されるかぎりでは, 「真理」の影も形も, 積極的な意味においては, もはやそのうちのどこにもわれわれは認めることができない. 数学「史」の叙述をつうじてカッシーラーは, 数学が一箇の自立した真正の学だということを, とはいえその価値と意味がひたすらくだんの「創造的エネルギー」に基礎づけられた方法上の統一性と完結性に尽きているような一箇の文化財だということを, 示そうとしている.
 もっとも, カッシーラーの論理学に特徴的なのは, 数学のこの方法上の自己完結性がそこにあって同時にまた「実在性」でもあるということである. とくにこの価値は, その妥当性において, 数学と自然認識の根源的親和性を前提している. 認識批判の根本問題をカッシーラーが一貫して数学の「自然」への適用可能性のうちに認めていたというのは確かである. ――論理学はところで, コーエンにおいてもうすでに, たしかに「数学」の論理学であったし, たんなる形式論理学とは違ってまた, たしかにこの学の「適用可能性」をみずからの根本問題とする認識批判でもあったし, 最後に, 一切を一箇の思考上の「産出作用」に還元してしまわんとするその根本的傾向において, たしかに方法論でもあった. 師の「超越論的方法」による論理学の内実が弟子のそれの形成に及ぼした影響の大きさは, けっして小さくない. とはいえ本論は, この連続性よりはるかに以上に, 前者の「無限小概念の基礎づけとしての論理学」と後者の「数学的関数概念の論理学」とのあいだの実質的な隔たりをこそやはり強調せんとするものである. 近現代の数学に対して向けられたコーエンの批判的な問いそのものはいまなお顧慮されるに値するものだ. とはいえ, そのように思われるのだが, この問題, つまり「存在」の問題は, コーエンの場合, やはり純粋に論理学的なそれではないし, はたしてこのことで, その論理学は深刻な不整合を内包するに及んでしまっている. そればかりではない. 同時代にともにたしかに「新カント派」の代表者として活躍していたヴィルヘルム・ヴィンデルバントのようなひととくらべて, 実践的なものと理論的なもの との関係の問題において, コーエンは正当にもはるかに慎重な態度をとっていたと見なされえようが, その論理学の基底部分にあってすら倫理学主義は――むろん, 特有のしかたで――規定的にはたらいてしまっていて, 先の問題と相まってこれは, この学説の現代的意義をかなり狭く限定してしまっているものと思われる. その徹底した方法的首尾一貫性と自己完結性において, これらの難点がいまや弟子の論理学において完全に克服されるにいたったとき, 間違いなくここに, 論理学の歴史は真の進歩を経験している.